第3章 第6話「歩いていく道」
ラウベルで過ごす、最後の夜。
夕食を終えたルナたちは、湯ノ花亭の一階にある休憩所へ戻ってきていた。
昼間に買った土産はすでに部屋へ置いてある。
明日の朝には、この町を出る。
そう思うと、昨日まで知らなかった場所なのに、少しだけ名残惜しい。
「……あ」
休憩所を歩いていたルナが、足を止めた。
部屋の隅に、一台の卓球台が置かれている。
壁には簡単な遊び方と、ラケットの持ち方が描かれていた。
昼間にも見かけてはいたけれど、その時は町を歩き回る方に夢中だった。
ルナは卓球台を見て、それから隣のユニちゃんを見る。
「ユニちゃん、あれやってみたい」
ユニちゃんも卓球台を見る。
「卓球ですか」
「うん。明日には出るし、その前にやってみようよ」
「分かりました」
「ワン」
にゃん吉君も、ユニちゃんの頭の上で鳴いた。
「にゃん吉君も見る?」
「ワン」
とりあえず今は見学らしい。
二人は壁に書かれた説明を読みながら、ラケットを一本ずつ手に取った。
「こうかな」
「そのようです」
「ユニちゃんも初めて?」
「初めてです」
「じゃあ同じだね」
ルナが少し嬉しそうに笑った。
勝負というより、まずは球を打ってみることから始まった。
ルナが球を落とし、ラケットで打つ。
球はネットを越えず、そのまま自分の側で跳ねた。
「……難しい」
「難しいですね」
今度はユニちゃんが打つ。
球はネットを越えた。
「あっ、来た!」
ルナが慌ててラケットを振る。
空振りした。
球だけが後ろへ飛んでいく。
「…………」
「…………」
「今のは練習だから」
「はい」
「次は返すからね」
「はい」
しばらくすると、少しずつ球が続くようになってきた。
一回。
二回。
三回。
「あっ」
四回目でルナの球が横へ飛んでいく。
「三回続いた!」
「続きました」
「もう一回!」
球を拾い、また始める。
今度はユニちゃんがネットに引っかけた。
「あ」
「ユニちゃんも失敗した」
「失敗しました」
どちらかが上手いわけでもない。
変な方向へ飛ばしては拾いに行き、ネットに引っかけてはやり直す。
それでも少しずつ長く続くようになっていくのが面白くて、ルナは何度もラケットを振った。
やがて五回。
六回。
七回。
「すごい、続いてる!」
「はい」
「あっ!」
そう言った瞬間、ルナの球が台の端に当たり、大きく横へ飛んでいった。
「言ったら駄目だった……」
「油断です」
「ユニちゃんもさっき失敗したでしょ」
「しました」
「ワン」
にゃん吉君が頭の上から二人を見下ろしている。
その時だった。
「――今度こそ勝負してください!」
聞き覚えのある声に、ルナが振り返った。
「あ」
そこにいたのは、昼間の蒸し風呂でユニちゃんに勝負を挑んでいた少女だった。
北東の国から来たという、十八歳の少女。
彼女はまっすぐユニちゃんを見ていた。
「さっきは蒸し風呂でしたけど、今度こそちゃんと勝負です!」
「しません」
「即答!?」
「勝負していません」
「まだ何も始まってませんよ!」
ルナは思わず笑ってしまった。
「ユニちゃん、本当に勝負しないね」
「はい」
「じゃあ、一回くらい――」
「ワン」
少女の言葉を遮るように、にゃん吉君が鳴いた。
三人の視線が集まる。
「……にゃん吉君?」
「ワン」
にゃん吉君はユニちゃんの頭からふわりと浮かび上がった。
そのまま卓球台の横まで飛んでいく。
そして、置いてあったラケットを見る。
「やりたいの?」
「ワン」
「できるの?」
「ワン」
できるらしい。
ルナがラケットを渡すと、にゃん吉君は小さな両手で柄を握った。
体の前に、まっすぐ構える。
壁に描かれている持ち方とは、ずいぶん違う。
「……その持ち方でやるの?」
「ワン」
少女が卓球台の向こう側に立った。
「いいでしょう。まずはあなたに勝ちます」
「ワン」
「五点先取でどうです?」
「ワン」
「成立した……」
ルナが呟く。
ユニちゃんは黙って見ている。
最初の球が打たれた。
少女の球がネットを越える。
にゃん吉君は空中に浮いたまま、両手で握ったラケットを振った。
コン。
小さな音がした。
「え?」
球が少女の横を抜けていった。
