第3章 第8話 一つの可能性
翌朝。
ルナたちは、二晩を過ごした町をあとにした。
昨夜まで通りを照らしていた小さな灯りは消え、店先では朝の支度が始まっている。
宿の前にも、火の消えた灯りが残っていた。
ルナは駅へ向かう途中で振り返る。
「昨日とは違うね」
「はい」
「また見られるかな」
「冬迎えの日なら」
「来年かあ。一年後、どこにいるんだろうね」
「どこでしょうね」
「分からないね」
「ワン」
ルナは笑って、駅へ向かった。
*
王都方面への列車は、昼前に出発した。
今度は何事もなく走り続ける。
窓の外を、晩秋の景色が流れていった。
葉を落とし始めた森。
収穫を終えた畑。
遠くに見える小さな村。
駅に着くたび、人が入れ替わる。
大きな鞄を抱えた商人が降り、制服姿の学生たちが乗ってくる。
ルナたちも、その中に混じって旅を続けた。
*
昼を少し過ぎた頃、列車は大きな駅へ入った。
ホームには何本もの線路が並び、荷物を積んだ台車が人の間を行き交っている。
駅舎を出ると、目の前を二台の馬車が並んで走り抜けた。
道の両側には三階建ての建物が続き、その多くの一階に店が入っている。
「大きいね。ラウベルや、さっきまでいた町とは全然違う」
「人も多いですね」
パンを焼く匂い。
客を呼ぶ商人の声。
木箱を何人がかりで運ぶ人たち。
「今日はここにしようか」
「はい」
「せっかくだから、少し見て回りたい」
「ワン」
ルナたちは人の流れに混ざった。
厚手の外套を並べた服屋。
店先まで木箱を積んだ果物屋。
薪を束にして売る店。
道を一本曲がったところで、ユニが足を止めた。
「甘い匂いがします」
その先に、小さな焼き菓子屋があった。
「入りたい?」
「はい」
「じゃあ入ろう」
扉を開けると、小さな鐘が鳴った。
店の中には焼きたての甘い香りが満ちている。
棚には丸いクッキーや、木の実を乗せたもの、砂糖をまぶしたものが並んでいた。
ユニは棚を見ながら歩き、一番奥で止まる。
「これが美味しそうです」
木の実を細かく練り込んだクッキーだった。
何枚か入った袋が、一つだけ残っている。
ユニが手を伸ばした。
「あっ」
ほとんど同時に、横から別の手が伸びてきた。
二人の手が止まる。
相手は、ルナより少し年上に見える少女だった。
肩までの茶色い髪に厚手の外套。腕には買い物籠を提げている。
「すみません。どうぞ」
少女が先に手を引いた。
「いいのですか?」
「はい」
少女は店主を見る。
「今日の分が最後なだけですよね?」
「ああ。また焼くよ」
「なら大丈夫です」
「ありがとうございます」
「いえ。美味しいですよ、それ」
少女は買い物籠を持ち直した。
「それでは」
店を出る直前。
少女はほんの一瞬だけ、クッキーのあった棚を振り返った。
ルナは、その後ろ姿を見送った。
「……本当によかったのかな」
「譲ってくれました」
「うん」
ユニは手にした袋を見る。
「食べますか?」
「もう?」
「はい」
ルナは笑った。
「じゃあ、座れるところ探そうか」
*
近くの広場で、ルナたちはベンチに腰を下ろした。
ユニが袋を開け、一枚を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
にゃん吉君にも一枚を見せる。
「食べる?」
「ワン」
ルナは小さく割った欠片を手のひらに乗せた。
にゃん吉君はユニの頭上を離れ、その欠片を受け取ると、また頭上へ戻った。
ルナも一口かじる。
木の実の香ばしさのあとから、やさしい甘さが広がった。
「おいしいね」
「はい」
隣を見ると、ユニはもう二枚目を食べている。
「気に入った?」
「気に入りました」
「よかったね」
「はい」
ユニは残ったクッキーの袋を閉じた。
*
その日の宿を取ったあとも、ルナたちは町を歩いた。
本屋を覗き、市場を抜け、細い路地に並ぶ店にも入る。
日が傾き始めた頃。
「あれ?」
通りの向こうにある薬屋から、一人の少女が出てきた。
「あの人……」
昼間、クッキーを譲ってくれた少女だった。
向こうもこちらに気づく。
「あ……こんにちは」
「こんにちは」
少女の視線がユニで止まった。
「もしかして……十三人目のSランク?」
「はい」
少女は少し驚いた顔をしたあと、手にした薬の包みを握り直した。
「あの……突然こんなことをお願いするのは失礼だと分かっているんですけど、妹に会っていただけませんか?」
「私ですか?」
「はい」
少女は薬の包みへ目を落とす。
「妹が半年ほど前から体調を崩しているんです。お医者様にも診てもらって、薬も飲んでいます。でも、少しずつ悪くなっていて……」
一度、言葉を切る。
「治してくださいなんて、お願いするつもりはありません。ただ……一度だけ、妹に会っていただけませんか?」
