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願いを魔法に  作者: 由吉
三章

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第3章 第9話 一つだけ

「薬に使うのであれば、できる限り熟したものがいい」


 トーマスは、魔力を使いすぎたあとの記録が載った古い症例集を開いたまま、果実の絵を指でなぞった。


「記録には、木から自然に落ちた直後のものを使ったとある。熟す前に採ったものでは作用が弱く、落ちて時間が経ったものも避けた方がいいらしい」


「傷があるものは?」


 ユニが尋ねる。


「できればない方がいい。中まで傷んでいるか、ここでは確かめられないからね」


「分かりました」


 それだけ聞くと、ユニは本から目を離した。


 エマが立ち上がる。


「本当に行くんですか?」


「はい」


「でも、先生が言っていた山は……」


 言いかけて、エマは口を閉じた。


「無理だけはしないでください」


「分かりました」


 ソフィアもベッドからこちらを見ていた。


「ユニさん」


「はい」


「……気をつけてください」


「はい」


 にゃん吉君がユニの頭上で鳴いた。


「ワン」


 ルナは症例集に描かれた果実を見る。


「私も、行こうと思います」


 エマがルナを見る。


「ルナさんも?」


「はい。でも、果実より、帰ってくる方を優先します。危ないと思ったら戻ります」


 ユニがルナを見る。


「そうですか」


「うん」


「では、一緒に行きましょう」


     *


 家を出ると、朝の冷たい風が通りを抜けていった。


「遠いんだよね?」


「遠いです」


「列車だと?」


「かなりかかります」


「じゃあ、どうやって行くの?」


「このまま行きます」


「このまま?」


「はい」


 ユニがルナの手を取った。


「行きますよ」


「え?」


 次の瞬間。


 冷たい風が消えた。


     *


「……暑い」


 最初に出た言葉が、それだった。


 さっきまで外套が必要だったはずなのに、空気は暖かく、湿っている。


 ルナは辺りを見回した。


 知らない森だった。


 大きな葉が何枚も重なって空を隠し、木の幹には蔓が絡まっている。


「ここ……?」


「南です」


「それは分かるけど……」


 振り返っても、さっきまでいた町はない。


「本当に一瞬なんだ……」


「はい」


「ワン」


 にゃん吉君は、いつも通りユニの頭上に浮いている。


 森の向こうには、巨大な山がそびえていた。


 裾は深い緑に覆われ、その上には白い雲が帯のように巻きついている。


 さらに高いところには、雪をかぶった頂が覗いていた。


「……あそこ?」


「はい」


「高いね」


「高いです」


「登るの?」


「途中までです」


「よかった」


「頂上まで行ってもいいですよ」


「行かないよ」


「そうですか」


 ルナは山を見上げたあと、ユニを見る。


「こんなことできるなら、今までの旅でも使えたの?」


「使えました」


「じゃあ、なんで使わなかったの?」


「それでは、ルナが知らない道を歩けませんから」


「……あ」


 これまで歩いてきた道が浮かぶ。


 ラウベル。


 焼き芋を焼いていた人たち。


 前に街道を横切った大きな魔獣。


 冬迎えの灯り。


 一瞬で目的地へ移動していたら、どれも知らなかった。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、今日は?」


