第1章 第5話 私の足で
旅に出たいと家族へ伝えた日から、ルナの準備が始まった。
十五歳の誕生日まで、あと半年。
その時になっても気持ちが変わらず、自分にも旅を続けられると示せたなら、もう一度家族で話し合う。
まだ、旅立ちを許されたわけではない。
だからルナは、今の自分にできることから始めた。
*
準備を始めたばかりの頃。
最初に取り組んだのは、長い距離を歩くことだった。
「……まだ?」
「まだです」
「結構歩いたよ?」
「はい」
「休憩は?」
「もう少し先です」
「ユニちゃん、厳しくない?」
「旅では、疲れた時に必ず休める場所があるとは限りません」
「それは……そうだけど」
ルナは背中の荷物を持ち直した。
出発した時には軽く感じた荷物が、今は肩へ食い込んでいる。足も重い。
ただ歩くだけなら簡単だと思っていた。
けれど、荷物を背負って歩き続けるのは、町の中を歩くのとは違った。
「ルナ」
「なに?」
「右足を少しかばっています」
「……分かるの?」
「見れば分かります」
ユニに言われ、ルナは道の端へ移動した。
靴を脱いで確かめると、右足の小指が赤くなっている。
「ほんとだ」
「痛くなってから我慢して歩くと、傷になります」
「でも、休める場所がない時もあるんでしょ?」
「だから、傷になる前に気づく必要があります」
「なるほど……」
ルナは靴紐を一度ほどき、締め直した。足先を少し緩めるだけで、さっきより痛みが減った。
「これなら歩けそう」
「では、あの木まで行ったら休みましょう」
「やっと休める……」
「ワン」
にゃん吉君は、ユニの頭の上で揺れていた。
「にゃん吉君は歩いてないよね?」
「ワン」
「返事だけは立派だね」
ルナは笑い、もう一度歩き始めた。
*
歩くことに少し慣れると、地図を持って町の外へ出るようになった。
「今、どこですか?」
「えっと……この辺?」
ルナは地図に描かれた道を指す。
「どうしてそう思いますか?」
「道が同じ方向へ曲がってるから」
「それだけですか?」
ルナは地図から顔を上げた。
少し離れた場所に森がある。反対側には低い丘。その先には細い川が見えた。
地図へ目を戻すと、同じ位置に森と丘と川が描かれている。
「あ……ここだ」
「はい」
「道だけを見たら駄目なんだね」
「地図と実際の景色を照らし合わせます」
地図の上では、道は一本の線だった。
けれど、実際の道には坂があり、雨で崩れた場所もある。地図では近く見えても、歩けば時間がかかることもあった。
何度か道を間違えた。
曲がる場所を通り過ぎたこともある。
そのたびにルナは立ち止まり、地図と周囲を見直した。
ユニは、先に正しい道を教えなかった。
ルナが自分で気づくまで、隣で待っていた。
*
朝の風が冷たくなってきた頃、ルナは野営の練習を始めた。
最初に選んだのは、川のすぐそばだった。
「ここなら水もあるし、便利じゃない?」
「雨が降れば、水位が上がる可能性があります」
「あ……」
「地面にも触れてみてください」
しゃがんで土へ触れると、表面は乾いて見えたのに、中は湿っていた。
「ここで寝たら、冷たそう」
「はい」
「じゃあ、あっちは?」
ルナは川から少し離れた高い場所を指した。
周囲を見渡すことができ、地面も乾いている。風も、それほど強くない。
「いいと思います」
「よし」
自分で選んだ場所へ荷物を置く。
それだけのことが、少し嬉しかった。
次は火を起こす。
この世界には、魔法を使えない者でも扱える着火用の魔道具がある。操作すると、小さな火が灯った。
「これなら簡単だね」
「薪が乾いていれば」
「え?」
ユニが集めた枝の一本を折る。湿った音がした。
「あ……」
「道具が使えても、薪が湿っていれば火は育ちません」
細い枝から火を移し、少しずつ太い薪を加える。風が吹けば、身体や荷物で火を守る。
ルナは何度も失敗した。
「あっ、また消えた」
「もう一度です」
「もう暗くなりそうなんだけど」
「だから、夜になる前に野営場所を決めます」
「これも練習なんだ……」
やり直した火が、今度は薪へ移った。
小さな炎が、少しずつ大きくなる。
「ついた!」
「はい」
「やった!」
喜ぶルナへ、ユニが小さな箱を差し出した。
「これは?」
「火口箱です」
「着火用の魔道具があるのに?」
「壊れるかもしれません。濡れて使えなくなる可能性もあります」
