第3章 第10話「明日の話」
翌朝、エマの家を訪ねると、机の上には何冊もの本が積まれていた。
開いた症例集の横に、細かな文字で埋まった紙がある。
トーマスはルナたちに気づくと、目元を指で押さえてから顔を上げた。
「おはよう。ちょうど準備ができたところだ」
「眠れたんですか?」
ルナが尋ねる。
「少しはね。エマに本を取り上げられたから」
「同じところを三回読んでいたんです。先生まで倒れたら困ります」
「小さい頃は、私がこの子から本を取り上げていたんだがな」
「今は先生の話です」
「……返す言葉もないな」
トーマスは苦笑して、机の上の小さな瓶を手に取った。
中には、薄く色のついた液体が入っている。
昨日、ユニが持ち帰った果実から作った薬だった。
「古い記録にあるのは、魔力を使いすぎたあとの症例だ。ソフィアとは原因が違う。だから今日は少しだけ使って、変化を見る」
トーマスはベッドの横へ椅子を寄せた。
ソフィアが身体を起こそうとする。
エマが手を伸ばすと、ソフィアはその腕につかまり、ゆっくりと背を枕へ預けた。
それだけで、少し息が上がった。
トーマスは呼吸が落ち着くのを待ってから、ソフィアの顔を見る。
「途中で気分が悪くなったら、すぐに言ってほしい。無理に続ける必要はない」
「……苦い?」
「味は、あまり期待しない方がいい」
「そう」
ソフィアは瓶を見た。
膝の上で、指が寝具をつまんでいる。
エマは隣に立ったまま、何も言わなかった。
「先生」
「うん」
「これを飲んで、何も変わらないこともあるんだよね」
「ある」
トーマスは頷いた。
「だから、変わってほしいからといって、よくなったふりはしないでくれ。君が感じたことを、そのまま教えてほしい」
ソフィアは少し黙った。
それから、寝具をつまんでいた指を離した。
「……分かった。飲んでみる」
トーマスが小さな器へ薬を移す。
エマがそれを受け取り、ソフィアへ渡した。
ソフィアは両手で器を持った。
一度だけ中を覗いて、口をつける。
喉が、小さく動いた。
「…………苦い」
「水、飲む?」
「うん」
エマが差し出した水を飲んでからも、ソフィアは眉を寄せていた。
「先生」
「どうした?」
「味は、記録に残しておいて」
トーマスの口元が緩む。
「そうしよう。大事な報告だ」
ルナも、少しだけ肩の力が抜けた。
ユニは部屋の隅に立ち、その様子を見ている。
頭の上のにゃん吉君は、静かに目を細めていた。
*
その日は、何度も時計を見た。
トーマスはソフィアの様子を確かめ、そのたびに紙へ何かを書きつけた。
エマは水を替え、枕の位置を直し、窓を少し開けては閉めた。
ルナも椅子に座っていたが、じっとしていると、ソフィアの顔ばかり見てしまう。
寝息が聞こえる。
眉が動く。
何か変わったのだろうか。
そう思うたびに、トーマスの手元を見た。
けれど、彼はすぐに何かを言おうとはしなかった。
「……みんな」
昼を少し過ぎた頃、ソフィアが目を開けた。
「そんなに見られると、寝にくい」
「あ……ごめん」
ルナは慌てて視線を外した。
エマも、ベッドへ近づきかけた足を止める。
「何か欲しいものは?」
「今はない」
「水は?」
「さっき飲んだよ」
「そうだったね」
エマは手に持っていた布を見下ろした。
使うつもりで持ってきたはずなのに、何に使うのか忘れてしまったようだった。
ソフィアは姉を見て、小さく言う。
「お姉ちゃんも座って」
「でも」
「そこにいてくれたらいいから」
エマはしばらく立っていた。
やがて、布を机へ置く。
「……うん」
ベッドの隣へ椅子を寄せ、腰を下ろした。
ソフィアが寝具の上へ手を出す。
エマはその手を握った。
今度は、二人とも何も言わなかった。
ルナはそっと立ち上がり、机の上の空いた器を重ねた。
「これ、洗ってきますね」
エマが顔を上げる。
「ありがとう」
台所へ向かうと、ユニもついてきた。
「私が拭きます」
「うん。お願い」
水に浸した器には、薬の色が薄く残っていた。
ルナは指で縁をなぞり、ゆっくりと洗う。
向こうの部屋から、紙をめくる音が聞こえた。
それから、ソフィアの小さな咳。
ルナの手が止まる。
しばらくして、エマの声がした。
落ち着いた、いつもの声だった。
ルナは再び器を洗い始めた。
その日、帰るまでにはっきりとした変化は見られなかった。
*
次の朝、家の扉を開けたエマは、すぐには話さなかった。
ルナは思わず、その顔を見る。
「あの……」
「昨日の夜、ソフィアが少し眠れたの」
