第3章 第7話「帰る場所の灯り」
町へ入って最初に気づいたのは、やはり灯りだった。
まだ空には夕暮れの明るさが残っている。それなのに、通りに並ぶ家々の軒先には、小さな灯りがひとつ、またひとつとともり始めていた。
ランプに似ている。けれど、普段使う照明とは少し違うようだった。
店の入口にも、宿の窓辺にも。家によっては二つ、三つと並べているところもある。
「やっぱり、いっぱいあるね」
「ありますね」
「ワン」
ルナは歩きながら辺りを見回した。
ラウベルでは、町のあちこちから湯気が立っていた。この町には、それがない。
代わりに目につくのは、冬を迎える準備だった。
軒下に薪を積んでいる家。窓の隙間を塞いでいる人。店先では厚手の外套や手袋が売られ、別の店では瓶詰めや干した肉、野菜など、保存のきく食べ物が並んでいる。
駅の方からは、金属を打つ音まで聞こえてきた。
「ずいぶん忙しそう」
「冬が近いからでしょうか」
「たぶん」
ルナは自分の外套の襟元を少しだけ寄せた。
昼間より、明らかに冷えている。
「そろそろ宿を探した方がいいかな」
「はい」
「今日は焼き芋も食べたし」
「大事です」
「そこなんだ」
「ワン」
どうやら二人にとっては、それでいいらしい。
通りを少し進んだところで、ルナは一軒の宿を見つけた。
派手ではないが、二階建てのしっかりした建物だった。入口の横にも、例の小さな灯りが置かれている。
「ここにしてみようか」
「はい」
三人が中へ入ると、暖かな空気が迎えてくれた。
「いらっしゃい」
受付の奥から出てきたのは、四十代くらいの女性だった。
「泊まりかい?」
「はい。一晩、お願いしたいんですけど」
「もちろん。二人だね」
「はい」
「ワン」
女性の視線が、ユニちゃんの頭の上へ動いた。
「……その子も泊まる?」
「泊まります」
「ワン」
「じゃあ三人だ」
ルナが少し笑った。
にゃん吉君も、ちゃんと一人に数えられたらしい。
宿帳を書き、部屋の説明を聞く。その間にも、ルナは窓辺に置かれた灯りが気になっていた。
「あの」
「ん?」
「外にもたくさんあるんですけど、この灯りって何なんですか?」
「ああ。知らないってことは、旅の子か」
「はい」
「明日が冬迎えの日なんだよ」
「冬迎え?」
「この辺じゃ昔からやってるものでね。本格的な冬が来る前に、家の前に灯りを置くんだ」
女性は窓辺へ目を向けた。
「昔は今みたいに街道も整ってなかったし、駅なんて当然なかった。冬になる前に山や別の町へ出た人が、暗くなっても自分の家へ帰ってこられるように、灯りを置いたのが始まりだって聞いてるよ」
「帰ってくる人のために……」
「まあ、今じゃ道に迷って家へ帰れないなんてことは滅多にないけどね。それでも毎年やってる」
「ずっと?」
「ずっと」
女性が笑う。
「うちなんか、私が子供の頃にもやってたし、母さんが子供の頃にもやってた。その前は知らないけど、たぶんやってたんじゃないかね」
ルナはもう一度、窓辺の灯りを見る。
「家によって、数が違いました」
「よく見てるね」
「二つとか三つ置いてある家もあって」
「あれは家によるよ。ひとつだけ置くところもあれば、今は町を離れてる家族の分まで置くところもある。決まりってほどじゃないんだ」
「町を離れてる人……」
「うちも二つ置くよ」
「二つ?」
「息子が王都にいる」
「王都に?」
「ああ。鉄道関係の仕事をしててね。今年は帰ってこないって手紙が来たよ」
女性はそう言いながらも、寂しそうには見えなかった。
「帰ってこないのに、灯すんですか?」
「帰ってこないからって、帰る場所がなくなるわけじゃないだろ?」
「…………」
「来年帰ってくるかもしれない。もっと先かもしれない。別に帰ってこなくてもいいんだよ。元気にやってるならね」
女性は肩をすくめた。
「こっちが勝手に灯してるだけさ」