「こっちも覚えるの?」
「知っていれば、選べる方法が増えます」
ルナは焚き火と火口箱を見比べた。
「……やる」
「はい」
便利な道具が一つあれば、何があっても大丈夫というわけではない。
そのことも、少しずつ覚えていった。
*
旅の準備をしている間も、学校での暮らしは続いた。
ニーナと一緒に帰り、約束していた焼き菓子も食べた。
「本当に旅へ行くの?」
「まだ決まってないよ」
「準備してるんでしょ?」
「半年後に、もう一度家族で話すの」
「そっか」
ニーナは少し寂しそうにしたあと、ルナの背負っている荷物を見た。
「重そう」
「重いよ」
「世界樹へ行くの、やめる?」
「それはやめない」
「じゃあ、頑張るしかないね」
「簡単に言うなあ」
「だって、ルナだもん」
半年前と同じ言葉に、ルナは笑った。
*
ある朝、町に雪が積もった。
厚い上着。濡れないよう包んだ着替え。いつもより多い荷物。
足元は滑り、雪を踏むたびに体力を奪われる。
「寒い……」
吐いた息が白くなる。
「今日は戻る?」
ルナが尋ねると、ユニは足を止めた。
「ルナは、どうしますか?」
ルナは空を見上げた。
雪はまだ弱い。風も強くない。町からも、それほど離れていなかった。
「もう少しだけ歩く」
「はい」
「でも、風が強くなったら戻る」
「いいと思います」
ルナは歩き始めた。
肩に力が入っていることに気づき、ゆっくりと息を吐く。
ユニから教わった呼吸だった。
息を吸い、長く吐く。
呼吸が整うにつれて、強張っていた肩から余計な力が抜けていった。
急いで進むための技術ではない。
怖さや焦りで身体が動かなくならないよう、自分を整えるためのものだった。
「さっきより歩きやすい」
「はい」
「これが気なの?」
「呼吸と身体はつながっています」
「答えになってる?」
「なっています」
「そうかなあ」
「ワン」
にゃん吉君は、ルナの上着の中から顔だけを出していた。
「にゃん吉君は暖かそうだね」
「ワン」
少し進んだところで、風向きが変わった。顔へ当たる雪が急に増え、来た道の足跡も薄くなり始める。
ルナは立ち止まり、町の方角を振り返った。
「戻ろう」
「予定していた場所までは、まだ先です」
「うん。でも、帰り道が見えなくなる前に戻る」
「はい」
その日は、何事も起きなかった。
町へ戻る頃には雪が強くなっていた。
危険な目に遭わなかったのは、危険になる前に戻ったからだった。
*
歩行練習を重ねるうち、父はルナの荷物も確認するようになった。
「これは必要か?」
「本が一冊」
「何の本だ?」
「世界の町について書いてある本」
「地図とは別に必要か?」
「……なくても困らないかも」
「一度、入れたまま歩いてみろ。それでも必要だと思ったら持っていけばいい」
「分かった」
ルナは本を入れた荷物を背負い、その日の練習へ出た。
帰ってきた時には、肩がいつもより痛かった。
ルナは本を取り出し、机へ戻した。
「持っていかないの?」
父が尋ねる。
「帰ってきたら読む」
「そうか」
父はそれ以上、何も言わなかった。
母とは、食料や衣服を準備した。
食料は予定の日数ぴったりではなく、少し余裕を持つ。濡れて困るものは分けて包む。着替えを増やせば安心だが、その分だけ荷物は重くなる。
母は一度入れた着替えを取り出し、しばらく考えてから、また荷物へ戻すことがあった。
「多いかな」
「少し」
「でも、濡れたら困るでしょう?」
「うん」
「……もう一度、重さを量りましょう」
送り出したいのか、引き留めたいのか。
母自身にも、まだ分からないように見えた。
雪の日に帰ったルナの濡れた靴を見て、何も言わずに布を持ってきたこともある。
その夜、乾かした靴の横には、母が用意した替えの靴紐が置かれていた。
何を持ち、何を置いていくのか。
ルナだけでなく、家族も迷いながら準備を続けていた。
*
十五歳の誕生日が近づいた頃、父が一本の長杖を持ってきた。
「魔道具屋へ相談して選んだ。旅の歩行と護身に使うものだ」
派手な装飾はない。握る部分には滑り止めが施され、ルナが立てば胸元ほどの長さがある。
「結構大きいね」
「坂道では、歩く時の支えにもなります」
ユニが説明する。
ルナは杖を地面へつき、少し体重を預けた。丈夫で、簡単には曲がりそうにない。
「これ、魔法が使えなくても使えるの?」