エマが言った。
「途中で起きたけど、それでも……いつもより長く」
嬉しそうだった。
けれど、喜びきってしまうのが怖いようにも見えた。
部屋へ入ると、ソフィアはまだ眠っていた。
トーマスが声を落とす。
「今朝は呼吸も少し楽そうだ。ただ、一度だけでは判断できない。今日も様子を見よう」
ルナは頷いた。
昨日と同じベッド。
同じ枕。
窓から入る光も、ほとんど変わらない。
それでも、眠るソフィアの横で、エマは椅子に深く腰かけていた。
手には、湯気の立つカップがある。
昨日は何度も冷ましてしまっていたそれを、今日はゆっくり飲んでいた。
*
それから数日、ルナたちはエマの家へ通った。
ソフィアは、よく眠れる日もあれば、咳で何度も目を覚ます日もあった。
朝に食べられたものが、夕方には喉を通らないこともあった。
トーマスはその一つ一つを書き留め、薬の使い方を考え直した。
エマも小さな紙を持つようになった。
眠った時間。
食べられたもの。
ソフィアが話したこと。
初めのうちは何でも書こうとして、ソフィアに「今のも書くの?」と聞かれていた。
ルナは買い物を手伝った。
頼まれたパン屋の角を通り過ぎ、川まで出てしまったことがある。
戻ってその話をすると、ソフィアは枕へ顔を寄せて笑った。
「橋のところまで行ったの?」
「うん。行った」
「行きすぎだよ」
「もう覚えたよ」
ユニが横から言った。
「私は途中で気づいていました」
「じゃあ言ってよ!」
「川に用事があるのかと思いました」
「パンを買いに行ったんだけど……」
ソフィアがまた笑った。
途中で咳が出て、エマが背中を支える。
笑い声はそこで途切れた。
けれど、息が落ち着くと、ソフィアはルナを見た。
「それで、パンは買えた?」
「買えた。ちゃんと」
ルナが袋を持ち上げると、ソフィアは満足そうに頷いた。
*
ある昼下がり、ソフィアが窓の方を見た。
「そっちに座りたい」
エマは顔を上げた。
窓際には、小さな椅子があった。
これまでは本や着替えを置く場所になっていた。
「先生に聞いてからにしよう」
トーマスはソフィアの様子を確かめ、椅子までの短い距離を見る。
「少しだけなら。疲れたらすぐに戻ろう」
ルナが椅子の上を片づけた。
エマはソフィアの足元へ靴を置き、肩を支える。
ソフィアの足が床に触れた。
一度、動きが止まる。
「大丈夫?」
「……うん」
姉の腕につかまり、ゆっくりと立った。
ルナは椅子の背を押さえたまま、その足元を見ていた。
一歩。
少し休む。
それから、もう一歩。
窓までは、本当に短い距離だった。
座った時には、ソフィアの額に薄く汗が浮かんでいた。
エマが布を当てる。
「疲れた?」
「少し」
「戻る?」
「もうちょっと」
窓は開いていた。
外では、荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
店先で誰かが笑った。
その向こうを、パンの入った籠を抱えた人が通り過ぎた。
ソフィアは黙って、それを見ていた。
風が頬に触れ、細い髪を動かす。
「……寒いね」
「閉めようか」
「ううん。このままでいい」
エマの手が窓の留め具から離れた。
ソフィアは膝の上の毛布を引き寄せた。
「冬って、こんな匂いだったんだ」
ルナには、特別な匂いは分からなかった。
冷たい空気と、どこかの家の煙。
普段から通りを歩けば、そこにあるものだった。
エマは返事をしなかった。
ソフィアの肩に掛けた毛布を直し、そのまま手を置いていた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「次は、玄関まで行ってみたい」
エマの指が、毛布を少し握った。
「……そうだね」
「でも、今日はここまで」
ソフィアが言うと、トーマスが頷いた。
「それがいい」
窓辺にいたのは、ほんの短い時間だった。
ベッドへ戻ると、ソフィアはすぐに目を閉じた。
エマは呼吸が落ち着くまで隣にいた。
それから、窓際へ戻った。
椅子の座面へ手を置く。
何も載っていない椅子を、しばらく見下ろしていた。
*
「改善していると言っていいと思う」
その日の帰り際、トーマスが小さな声で言った。
「眠れる時間と、食べられる量が増えている。魔力の戻り方にも変化が出てきた。この薬が、ソフィアの状態に合っているのだと思う」
エマは何度も頷いた。
「治るんでしょうか」