「一点……?」
「ワン」
「ちょ、ちょっと待ってください。今のは油断しただけです」
もう一度。
少女が打つ。
にゃん吉君が返す。
「――っ」
返せない。
二点目。
「もう一回!」
三点目。
「まだです!」
四点目。
「今度こそ――!」
五点目。
球が台を跳ね、少女のラケットが届かないまま床へ落ちた。
静かになった。
ルナは卓球台を見る。
少女を見る。
そして、空中にふわふわ浮いたままラケットを両手で握っているにゃん吉君を見る。
「……五対〇」
「ワン」
五点連取。
少女は、にゃん吉君が返した球を一度も返せなかった。
「…………」
少女が固まっている。
「この子、本当に初めてなんですか?」
「たぶん……」
ルナも分からない。
ユニちゃんを見る。
「ユニちゃん、知ってた?」
「知りませんでした」
「ユニちゃんも知らなかったの!?」
「はい」
「ワン」
にゃん吉君だけが満足そうだった。
少女はしばらく卓球台を見つめていたが、やがて力なくラケットを下ろした。
「私、ユニちゃんに勝負を申し込みに来たんですけど」
「はい」
「なんでその前に、この子に五対〇で負けてるんですか……」
「にゃん吉君が上手だからです」
「それは今、嫌というほど分かりました!」
少女はにゃん吉君を見る。
「……次は負けませんからね」
「ワン」
「ユニちゃんにもです!」
「勝負しません」
「します!」
「しません」
「します!」
ルナの笑い声が、休憩所に響いた。
翌朝。
荷物をまとめたルナたちは、湯ノ花亭を出た。
秋の終わりの朝は冷えていて、吐く息がわずかに白い。
ラウベルのあちこちから、今日も湯気が立ち上っている。
「お世話になりました」
ルナが頭を下げる。
見送ってくれた宿の人に別れを告げ、三人は通りへ出た。
そこで、見覚えのある少女を見つけた。
「あ」
「……あ」
昨夜、にゃん吉君に五対〇で負けた少女だった。
昨日までとは違い、今日はすっかり旅支度を整えている。
荷物を背負い、その傍らには一本の箒があった。
ルナは箒を見る。
そして、少女を見る。
「掃除するんですか?」
「飛びます!」
即答だった。
ルナが小さく笑う。
「ふふっ、知ってる」
「知ってるんですか!?」
「魔法都市でも見たから」
「じゃあなんで聞いたんですか!」
「なんとなく」
「なんとなく!?」
「掃除もできます」
ユニちゃんが言った。
「そういう問題じゃありません!」
「ワン」
朝から元気だった。
少女は一度ため息をついてから、改めてルナたちを見る。
「そういえば……ちゃんと名乗ってませんでしたね」
「そうだったね」
「昨日あれだけ一緒にいたのに」
「蒸し風呂と卓球だったから……」
「普通、どっちかの前に名乗りません?」
「……確かに」
少女は姿勢を正した。
「フィーネです。フィーネ・アルヴェル。北東の国の出身で、Aランク冒険者をしています」
「Aランクなんだ」
「はい。魔法使いです」
フィーネは隣の箒に手を置いた。
「冒険者をしながら、いろんな国を回ってるんです。依頼を受けたり、面白そうな場所に寄ったり。移動はだいたいこれですね」
「一人で?」
「一人のことが多いです。箒なら自分の行きたいところに行けますから」
「そっか」
ルナは少しだけ、その言葉が気になった。
自分の行きたいところへ。
方法は違うけれど、フィーネもまた、自分で道を選んで旅をしている。
「ルナです」
「知ってます」
「え?」
「昨日、呼ばれてたので」
「あ、そっか」
「ユニちゃんも知ってます」
「有名ですからね」
「どやです」
「そこは得意げなんですね」
「ワン」
フィーネが笑った。
「じゃあ、私はそろそろ行きます」
「どこまで行くの?」
「まだ決めてません。途中で気になる町があったら降りますし、面白そうな依頼があったら寄ります」
「箒なのに降りるって言うんだ」
「細かいですね!?」
フィーネは箒にまたがる。
ふわりと、その体が地面から浮いた。
「それじゃあ、またどこかで」
「うん。またね、フィーネ」
「次に会ったら、今度こそ勝負してもらいますからね、ユニちゃん!」
「しません」
「あと、にゃん吉君!」
「ワン」
「あなたにも次は勝ちます!」
