第3章 第11話「おかえりの声」
列車が動き始めてから、ルナは収納バッグから包みを取り出した。
エマにもらったパンだった。
布を開くと、小さな丸いパンが並んでいる。
「食べようか」
「はい」
ユニの返事は早かった。
ルナは一つを差し出し、自分の分を取る。
にゃん吉君がユニの頭上から身を乗り出した。
「にゃん吉君にもあるよ」
「ワン」
ユニが受け取り、頭上へ差し出す。
小さな口が、パンの端をくわえた。
ルナも一口かじる。
薄い皮の内側は柔らかく、噛むとほのかな甘さがした。
「おいしい」
「はい」
窓の外では、さっきまでいた町が少しずつ遠ざかっていた。
並んだ屋根が途切れ、畑が見え始める。
ソフィアは、今も本を読んでいるだろうか。
それとも、少し疲れて眠っただろうか。
「クッキー、買いに行けるといいね」
「はい」
「エマさん、きっと喜ぶよ」
ユニは小さく頷き、もう一口食べた。
頭上で、にゃん吉君も口を動かしている。
ルナは少し笑った。
「二人とも、同じ速さで食べてる」
ユニが手元を見る。
にゃん吉君も動きを止めた。
「そうですか?」
「うん。今も一緒に止まった」
「ワン」
列車が、緩やかに曲がっていく。
ルナは残りのパンを口へ運び、背もたれへ身体を預けた。
*
王都へ着いた頃には、駅の大きな屋根の下に灯りがともり始めていた。
扉が開くと、冷たい空気と一緒に、何人もの声が車内へ入ってくる。
荷物を運ぶ人たちの掛け声。
誰かを見つけて名前を呼ぶ声。
ルナは長杖を手に、ホームへ降りた。
人の流れが、いくつもの方向へ分かれている。
頭上の案内を見上げ、出口へ向かった。
「こっちだったよね」
「はい」
ユニが隣を歩く。
駅舎を出ると、広い通りの向こうまで馬車が続いていた。
店の窓が明るい。
石畳を踏む音が重なり、通りの角から焼いた肉の匂いが流れてくる。
「……帰ってきた」
口にしてから、少し不思議に思った。
ルナの家は、ここにはない。
それでも、見覚えのある通りに立つと、肩の力が抜けた。
「お姉ちゃん、まだお店かな。先に行ってみよう」
「分かりました」
「ワン」
ルナは収納バッグの位置を直し、歩き始めた。
*
パン屋の扉を開けると、焼けた小麦の匂いがした。
棚には、まだいくつかパンが残っている。
奥で籠を片づけていた姉のセシルが、顔を上げた。
「いらっしゃいま――」
声が止まる。
ルナを見る。
その後ろのユニを見る。
「……ルナ?」
「ただいま」
セシルは籠を置き、早足で近づいてきた。
ルナが何か言う前に、両肩へ手が触れる。
「いつ着いたの?」
「今。駅から来たところ」
「そう……」
セシルはルナの顔を見つめ、それから抱きしめた。
ルナも空いた手を姉の背中へ回す。
服から、パン屋の温かい匂いがした。
「帰ってきたよ」
「うん。おかえり」
少しして身体を離すと、セシルはユニへ向き直った。
「ユニさんも、おかえりなさい」
「ただいまです」
「ワン」
「にゃん吉君もね」
セシルが笑う。
その目が、ルナの手にある長杖で止まった。
「その杖……」
「旅の途中で、少し変わったの」
「少し?」
「それも、あとで話す」
セシルの視線が収納バッグへ移る。
「荷物はそれだけ?」
「うん。これ、アメリアさんにもらった収納バッグ。ほかの荷物も入ってる」
「アメリアさんって、新聞の?」
ルナは頷いた。
セシルは何か言いかけて、店の奥を振り返った。
「聞きたいことが、たくさんあるんだけど」
「まだ仕事だよね」
「あと少し。先にギルドへ行っていてくれる? 終わったら私も行くから、一緒にご飯を食べよう」
「うん」
「今夜はうちに泊まっていくでしょう?」
ルナは姉を見た。