ルナは少しだけ黙った。
リーネの家が浮かんだ。
父と母。姉。ミーナ。
もう半年以上になる。
手紙は出している。元気だということも伝えている。
そして、旅に出てから出会った人の顔も浮かんだ。
西の魔法都市に残ったアメリア。
今頃、何をしているのだろう。
「お父さんとお母さん、今頃どうしてるかな……」
小さく口にすると、隣から声がした。
「帰りたくなりましたか?」
ユニちゃんだった。
ルナは少し考えた。
「……会いたくはなった」
「はい」
「アメリアさんにも、また会いたい」
「はい」
「でも、まだ帰らない」
「はい」
「まだ知らないところ、いっぱいあるから」
「そうですね」
「ワン」
女性が三人を見ていた。
「長い旅なのかい?」
「半年以上です」
「そりゃ長いねえ。じゃあ明日はあんたたちの分も灯しな」
「私たちの?」
「旅人だって灯していいんだよ」
「でも、ここは私たちの家じゃ……」
「細かいことはいいんだ」
女性は笑った。
「明日までこの町にいるなら、明日はこの町にいる人だろ?」
「……そういうものなんですか?」
「そういうものにしときな」
なんだか、ラウベルで会った人たちにも似た言い方だった。
土地が違っても、こういう人はいるらしい。
「ありがとうございます」
「夕飯はもうすぐできるよ。部屋に荷物を置いておいで」
「はい」
三人は二階へ向かった。
翌朝。
町は昨日よりも、さらに慌ただしくなっていた。
「こっち、もう一本持ってきてくれ!」
「薪なら裏にもあるぞ!」
「それは駅に持ってく分だって!」
通りのあちこちから声が聞こえる。
祭り――というほど華やかではない。大きな飾りもなければ、楽器を鳴らして歩く人もいない。
ただ、町全体が冬を迎えるために動いていた。
ルナたちは朝食を終えると、町を歩いてみることにした。
「昨日とは全然違うね」
「人が多いです」
「ワン」
広場では、何人もの人が薪を束ねていた。少し離れた場所では、子供たちが小さな灯りを並べている。
「そこ曲がってる!」
「曲がってないよ!」
「曲がってる!」
「じゃあ自分でやってよ!」
喧嘩なのか遊んでいるのか、よく分からない。
その横では老人が椅子に座り、二人を眺めていた。
「毎年ああなんだ」
ルナが声の方を見る。
老人が笑っている。
「灯りを置くだけなのに?」
「子供にとっちゃ大仕事なんだよ」
「なるほど……」
「姉ちゃんたちは旅人か?」
「はい」
「なら今夜までいな。暗くなると綺麗だぞ」
「そんなにたくさん灯すんですか?」
「町中でやるからな」
老人は通りの先を指した。
「駅にも行ってみるといい。あそこは帰ってくる連中が一番最初に見る灯りだから、毎年張り切るんだ」
「駅……」
ルナたちはそのまま駅へ向かった。
昨日遠くから見た駅舎の周りでは、作業員たちが忙しく動いている。
線路を確認する人。屋根の上を点検する人。雪を除けるための道具を運ぶ人。
そして駅舎の入口には、他より少し大きな灯りがいくつも準備されていた。
「冬になると、列車も大変なんだね」
「雪が降りますからね」
「ラウベルに向かう途中の列車は故障だったけど」
「止まっていました」
「列車も止まりたい時があるって言ってたよね」
「はい」
「故障だからね?」
「そうでした」
「ワン」
駅の掲示板には、王都方面へ向かう列車の時刻も書かれている。
ルナはしばらくそれを見た。
ここから列車に乗れば、王都へ近づいていく。
けれど、今日はまだ乗らなくてもいい。
「今日はここにいようか」
「はい」
「せっかく冬迎えの日なんだし」
「はい」
「夜の灯り、見たいから」
「私も見たいです」
「ユニちゃんも?」
「はい」
「そっか」
少し嬉しくなった。
昼を過ぎる頃には、町のあちこちに食べ物の匂いが漂い始めた。
家ごとに料理を作っているらしい。