「ワン」
箒がゆっくりと高度を上げる。
フィーネは一度大きく手を振ると、冷たい朝の空へ飛んでいった。
ルナはその姿が小さくなるまで見送った。
「……速いね」
「速いですね」
「私たちはどうしようか」
ルナは地図を開いた。
ラウベルから街道へ戻れば、王都方面へ向かう路線の次の駅がある町まで続いている。
列車を使うこともできる。
けれど。
「ユニちゃん」
「はい」
「次の駅まで、歩いてみよう」
「はい」
「ワン」
三人は歩き出した。
ラウベルを離れるにつれて、温泉の湯気は少しずつ見えなくなっていった。
街道沿いの木々は葉を落とし始めている。
風が吹くたび、乾いた葉が道の上を転がった。
ルナは時々地図を確認する。
道は一本ではない。
途中には細い脇道もあり、畑へ続く道や、小さな集落へ向かう道もある。
標識を確認し、太陽の位置を見て、進む方向を確かめる。
それを繰り返しながら歩いた。
二時間ほど経った頃だった。
「……煙?」
ルナが足を止めた。
街道から少し離れた場所に、細い煙が上がっている。
火事というほどの量ではない。
けれど、何かを燃やしているらしい。
「行ってみる?」
「ルナが行きたいのであれば」
「うん。ちょっとだけ」
三人は街道を外れ、煙の方へ向かった。
畑の近くまで来ると、何人かの人が火を囲んでいた。
枯れた枝や落ち葉を集めた火の中に、何かが入っている。
「こんにちは」
「おや、旅の子か」
火のそばにいた男が顔を上げた。
ルナは火の中を覗き込む。
「……何を焼いてるんですか?」
「芋だよ」
「芋?」
「焼き芋、知らないのか?」
「はい。初めて見ました」
「そうか」
男は少し笑った。
「じゃあ食ってみるか?」
「いいんですか?」
「一本くらい構わんよ」
男は火の中から焼けた芋を取り出した。
まだかなり熱いらしく、粗い厚手の紙で包みながら慎重に持つ。
それを二つに割ると、中から白い湯気が立ち上った。
「まだ熱いから、紙ごと持ちな」
「ありがとうございます」
半分がルナへ。
もう半分がユニちゃんへ渡された。
ユニちゃんは焼き芋を見る。
そして、先に一口食べた。
「ユニちゃん、熱くない?」
「熱いです」
「熱いんだ」
少し間があった。
「甘いです」
「甘いの?」
「はい」
ルナも紙に包まれた焼き芋を見る。
息を吹きかけ、少し冷ましてから、小さくかじった。
「……あ、おいしい」
ほくほくしている。
思っていたよりずっと甘い。
「焼くだけでこんなに甘くなるんだ」
「今くらいの時期はうまいぞ」
男が笑う。
「ワン」
声がした。
見ると、にゃん吉君が焼き芋を見ていた。
「……食べたい?」
「ワン」
「ちょっと待ってね。まだ熱いから」
ルナは自分の分を少しだけ取り、十分に冷ましてからにゃん吉君へ渡した。
「ワン」
「おいしい?」
「ワン」
「そっか」
知らない道を歩いて、煙を見つけて。
寄ってみたら、焼き芋だった。
列車に乗っていたら、きっと知らないまま通り過ぎていただろう。
食べ終えると、ルナはもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
「気をつけてな。日が落ちるのも早くなってるから」
「はい」
三人は街道へ戻った。
午後になると、道の周囲には森が増えてきた。
けれど、不思議と静かではない。
草むらの近くで、小さな影が動いた。
「……スライム」
一体のスライムが、街道の端をゆっくり進んでいる。
ルナは一度足を止めた。
けれど、スライムはこちらへ向かってこない。
三人の存在には気づいているようだったが、そのまま草むらへ入っていった。
「襲ってこないね」
「はい」
さらに進む。
今度は別の小さな魔物が、道から少し離れたところで木の実を食べていた。
こちらを見る。
けれど、それだけだった。
逃げもしない。
近づいてもこない。
「人が通るのに慣れてるのかな」
「そのようですね」
ダンジョンで出会った魔物とは、ずいぶん違う。
あそこでは、遭遇すれば警戒するのが当たり前だった。
けれど、ここにいる魔物たちは、人間が街道を歩いていることそのものを気にしていないように見える。