「分かりました。行きます」
少女が顔を上げた。
「……いいんですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「私、エマ・リーベルといいます」
「ルナです」
「ユニ・N・スターチスです」
「ワン」
エマは、少しだけ笑った。
*
エマの家は、賑やかな商店街から少し離れた住宅街にあった。
二階建ての小さな家。
窓辺には、手入れされた鉢植えがいくつも並んでいる。
「ただいま」
「……おかえり、お姉ちゃん」
奥の部屋から細い声が返ってきた。
「今日はお客さんがいるの」
「お客さん?」
エマが扉を開ける。
窓際のベッドに、一人の少女がいた。
淡い茶色の髪。
枕元には、読みかけの本が置かれている。
「妹のソフィアです。十四歳です」
ソフィアが顔を上げた。
ルナを見る。
次にユニ。
そして、その頭上で視線が止まる。
「……白い」
「ワン」
「鳴いた」
「にゃん吉君といいます」
「……かわいい」
「ソフィア、まず挨拶でしょう」
「あ……ごめんなさい。ソフィア・リーベルです。初めまして」
「ルナです。初めまして」
「ユニ・N・スターチスです」
「ワン」
ソフィアの視線は、すぐににゃん吉君へ戻った。
「近くで見てもいいですか?」
「にゃん吉君に聞いてください」
「にゃん吉君、近くで見てもいい?」
「ワン」
にゃん吉君がユニの頭上を離れ、ベッドの横まで移動した。
「えっ……浮いた」
「浮きます」
「すごい……」
ソフィアが笑う。
エマも、その顔を見て静かに笑っていた。
けれど、しばらくするとソフィアの表情から少しずつ力が抜けていく。
「疲れた?」
エマがすぐに枕の位置を直した。
「ちょっとだけ。大丈夫」
「無理しないで」
「分かってる」
声にも、さっきまでの力がない。
にゃん吉君は何もせず、ユニの頭上へ戻った。
ユニも、その様子を見ていた。
「少し聞いてもいいですか?」
「はい」
ユニは学校や食事、普段の生活について尋ねた。
ソフィアは半年前まで普通に学校へ通い、友達と出かけることも多かったという。
最初は少し疲れやすくなっただけだった。
休めば元気になった。
それが少しずつ悪くなり、今では家の外へ出ることもほとんどない。
「魔法は使っていますか?」
「今はほとんど使ってません。すぐ疲れちゃうので」
「そうですか」
「お医者さんは、次はいつ来ますか?」
「明日の昼前です」
エマが答えた。
「では、明日もう一度来てもいいですか?」
ユニが尋ねた。
「もちろんです。でも……何か気になることが?」
「少しだけ」
ユニは、それ以上は言わなかった。
エマが枕元を整えると、本の下に重なった手紙が見えた。
「ご両親は?」
ルナが尋ねた。
「今は、家にいないんです」
エマは手紙へ目を向けた。
「ソフィアを診てくださる先生を探しに行っています。最初は王都へ。そこで、海の向こうに難しい病気を診る先生がいると聞いて、今はその方に会いに行っています」
「海の向こう……」
「ソフィアを連れて長旅はできませんから。まず二人で会って、診ていただけないか頼むつもりだそうです」
ルナは手紙を見る。
遠く離れた場所でも、ソフィアのために動いている人がいる。
*
話している途中、エマが薬の包みを開いた。
「何か食べられそう?」
「今はいらない」
「お昼もほとんど食べてないでしょう」
「でも……」
「これ、食べますか?」
ユニが昼間買ったクッキーを取り出した。
ソフィアの目が少し大きくなる。
「これ……」
「知ってるの?」
「はい。好きなんです。お姉ちゃんが、時々買ってきてくれて」
ルナはエマを見る。
エマは少し困ったように笑った。
「昼間の……」
あの最後の一袋は、妹のためだったのだ。
「エマさん、あの時……」
「いいんです。私が譲ったんですから」
ユニはクッキーの袋を見る。
「気に入りました」
「そうなんですか?」
「はい」
そして、そのままソフィアへ差し出した。
「残りは、ソフィアに」
「え? でも……」
「どうぞ」
ソフィアが姉を見る。
エマは少し迷ってから、頷いた。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ソフィアは一枚を取り、小さくかじった。
「……おいしい」
その顔を見て、エマの肩からほんの少しだけ力が抜けた。
*
翌朝。
ルナたちが再び家を訪れると、ソフィアのベッドのそばに一人の男性が座っていた。
五十歳ほどだろうか。
灰色の髪に、使い込まれた革の鞄。
「先生。この方です」
エマが紹介する。
「ユニ・N・スターチスか」
「はい」
「私はトーマス。この町で医者をしている。エマから話は聞いた」
