第1章 第6話 リーネの外へ
翌朝。
ルナは、いつもより少し早く目を覚ました。
「……朝」
見慣れた天井。見慣れた部屋。窓から差し込む朝の光。
今日で、この部屋ともしばらくお別れだ。
「……本当に今日なんだ」
昨夜、何度も確認した荷物が置いてある。
ルナはベッドから起き上がり、胸元のペンダントへ触れた。母からもらった石が朝の光を受け、淡い水色から薄い紫へ色を変える。
「よし」
着替えを済ませ、荷物を背負う。
着火用の魔道具、予備の火口箱、地図、食料、水、毛布、薬。必要なものは昨夜確認した。
最後に、壁へ立てかけていた長杖を手に取る。
歩く時の支えであり、危険な相手との距離を作るための護身具でもある。
「……大丈夫」
「はい」
「わっ!」
振り返ると、いつの間にかユニが立っていた。
「ユニちゃん、急に出てこないでよ」
「先ほどからいました」
「声をかけてよ」
「確認していたので」
「何を?」
「ルナが忘れ物をしないかです」
「信用ないなあ」
「三回確認していましたから」
「慎重って言って」
「慎重ですね」
「なんか違う」
「ワン」
ユニの頭の上では、にゃん吉君が尻尾を揺らしている。
「にゃん吉君も準備できた?」
「ワン」
「何も持ってないけどね」
「ワン」
「……まあ、にゃん吉君だし」
ルナは笑った。
「行こうか」
「はい」
*
階段を下りると、父と母はすでに玄関で待っていた。
ルナの足が少しだけ止まる。
昨日、誕生日を祝ってもらった。旅の話もした。
それでも、本当にこの瞬間が来ると、思っていたのとは少し違った。
ルナは、背負った荷物の肩紐を握った。
「お父さん」
「ん?」
「……行ってくるね」
「ああ。行ってこい」
父はいつものように笑った。
「たまには手紙を寄越せ」
「たまにでいいの?」
「できれば、たくさん寄越せ」
「分かった」
父の笑い声も、今日からしばらく聞けなくなる。
そう思うと、少しだけ寂しかった。
「ルナ」
母が歩み寄り、胸元のペンダントへ触れた。
淡い色の石が朝の光を受けて、小さく輝く。
「ちゃんと似合ってる」
「昨日も言ってたよ」
「今日も言いたかったの」
「そっか」
母が笑い、ルナの頭を撫でた。
子どもの頃から、何度もされたことだった。
けれど、今日は少しだけ違って感じる。
「行ってらっしゃい、ルナ」
「……うん」
ルナは笑った。
「行ってきます」
玄関の扉を開け、一歩外へ出る。ユニも続いた。
数歩進んだところで、ルナは足を止めて振り返る。
父と母は、まだ玄関に立っていた。
「行ってきます!」
今度は、大きな声で言った。
「ああ!」
「行ってらっしゃい!」
二人が手を振る。
ルナも大きく手を振り、それから前を向いた。
*
ユニと並んで、リーネの大通りを歩く。
店を開ける人、荷物を運ぶ人、学校へ向かう子どもたち。
昨日までと変わらない朝だった。
「……変な感じ」
「何がですか?」
「町はいつもと同じなのに、私だけ違うことをしてる」
「旅に出ますから」
「そうなんだけどね」
ルナは少し笑った。
手にした長杖が、石畳を小さく叩く。
半年間、何度も練習した。
けれど、護身具として使わなければならない場面には、できれば出会いたくない。
戦うより先に逃げること。
危険へ、自分から近づかないこと。
ルナは長杖を握り直した。
「どうしました?」
「ちゃんと持ってるなって確認しただけ」
「はい」
町の門が近づいてきた。
その時だった。
「ルナ!」
「え?」
後ろから、聞き慣れた声がした。
振り返ると、ニーナが息を切らしながら走ってくる。
「ニーナ!?」
「待って……間に合った……!」
ルナのところまで来ると、ニーナは膝へ手をついて息を整えた。
「どうしたの?」
「どうしたのって……見送りに決まってるでしょ」
「来てくれたの?」
「当たり前じゃん」
ニーナの視線が、ルナの背中の荷物へ向く。次に、手にした長杖と胸元のペンダントを見た。
「……本当に行くんだね」
「うん」
「なんか、まだ実感が湧かない」
「私も。さっき家を出たばっかりなのに、もうちょっと寂しい」
「じゃあ帰る?」
「帰らない」
「即答じゃん」
二人で笑った。
学校では毎日のように顔を合わせた。一緒に授業を受け、放課後には同じ道を歩いた。
明日も会うことが当たり前だった。
けれど、今日は違う。
「無茶しないでよ」
「うん」
「あと、変なものを拾わないでよ」
「拾わないよ」
「ルナなら、綺麗な石を見つけたら拾いそう」
「石くらいならいいでしょ」
「そういうところ!」
二人で話しているうちに、町の門へ着いた。
ニーナの足が止まる。
「……私はここまで」
「うん」
少しだけ、二人とも黙った。