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ、そうする」
ユニへ顔を向けると、小さく頷きが返ってきた。
「私は宿を取ります」
「ユニさん、すみません。部屋が狭くて」
「大丈夫です」
「ワン」
にゃん吉君も返事をした。
セシルはもう一度ルナを見て、笑った。
「すぐに行くから」
「待ってるね」
*
冒険者ギルドの扉は、思っていたより重かった。
ルナが押すと、内側から賑やかな声が流れてくる。
受付に並ぶ人。
掲示板の前で話す人。
食堂へ皿を運んでいく人。
近くの卓にいた男が、こちらを見て目を見開いた。
「おい、ユニが戻ってきたぞ!」
何人もの顔が上がった。
「あ、本当だ」
「試験以来じゃないか」
「あの時、俺も見てたぞ!」
ユニは立ち止まり、声の方を見る。
「戻りました」
返事を聞いて、男が笑った。
「西へ行ったって聞いてたが……第九十九層まで攻略したって、本当なのか?」
「はい」
周りが一段と騒がしくなった。
「アメリアと一緒だったんだろう?」
「新聞に載ってたな」
「待てよ。じゃあ、隣の子がルナか?」
ルナは顔を上げた。
男の視線が、自分へ向いている。
「え……はい」
「ああ、やっぱり。その杖も見覚えがある」
「頭上の白いのもだ。にゃん吉君、だったか?」
「ワン」
にゃん吉君が鳴く。
それだけで、近くの卓から笑い声が上がった。
「返事したぞ」
「ちゃんと名前が分かるんだな」
ルナはユニを見た。
注目されるのには慣れたつもりだった。
けれど、それは隣にいるユニへ向けられたものだった。
今日は、自分の名前まで知っている。
「あの……そんなに、知られてるんですか?」
「そりゃあ、アメリアと第九十九層を攻略した一行だからな。遠くから来た商人まで、その話をしてたぞ」
ルナは返事に困った。
どこを見ればいいのか分からず、長杖を握り直す。
その時、ユニの頭上で白いものが動いた。
「ワン!」
にゃん吉君が飛んだ。
「あ」
ルナが声を出した時には、もう受付へ向かっている。
こちらを見ていた受付嬢が、ぱっと両腕を広げた。
「にゃん吉君!」
白い身体が、その腕の中へ飛び込んだ。
受付嬢が受け止め、胸元へ抱き寄せる。
「おかえりなさい」
「ワン」
「旅はどうでした?」
「ワン」
にゃん吉君は腕の中で落ち着き、満足そうに目を細めた。
ルナはようやく息をついた。
「びっくりした……」
「見つけましたね」
ユニはいつも通りだった。
受付嬢が顔を上げる。
「ルナさん、ユニさんも。おかえりなさい」
「ただいまです」
「ただいま戻りました」
ルナも頭を下げた。
受付嬢はにゃん吉君を抱いたまま、二人の顔を見る。
「ご活躍は届いていますよ。直接お話を聞ける日を楽しみにしていました」
「私まで知られているとは思わなくて……」
「お名前も載っていましたから」
ルナは少し頬を熱くした。
後ろから、さっきの男が声をかける。
「落ち着いたら話を聞かせてくれよ!」
「今、戻られたばかりですからね」
受付嬢が言うと、男は手を上げた。
「分かってる。まずは飯だな」
「はい。まずはご飯です」
ユニが答えた。
また笑い声が起きる。
ルナも、今度は一緒に笑えた。
*
セシルが来るまでに、ユニの宿も決まった。
受付嬢に近くの宿を教えてもらい、部屋を取ってから食堂へ戻る。
にゃん吉君は出かける直前まで受付嬢の腕の中にいた。
今はユニの頭上へ戻り、運ばれてくる皿を見ている。
「お待たせ」
仕事を終えたセシルが、卓へ近づいてきた。
「まだ頼んでない?」
「頼んだところ。お姉ちゃんの分も」
「ありがとう」
セシルがルナの隣へ座る。