「時間が大事ですから」


 熟す時期は短い。


 しかも必要なのは、自然に落ちた直後の果実だ。


「それに、どこへでも行けるわけではありません」


「そうなの?」


「行き先が分かっている場所だけです」


「知らない場所には行けない?」


「はい」


「じゃあ、願いの泉にも?」


「場所が分かりません」


「……そっか」


「はい」


 知らない場所へ行くには、やはり自分で探さなければならない。


「じゃあ、行こう」


「はい」


「ワン」


     *


 ルナたちは山へ入った。


 最初は暖かかった。


 湿った土を踏み、太い木の根を越えていく。


 どこかで鳥のような鳴き声がして、枝の上を小さな生き物が走った。


 登るにつれて、空気が変わっていく。


 まとわりつくようだった暑さが薄れ、冷たい風が混じり始めた。


 やがて霧が出た。


「わ……」


 数歩先まで白く霞んでいる。


 葉の先には水滴がつき、髪にも細かな雫が残った。


「ここから?」


「もう少し上です」


「分かるの?」


「はい」


 ユニは迷わず進む。


 ルナもその後ろを歩いた。


     *


「あれ」


 白い霧の中を、小さな光が横切った。


 指先ほどの虫だった。


 薄い羽が淡く光っている。


 一匹。


 二匹。


 その向こうにも。


 虫たちは小さな白い花の間を飛び回り、次々と別の花へ移っていく。


「先生が言ってた虫かな」


「そうです」


「じゃあ……」


 ルナは辺りを見回した。


 霧の向こうに、低い木が何本も並んでいる。


 枝の間には、丸い果実がいくつも見えた。


「あった」


「ありました」


 ルナは早足になりかけ、木のそばで止まった。


 根元にも果実が落ちている。


 黒ずんで形が崩れたもの。


 割れて中身が見えているもの。


 虫に食われたもの。


 柔らかく潰れ、土へ沈み始めたもの。


 ルナは一つずつ見てから、枝に残った実を見上げた。


「落ちてるのは、どれも傷んでるね」


「はい」


「木についてるのは、まだ落ちてない」


「はい」


 トーマスの話を思い出す。


 自然に落ちた直後。


 傷のないもの。


「新しく落ちるのを待つしかないか」


「そうですね」


 ルナは木の前で待つことにした。


     *


 霧の向こうから、低い音がした。


 ルナが振り返る。


 白いものが、ゆっくりと姿を現す。


「……大きい」


 鹿に似た魔獣だった。


 灰白色の厚い毛に覆われた身体。


 肩の高さだけでも、近くの木の枝を越えている。


 頭から伸びる巨大な角は何本にも枝分かれし、霧の中へ溶けるほど広がっていた。


 先日、街道で見た緑がかった毛の魔獣とは、まるで違う姿だった。


 一歩進むたび、地面がわずかに震える。


 にゃん吉君がユニの頭上を離れ、ふわりとルナの頭上へ移った。


「ワン」


 ルナは長杖へ手を伸ばす。


 けれど、構えずに魔獣を見る。


 魔獣も、こちらを見ていた。


 唸らない。


 近づいてもこない。


「ユニちゃん」


「はい」


「大丈夫?」


「今は大丈夫です」


「……じゃあ、こっちから近づかない」


「はい」


 ルナは杖から手を離した。


 光る虫たちは、何事もないように花の間を飛び続けている。


     *


 しばらく、何も起こらなかった。


 ユニは木の前に立っている。


 大きな魔獣も、その場から動かない。


 霧がゆっくり流れていく。


 葉の先に溜まった水滴が落ちた。


「まだかな」


「もう少しです」


 ルナは枝を見上げる。


 どの実が落ちるのか、自分には分からない。


 それでも、今できることは待つことだった。


 雲が動く。


 霧が少し薄くなる。


 雪をかぶった山頂が、ほんの一瞬だけ見えた。


 そして、また白の中へ消えた。


     *


 枝が、かすかに揺れた。


 ぽとり。


「あ」


 一つの果実が枝を離れた。


 地面へ落ちる――その直前。


 ユニの手が、その下へ入った。


 果実は音もなく掌へ収まる。


 傷はない。


 表面には、霧の水滴が残っていた。


「これです」


 ルナは果実を見る。


「うん。今落ちたばかりで、傷もない」


「はい」


 ユニは果実を両手で包むように持った。


 そして、大きな魔獣を見る。


「一つ、もらいます」


 返事はない。


「ありがとうございます」


「ワン」


 ルナの頭上で、にゃん吉君が鳴いた。


 魔獣はゆっくり首を動かす。


 返事だったのかは分からない。


 やがて身体の向きを変え、霧の中へ歩き出した。


 大きな姿が少しずつ白に溶けていく。


 最後に巨大な角だけが残り、それも見えなくなった。


「……行っちゃった」


「はい」


 にゃん吉君はしばらくその方向を見ていた。


 やがてルナの頭上を離れ、ユニの頭上へ戻る。


「ワン」


 ルナはユニの手にある果実を見る。


 枝には、まだ実が残っていた。


「まずは一つ、先生に調べてもらおう」


「はい」


「じゃあ、帰ろう」


「はい」


     *


 次に目を開けた時、冷たい風が頬に当たった。


「寒っ……」


 ルナは外套を引き寄せる。


 目の前には、さっきまでいた町の通りがあった。


「戻ってきた……」


「はい」


「本当に、一瞬なんだね」


「はい」


 同じ日のうちに戻ってきた。


 ルナたちは、そのままエマの家へ向かった。


     *


「え……?」


 果実を見たトーマスは、しばらく動かなかった。


 ユニの手と、症例集を何度も見比べる。


「先生?」


 エマが呼ぶ。


「待ってくれ」


 トーマスは古い本を開いた。


 果実の形。


 表面の模様。


 色。


 一つずつ確かめていく。


 やがて、ゆっくり息を吐いた。


「……間違いない」


 エマが口元を押さえる。


 ソフィアもベッドの上から果実を見ていた。


「落ちたばかりのものです」


 ユニが差し出す。


 トーマスは両手で受け取った。


「落ちてから、まだほとんど時間が経っていないな」


「はい」


 トーマスはすぐに机の上を片づけ始めた。


「今のうちに薬にしておく。時間が経った果実は避けた方がいいという記録だから、ここで待たせる理由はない」


 エマがソフィアを見る。


「今日、使うんですか?」


「いや」


 トーマスは首を横へ振った。


「薬にはしておくが、使うのは明日だ。今夜もう一度、記録と使う量を確認する」


「分かりました」


 エマが頷く。


 トーマスは器具を取り出し、果実の処理を始めた。


「お願いします」


 エマが頭を下げる。


 ソフィアも、小さく頷いた。


 ユニは何も言わず、その様子を見ていた。


 その頭上で、にゃん吉君が小さく鳴いた。


「ワン」


 試せることが、一つ増えた。

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