店先でも温かいスープや焼いたパンが売られ、通りを歩く人の手には紙袋や籠がある。
誰かが帰ってくる。
誰かは帰ってこない。
今年初めてこの町で冬を迎える人もいれば、何十回目か分からない人もいる。
駅前で、ルナは一組の親子を見かけた。
小さな男の子が、何度も線路の向こうを見ている。
「まだ?」
「まだよ」
「もう来る?」
「あと少し」
「あと少しってどれくらい?」
「さっきから五回聞いてるわよ」
「だって父さん帰ってくるんだもん」
母親が困ったように笑っていた。
しばらくすると列車が入ってきた。
扉が開く。
男の子が走り出す。
「父さーん!」
大きな荷物を持った男性が驚き、それから笑って男の子を抱き上げた。
ルナは少し離れたところから、その様子を見ていた。
「帰ってきたね」
「はい」
別の場所では、灯りを一つ買っている年配の女性がいた。
「誰か帰ってくるんですか?」
店の人が尋ねる。
「いいや。今年は誰も」
「じゃあ一つ?」
「娘が南にいるからね。あの子の分」
「今年も?」
「今年も」
そんな会話が聞こえてくる。
帰ってくる人だけのためではない。
帰ってこない人のためにも、灯りはともる。
ルナは、それが少し不思議で。
でも、なんとなく好きだと思った。
夕方。
宿へ戻ると、昨日の女性が三人を待っていた。
「ほら」
差し出されたのは、小さな灯りだった。
「本当にいいんですか?」
「言っただろ。旅人だって灯していいって」
「ありがとうございます」
ルナは両手で受け取った。
「どこに置けばいいですか?」
「好きなところでいいよ。うちの前でも、駅でも。気に入った場所に置きな」
ルナはユニちゃんを見る。
「どうする?」
「ルナが決めてください」
「うーん……」
少し考える。
「駅にしようか」
「はい」
「ワン」
三人は灯りを持って駅へ向かった。
日が沈む。
空が青から紺へ変わっていく。
その頃、町のあちこちで小さな灯りがともり始めた。
一つ。また一つ。
昨日見た時よりも、ずっと多い。
家の前。窓辺。店先。通り。そして駅。
「……綺麗」
ルナは思わず呟いた。
派手な光ではない。一つ一つは、本当に小さい。
それでも町中に並ぶと、暗くなり始めた道を優しく照らしていた。
ルナも、駅の入口近くに灯りを置いた。
ユニちゃんとにゃん吉君が隣にいる。
「これでいいかな」
「はい」
「誰かの帰る場所じゃないけど」
「ルナが置いた場所です」
「……うん」
ルナは灯りを見る。
リーネの家を思い出した。
父と母。姉。ミーナ。
そして、西の魔法都市に残ったアメリア。
旅に出る前から自分を知っている人たちと、旅に出たから出会えた人。
今は、みんな別々の場所にいる。
「ユニちゃん」
「はい」
「いつかは帰ろうね」
「はい」
「でも――」
ルナは駅の向こうへ続く線路を見る。
「もう少し、先に行きたい」
「はい」
ユニちゃんは、それ以上何も言わなかった。
「ワン」
駅へ列車が入ってくる。
降りてきた人を迎える声が聞こえる。
抱き合う人。手を振る人。荷物を受け取る人。
その向こうで、いくつもの灯りが揺れている。
帰ってくる人がいる。
帰る場所を離れて暮らす人もいる。
そして、まだ帰らず、先へ進む人もいる。
ルナは隣を見る。
ユニちゃん。
その頭の上の、にゃん吉君。
三人でここまで来た。
「今日は、もう一泊しようか」
「はい」
「せっかくだし、この灯りが消えるまで見ていたい」
「はい」
「ワン」
ルナは笑った。
この町に着いたのは昨日の夕方。
そして今夜、二度目の夜をここで過ごす。
「明日は、また出発だね」
「はい」
「次はどこに行こうか」
「ルナが行きたいところへ」
「……うん」
今夜は、この町に灯りがともっている。
明日になれば、また知らない道を歩く。
帰る場所を忘れたわけではない。
帰る場所があるからこそ。
もう少しだけ――知らない世界を見てみたかった。