「このまま回復が続けば、良くなることは期待できる。ただ、半年かけて落ちた体力まで一度には戻らない。そこは時間をかけよう」
「……はい」
「また具合の悪い日があったら、その時の状態を確かめる。気になったことは、今まで通り教えてくれ」
エマが頷くのを見てから、トーマスは机の紙を揃えた。
初めに見た時より、随分と枚数が増えていた。
「この記録も残しておく。いつか、同じように困った時に役立つかもしれない」
ルナは古い症例集を見た。
誰かが書き残したものを、トーマスが読んだ。
その横に、今度はソフィアのことが書かれている。
「先生」
ベッドから声がした。
ソフィアは目を閉じたままだった。
「苦いって、書いた?」
「最初の日に書いたよ」
「なら、いい」
トーマスが笑った。
エマも笑って、それから俯いた。
片手で目元を押さえる。
ソフィアは何も聞かなかった。
寝具の上へ、そっと手を出した。
エマはその手を握り、しばらくしてから顔を上げた。
「お父さんたちにも、手紙を書かないと」
「ああ。私からも経過を書いて添えよう」
トーマスが新しい紙を一枚取った。
「海の向こうで先生に会えているなら、その方にも読んでもらえる」
「私も書く」
ソフィアが目を開けた。
「今日は窓まで行けたって」
「うん」
エマは目元を拭った。
「それは、ソフィアが書こうね」
ソフィアが頷いた。
ルナは机の端にあった筆記具を、エマの手が届くところへ寄せた。
*
町を出る朝、ルナたちはもう一度エマの家を訪ねた。
旅の荷物を背負ったルナを見て、ソフィアは少しだけ寂しそうな顔をした。
「もう行くんだね」
「うん」
ルナはベッドの横へ座った。
「でも、出る前に顔を見たくて」
「今日は、ちゃんとパン屋さんの前を通った?」
「もう間違えないってば」
ソフィアが笑う。
その枕元には、本が一冊置いてあった。
途中に、紙が挟まれている。
「読んでたの?」
「少しだけ。昨日の続き」
ソフィアは表紙へ指を置いた。
「前は、途中まで読むと疲れちゃって、次に開いた時には忘れてたんだけど。今日は覚えてた」
「どんな話?」
「旅の話」
ルナが目を向けると、ソフィアは本を少し持ち上げた。
「でも、山に行って果実が落ちるのを待つ話はなかった」
「それは、あまりないと思う」
ユニはベッドの足元に立っていた。
にゃん吉君が頭の上からソフィアを見ている。
「にゃん吉君も、元気でね」
「ワン」
「……最後まで、ワンなんだ」
「ワン」
今度はソフィアが笑った。
ソフィアは本を膝へ置いた。
「私ね」
ユニが顔を向ける。
「今度は、あのお菓子屋さんまで自分で行きたい」
エマがベッドの脇で、そっと息を吸った。
「まだ無理はできないけど、いつかでいいから。自分の足で行って、自分でクッキーを買いたい」
ソフィアは姉を見上げた。
「その時は、お姉ちゃんに買ってあげる」
「私に?」
「うん。今度は私が買う番だから」
少しだけ得意げな顔だった。
エマは何か言いかけて、唇を結んだ。
それから、ゆっくりと頷く。
「……楽しみにしてる」
ソフィアは嬉しそうに笑い、ユニへ向き直った。
「ユニさんの分も買うから。また来てね」
「はい」
「クッキー、待っててね」
「待っています」
ユニは小さく頷いた。
エマが扉のそばへ置いていた包みを持ってきた。
「これ、よかったら。途中で食べてください」
中には、小さなパンが入っていた。
「ありがとうございます」
ルナが受け取る。
包み越しに、まだ少し温かかった。
荷物へ大事に収めてから、長杖を握る。
「またね、ソフィア」
「うん。またね」
ソフィアが小さく手を振った。
ルナも振り返す。
エマは扉まで見送りに来て、ユニの前で立ち止まった。
「どうお礼をしたらいいのか、ずっと考えていたんですけど」
言葉を探すように、一度口を閉じる。
ユニは黙って待っていた。
「この子が明日の話をするのを、久しぶりに聞きました」
エマはベッドを振り返った。
ソフィアは膝の上の本を開いていた。
挟んであった紙を抜き、続きを目で追っている。
「窓の次は玄関まで。その次は外へって。全部すぐにできるわけじゃないけど、そういう話を、また一緒にできるのが……嬉しいんです」
声が少し詰まった。
けれど、今度は俯かなかった。
「ありがとうございました。何か、お礼を」
ユニは小さく首を振った。
「もう、もらいました」
*
それからしばらくして。
ソフィアは、一人で玄関まで歩けるようになった。
その少しあとには、エマと一緒に家の前へ出たという。