トーマスは記録を開いた。
「今の症状でソフィアを診始めたのは、五か月ほど前だ」
ページを一枚めくる。
「発熱はない。臓器にも、今のところ目立った異常は見つかっていない。食事量は落ちているが、それだけで今の衰弱を説明するのは難しい」
「魔力は?」
ユニが尋ねる。
「本来蓄えられる魔力量は、十四歳としてごく普通だ。だが、使って減った分が、なかなか戻らない」
「だから、今は魔法を使わせていないんですね」
ルナが言う。
「ああ。できる限り消耗させないようにしている」
「原因は分かっているんですか?」
「……分からない」
トーマスは記録を押さえた。
「五か月診てきた。同じ病気の記録も探した。知り合いの医者にも聞いた。それでも、同じ症状を知る者はいなかった」
ルナはソフィアを見る。
魔力はある。
以前は普通に魔法を使えていた。
自分とは違う。
けれど、魔力に関わるところだけを見れば、何か似た記録があるかもしれない。
机の上には、トーマスの記録が積まれていた。
「病気の記録じゃなくても、探せませんか?」
トーマスが顔を上げる。
「どういうことだい?」
「魔力を使いすぎたあと、なかなか戻らなくなった人です。病気じゃなくて、消耗の記録とか。原因が違っても、似た状態なら、何かあるかもしれません」
「病気ではなく……魔力の消耗から」
トーマスは黙った。
しばらくして、革の鞄を開く。
「待ってくれ」
底から、古びた本を取り出した。
「師から譲り受けた古い症例集だ。今では使われなくなった治療法まで載っている」
トーマスは本を開いた。
一枚。
また一枚。
ページをめくる音だけが続く。
やがて、その指が止まった。
「……あった」
エマが息を呑む。
「同じ病気ですか?」
「いや。病気ではなく、魔力を使いすぎたあとの記録だ。ただ、状態はよく似ている」
トーマスは症例集をこちらへ向けた。
そこには、一つの果実が描かれていた。
「この患者には、消耗した魔力の回復を助ける作用を持つ果実が使われている。治療を続けて回復したとある」
「試す価値は……ありますか?」
エマが尋ねる。
「保証はできない。それでも、私は試す価値はあると思う」
エマはソフィアの手を握る。
「ソフィアは、どうしたい?」
ソフィアは姉を見た。
「やってみたい」
「怖くない?」
「少しは。でも……また学校に行きたいし、お姉ちゃんと買い物にも行きたい」
「……そうね」
エマが頷いた。
「ただし、問題がある」
トーマスが症例集へ目を戻す。
「この果実は、今では流通していない」
「もうないんですか?」
「いや。記録が正しければ、今も自生している可能性はある。産地は南方の高山だ」
ルナは果実の絵を見る。
「遠いんですか?」
「ああ。しかも、育つ場所が限られている」
トーマスは記述を指で追った。
「一年中霧に覆われる高さにだけ育つらしい」
「ほかの場所では育たないんですか?」
「何度も栽培が試されたそうだ。だが、成功しなかった」
木だけを持ち帰っても実はならない。
その高さにしか生息しない小さな虫が花粉を運び、昼夜の気温差、霧による湿度、そして土地に満ちる魔力。そのすべてが揃って、初めて実をつける。
「しかも、熟す時期は短い」
「今は?」
ユニが尋ねる。
トーマスが古い記述を指で追った。
「……記録通りなら、ちょうど今頃だ」
エマの表情に、ほんの一瞬だけ希望が戻る。
だが、トーマスはページから目を上げなかった。
「まだある。この山には強い魔獣が多い。古い時代ですら採取へ向かう者はほとんどいなかったらしい。今では、人が入ること自体ほぼない」
エマの表情から、さっきの光が消えた。
ソフィアの手を握ったまま俯く。
「……そんな場所なら、誰かに行ってほしいなんて言えません」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫」
妹へ向けた笑顔は、少しだけ無理をしていた。
「昨日まで何も分からなかったんです。それが、今日は可能性が一つ見つかった。それだけでも……前に進んでいます」
トーマスが静かに頷いた。
「私もこの症例をもう一度調べる。ほかの方法がないかも探してみよう」
「お願いします」
誰も、ユニに山へ行ってほしいとは言わなかった。
ユニは、開かれた症例集を静かに見ていた。
「先生」
「なんだい?」
「その果実について、もう少し教えてください」
「何を知りたい?」
「薬に使うなら、どの状態のものがいいですか?」
トーマスは、しばらくユニを見つめた。
「……君は、そこへ行くつもりなのか?」
エマも顔を上げる。
ソフィアも。
ユニは答えず、本に描かれた果実を見ていた。
その頭の上で、にゃん吉君が小さく鳴いた。
「ワン」