すぐにスープとパン、温かい料理が運ばれてきた。
周りでは食器の音と話し声が重なっている。
ルナは匙を手に取った。
「いただきます」
一口飲むと、身体の内側まで温まった。
セシルはその様子を見てから、自分の匙を取る。
「それで。何から聞こうかな」
「何からって言われると……」
「第九十九層っていう数字を新聞で見た時は、読み間違えたのかと思った」
ルナの手が止まった。
セシルは穏やかな顔をしていた。
それが少し怖い。
「危ないところだったんでしょう?」
「……うん」
「怪我は?」
「今は、大丈夫」
「今は?」
ルナは隣のユニを見た。
ユニはパンをちぎっていた。
助け舟は来なかった。
「ちゃんと話すから」
「うん。聞く」
セシルは皿を少し手前へ寄せた。
「食べながらでいいよ」
話は、何度も途中へ戻った。
アメリアと出会ったこと。
最初は、なかなかうまく話せなかったこと。
ダンジョンで一緒に進み、少しずつ役割を任せてもらったこと。
「最初は、結構きついことも言われた」
「そうなの?」
「うん。でも、私が怪我をしたりするのを、本気で心配してたんだと思う」
ルナは収納バッグへ手を添えた。
「これも、もらったし」
セシルがバッグを見る。
「大事にしないとね」
「うん」
第九十九層の話になると、セシルの相槌が少なくなった。
ルナも、言葉を選びながら話した。
怖かったことまで隠す気にはなれなかった。
長杖を握って走った時のことを話すと、セシルは一度だけ、その杖へ目を向けた。
やがてルナが言葉を切る。
セシルはゆっくりと息を吐いた。
「……無事に帰ってきてくれて、よかった」
「うん」
「心配することは、たぶんやめられないけど」
セシルはルナを見る。
「怖い時に、帰るって言えることも忘れないでね」
「分かってる」
ルナは頷いた。
セシルはそこで、少しだけ口元を緩めた。
「それと、ご飯が冷める」
「あ」
話すことに夢中で、匙が止まっていた。
向かいのユニの皿は、もう随分と減っている。
「ユニちゃん、食べるの早い」
「食べていますから」
「私も食べてたよ」
セシルが小さく笑った。
帰り道で寄った町の話は、食事の後半になった。
冬迎えの灯り。
焼き菓子屋で出会ったエマ。
妹のソフィアと、海の向こうへ医師を探しに行った両親のこと。
「それで、町の先生が古い記録を調べて、薬を試せることになったの」
ルナは言った。
「私たちが出る前には、エマさんに支えてもらって、窓のところまで行けた」
「よかったね」
「うん。今度は、自分でクッキーを買って、エマさんにあげたいんだって」
「楽しみができたんだね」
「うん」
ユニが頷く。
「待っています」
ルナはその声を聞いて、ソフィアの顔を思い出した。
皿が空いた頃、受付嬢が卓のそばへ来た。
「お食事は足りましたか?」
「はい」
ユニが答える。
頭上のにゃん吉君は、目を閉じていた。
「今度は眠ってしまいましたね」
「さっきまで食べていました」
「たくさん旅をしてきたんですものね」
受付嬢は声を少し落とし、それからルナへ顔を向けた。
「王都には、しばらく?」
「まだ決めていないんです。明日は、マグナスさんのところへ行きたいと思っています」
「そうですか。きっと、お話を待っていらっしゃいますよ」
ルナは頷いた。
魔法都市で調べてもらったこと。
ダンジョンの奥で見聞きしたこと。
マグナスには、順に話しておきたかった。
食堂のざわめきの中で、短く済ませられる話ではない。
「また来ます」
「はい。お待ちしています」
受付嬢が微笑む。
「にゃん吉君も、またね」
白い身体が少しだけ動いた。
けれど、目は開かなかった。
*