人間もまた、魔物がそこにいることを知って、この道を使っているのだろう。
「場所が違うと、全然違うんだね」
「はい」
「ワン」
その時。
森の奥で、大きな音がした。
枝が折れる。
ルナが立ち止まる。
「……何?」
「ワン」
にゃん吉君が森を見る。
木々の奥。
巨大な影が動いていた。
「……大きい」
全身は見えない。
太い木々の向こうを、何かがゆっくり歩いている。
ルナは杖に手を伸ばした。
けれど、すぐには構えない。
影の動きを見る。
「ユニちゃん」
「はい」
「こっちを見てる?」
「見ていますね」
木々の隙間から、巨大な魔物がこちらを見ていた。
それでも、向かってはこない。
しばらくすると、森の中を再び歩き始めた。
ルナも動き出す。
「……森に入らなければ、大丈夫なのかな」
「今は、そのようですね」
「うん。近づかないでおこう」
三人は街道を進んだ。
しばらく歩いた頃。
再び森が揺れた。
「え?」
先ほどの巨大な魔物が、今度は街道へ姿を現した。
ルナはすぐに足を止める。
「ユニちゃん」
「はい」
三人は街道の端へ寄り、十分に距離を取った。
巨大な魔物も止まった。
こちらを見る。
「…………」
「…………」
「ワン」
少しの間、人と魔物が互いを見ていた。
やがて魔物は、何事もなかったように歩き始めた。
ルナたちの方へではない。
街道を横切っている。
「……通りたいだけ?」
「そのようです」
大きな体が、ゆっくりと道を横切っていく。
反対側の森へ入り、その姿は木々の向こうへ消えた。
追ってくる気配もない。
「…………」
ルナはしばらく森を見ていた。
「行っちゃった」
「行きましたね」
「ワン」
少しして、向こうから荷物を背負った旅人が歩いてきた。
ルナは念のため声をかける。
「あの、すみません」
「ん?」
「今、大きな魔物が森から出てきたんですけど……」
「ああ」
旅人は驚きもしなかった。
「この辺の森にいるでかいやつだろ?」
「たぶん……」
「なら大丈夫だ。こっちから近づいたり、森の奥まで入ったりしなきゃ、まず向かってこない」
「そうなんですか?」
「街道を横切ることはあるけどな。そういう時は、今みたいに道を譲ってやればいい」
旅人はそう言ってから、森を見る。
「ただ、野生の魔物には変わりない。絶対に安全ってわけじゃないから、面白がって追いかけたりはするなよ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな。日暮れ前には町に着けるぞ」
旅人と別れ、三人は再び歩き始めた。
ルナは道端を進む小さな魔物を見る。
少し離れた森を見る。
魔物がいる。
人もいる。
だからといって、出会うたびにどちらかが戦っているわけではない。
「……知らないこと、まだいっぱいあるね」
「はい」
「歩いてよかったかも」
「焼き芋もありました」
「そこ?」
「大事です」
「ワン」
ルナは笑った。
日が傾き始めた頃。
前方に建物が見えてきた。
「あ」
ルナは地図を開き、道の先を見る。
遠くには駅舎らしい建物も見える。
「……着いた」
「着きましたね」
ルナは地図と町を交互に見た。
途中で焼き芋に寄り道した。
魔物が街道を横切るのを待った。
それでも、道を間違えることはなかった。
「ちゃんと迷わず来れたね」
「はい」
「途中で寄り道したけど」
「焼き芋です」
「ユニちゃん、気に入ったんだね」
「はい」
「ワン」
三人は町へ向かって歩いていく。
ラウベルとは違い、湯気はない。
代わりに目についたのは、町のあちこちで冬支度をする人々だった。
軒先には薪が積まれ、厚手の上着を運ぶ人がいる。
店先には保存のきく食べ物が並び、駅の近くでも何人もの作業員が忙しそうに動いていた。
そして、まだ日が完全に暮れていないというのに。
いくつかの家の軒先には、小さな灯りがともっていた。
「……あれ、なんだろう」
ルナが足を止める。
ひとつだけではない。
通りの先にも。
その向こうにも。
同じような灯りが、ぽつぽつと見える。
知らない町。
知らない習慣。
ルナは地図を閉じた。
「行ってみよう、ユニちゃん」
「はい」
「ワン」
三人は、灯りのともり始めた町へ入っていった。