先に口を開いたのは、ニーナだった。
「帰ってきたら、パン屋に行こう」
「また?」
「また。新しい焼き菓子、絶対食べよう」
「まだ出てないでしょ」
「帰ってくる頃には、出てるかもしれないじゃん」
「そっか」
ルナは笑った。
「じゃあ、約束」
「うん。約束」
二人は手を重ねた。
「気をつけてね、ルナ」
「ニーナも元気でね」
「そっちは旅する人が言う台詞でしょ」
「いいじゃん」
ルナは門へ向かって歩き出した。
「ルナ!」
呼ばれて振り返る。
ニーナが大きく手を振っていた。
「またね!」
ルナも手を上げる。
「うん! またね!」
門をくぐる。
もう一度だけ振り返ると、ニーナはまだそこにいた。
ルナはもう一度手を振り、前を向いた。
*
リーネを出ても、何かが劇的に変わったわけではなかった。
空は同じように青く、道もそのまま先へ続いている。振り返れば、まだリーネの門が見えた。
「……なんか、まだ旅って感じがしない」
「そうですか?」
「だって、まだリーネが見えてるし」
「では、見えなくなるまで歩けばいいです」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
「ワン」
「にゃん吉君は分かってくれる?」
「ワン」
「……分かってなさそう」
ルナは笑い、街道を歩き始めた。
しばらくすると、リーネの姿は見えなくなった。
町の中とは違い、街道には馬車の車輪で深く削れた場所や、石が転がっている場所がある。森の近くでは、木の根が道の端まで伸びていた。
「街道って、もっと歩きやすいと思ってた」
「人や馬車が通る道というだけですから」
「なるほど……」
足元を見ながら進む。
半年間、荷物を背負って歩く練習をしてきた。
それでも、本当の旅は練習とは少し違う。
しばらく歩いたところで、ルナは自分から足を止めた。
「少し休もう」
「はい」
街道脇の木陰へ移動し、荷物を下ろす。
「はあ……軽い」
「荷物を下ろしましたから」
「分かってるよ」
水筒から少しだけ水を飲み、残りを確認する。パンを食べながら地図を広げた。
「今は……この辺?」
「もう少し先です」
「じゃあ、ここ?」
「はい」
「よし」
地図の上では、ただの一本の線。
けれど、実際の道は丘を避け、森を迂回し、川を渡れる場所まで遠回りしている。
「地図で見ると、すぐそこなのになあ」
「実際に歩けば違います」
「これも覚えておかないとね」
ルナは地図を畳んだ。
少し身体を休めてから、また歩き出した。
*
午後、街道の先に町が見えてきた。
「あ! ココラ!」
「はい」
リーネの隣町。家族と何度も訪れたことのある場所だった。
「着いた……」
知っている町を見ただけで、少し安心した。
「今日はここに泊まりますか?」
ユニが尋ねる。
ルナは空を見上げた。まだ日は高く、身体にも少し余裕がある。
「まだ歩けるし、もう少し進みたい」
「分かりました」
「知ってる町で一日目が終わるのも、旅に出た感じがしないし」
「では、補給だけしていきましょう」
「うん」
水を補充し、減った食料を買い足す。
必要以上には持たない。荷物が増えれば、それだけ歩くのが大変になる。
それも、旅立つ前に覚えたことだった。
「これくらい?」
「十分です」
「じゃあ行こう」
ルナたちは、ココラには長居せず、再び街道へ出た。
*
日が傾き始める前、街道沿いに小さな休憩所を見つけた。
屋根と簡単な腰掛けがあり、旅人が夜を越せる程度の場所だった。すでに何人かの旅人が休んでいる。
ルナたちが入ると、先にいた旅人が腰掛けの端へ荷物を寄せてくれた。
「ありがとうございます」
旅人は軽く頷いた。
近くには人の声があり、誰かが起こした火もある。
家でも宿でもない。
それでも、今夜は自分たちだけではなかった。
「今日はここまでにしよう」
「はい」
無理をして暗くなるまで歩かない。
それも、練習してきたことの一つだった。
ルナは荷物を下ろした。
「今日はここで寝るの?」
「屋根があります」
「完全な野宿ではないんだね」
「はい」
簡単な食事を取り、身体を休める。
初日の疲れは、思っていたより大きかった。
「明日、筋肉痛になりそう……」
「なるかもしれません」
「嫌なことを普通に言うね」
「嘘を言う必要はありませんから」
「そうだけど」
ルナは毛布に包まった。
知らない旅人たちの話し声。遠くで聞こえる虫の音。
いつもの部屋とは、何もかも違う。
それでも、近くに誰かがいるだけで少し安心できた。
「……一日目、終わったんだ」
「はい」
「ちゃんと歩けたね」
「はい」
思っていたより疲れた。
それでも、旅の一日目を、自分の足で進むことができた。