ギルドを出ると、夜の風が頬に当たった。
食堂にいる間に、通りを歩く人は少なくなっていた。
宿へ向かう角で、ユニが足を止める。
「では、また明日」
「うん。朝、迎えに行くね」
「はい」
セシルも頭を下げた。
「ユニさん、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
にゃん吉君は、まだ眠っている。
その白い背中を見送り、ルナは姉と並んで歩き始めた。
*
セシルの部屋に入ると、急に静かになった。
さっきまで周りにあった話し声も、皿の音もない。
ルナは長杖を壁へ立てかけ、収納バッグから着替えを取り出した。
「あ、これ。お姉ちゃんに」
小さな箱を差し出すと、セシルが目を丸くした。
「私に?」
「ラウベルで見つけたの。香草の石鹸」
「……ありがとう。大事に使うね」
「うん」
「本当に入ってるんだね」
セシルが収納バッグを横から覗く。
「ほかにも入ってるよ」
「便利だね」
「うん。すごく助かってる」
着替えを腕に抱え、ルナはバッグの口を閉じた。
セシルは寝床へ毛布を広げている。
「少し狭いけど」
「大丈夫」
「寝ている間に蹴らないでね」
「そんなことしないよ」
「前はしてた」
「いつの話?」
セシルは答えずに笑った。
灯りを落としてからも、すぐには眠らなかった。
隣で、セシルが寝返りを打つ。
「ルナ」
「なに?」
「魔法のこと、調べてもらえたんでしょう?」
「うん」
ルナは薄暗い天井を見た。
「でも、理由は分からなかった」
「……そう」
「行けば、何か分かるかもって思ってたから。ちょっと、期待してた」
セシルは黙って聞いていた。
ルナは毛布の端へ指を添える。
「でも、行ってよかったよ」
「うん」
「アメリアさんにも会えたし。行かなかったら知らなかったこと、たくさんあったから」
隣で、毛布の擦れる音がした。
「それで、次はどこへ行きたいの?」
ルナは少し考えた。
王都へ戻ることまでは決めていた。
その先は、まだ地図の上でも選んでいない。
「海は、見てみたい」
「海?」
「前に列車で会った騎士の人が、船で渡ってきたって話してくれたの。ソフィアのお父さんたちも、海の向こうへ行ってるでしょう」
「海の向こうまで行くの?」
「そこまでは、まだ分からない。まず、本物の海を見たい」
セシルは小さく相槌を打った。
「そのあとは?」
「まだ分からない」
ルナは正直に答えた。
「魔法を使えない理由も、まだ見つかってないから。明日、マグナスさんに話して、それから考えたい」
「そう」
少し間があった。
「旅をやめようとは思わないの?」
セシルの声は、止めようとしているようには聞こえなかった。
「思わない」
ルナは天井を見たまま答えた。
「理由は分からなかったけど、まだ確かめたいことがあるから」
「そっか」
再び、毛布の擦れる音がした。
「心配した」
セシルが小さく言った。
ルナは姉の方を向いた。
暗くて、表情はよく見えない。
「新聞を読んで、無事だって分かっても。顔を見るまでは、やっぱり」
「……うん」
ルナは毛布の中で手を動かし、姉の袖に触れた。
「ただいま」
セシルの手が、その手に重なる。
「おかえり」
通りを馬車が一台、通り過ぎていった。
音が遠ざかる。
「明日、起きられる?」
セシルが尋ねた。
「起きるよ」
「ユニさんを迎えに行くんでしょう」
「分かってる」
「なら、もう寝よう」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
ルナは目を閉じた。
隣に姉がいる。
それを確かめるように、もう少しだけ手を重ねたままにしていた。