「はい。内部には、あらかじめ魔力を蓄えた小型の蓄魔具が組み込まれています」
「これがあれば、魔物とも戦える?」
「いいえ」
即答だった。
「え」
「これは、魔物を倒すための道具ではありません」
「じゃあ、何に使うの?」
「逃げるためです」
ユニは少し離れた場所に置かれた木の的を指した。
「危険な相手に遭遇した場合、まず戦わないことを考えてください」
「でも、冒険者になったら戦うこともあるんでしょ?」
「あります。ですが、今のルナは相手の強さを正確に判断できますか?」
「……できない」
「なら、戦うべきではありません」
少し悔しかった。
けれど、間違ってはいない。
「この杖は、蓄えた魔力を使って短い衝撃を放ちます。相手を怯ませ、距離を作るためのものです」
「その間に逃げる?」
「はい」
「使える回数は?」
「限りがあります」
「じゃあ、無駄に使ったら駄目だね」
「その通りです」
ルナは長杖を構え、先端を的へ向けた。
操作すると、空気を叩くような短い音がして、木の的が揺れた。
「わっ」
驚いたルナ自身が、一歩下がる。
「今ので、相手が怯んだとします」
「逃げる」
「はい」
ルナは杖を握り直した。
必要な時だけ使う。使ったあと、その場に留まらない。逃げる方向と足元を確認する。
そして、そもそも危険な相手へ近づかない。
「戦う練習より、逃げる練習の方が多いね」
「はい」
「なんか格好悪い」
「生きて帰る方が大切です」
「……そうだね」
半年で、魔物を倒せるほど強くなったわけではない。
それでも、何も知らなかった頃とは違った。
*
十五歳の誕生日を数日後に控えた夜。
ルナは、もう一度父と母の前に座った。
半年前と同じ場所だった。
「半年たったわね」
母が言った。
「うん」
「気持ちは変わった?」
「変わってない」
「旅へ出たい?」
「うん」
ルナは迷わず答えた。
「世界樹へ行きたい。願いの泉が本当にあるのか、自分の目で確かめたい」
「怖くない?」
「怖いよ」
ルナは長杖へ目を向けた。
「知らない場所も、魔物も怖い。準備したから、何があっても大丈夫だとは思ってない」
父と母は、黙って聞いている。
「だから、無理だと思ったら戻る。分からない時は立ち止まる。危ない相手とは戦わない」
「それでも行くの?」
「行きたい」
母はしばらくルナを見つめた。
「この半年、ずっと考えていたわ」
「うん」
「できれば、行ってほしくないと思ったこともある」
母の声が、少しだけ震えた。
「でも、何も知らないまま飛び出そうとしていた半年前とは違う。怖いことを知って、それでも行きたいと決めたのね」
「うん」
母は小さく息を吐き、ルナの手へ自分の手を重ねた。
「分かりました。十五歳になっても、その気持ちが変わらないなら、行ってらっしゃいと言うわ」
「お母さん……」
「ただし、必ず帰ってきて」
「うん。約束する」
父も頷いた。
「俺も認める。困った時は、進むことだけを考えるな。帰るのも、助けを求めるのも、自分で決めることだ」
「うん」
「ユニちゃん」
父がユニを見る。
「はい」
「ルナの代わりに決めてくれとは言わない。ただ、隣にいてやってくれ」
「はい」
その答えは、いつもと同じように短かった。
*
数日後。
ルナは十五歳になった。
「お誕生日おめでとう、ルナ」
「ありがとう!」
食卓には、いつもより少し豪華な料理が並んでいた。
父と母。ルナとユニ。そして、ユニの頭の上にはにゃん吉君がいる。
「ワン」
「にゃん吉君も祝ってくれるの?」
「ワン」
「ありがとう」
明日、いよいよ旅に出る。
ずっと待っていた日だった。
それなのに、今日になってみると、胸の中には嬉しさだけでなく不安もあった。
「明日かあ……」
「怖くなったか?」
父が尋ねる。
「ちょっとだけ」
「そうか」
「でも、行きたい」
「なら、行ってこい」
父はそれだけ言った。
半年前なら、その言葉を聞くことはできなかった。
この半年を見てきた父だから、今はそう言ってくれた。
*
食事が終わったあと、母が小さな箱を差し出した。
「これ、持っていって」
「開けていい?」
「もちろん」
箱の中には、細い銀色の鎖がついたペンダントが入っていた。
その先にある透明な石は、光の加減によって淡い水色にも、薄い紫にも見える。
「綺麗……」
「旅のお守りよ」
「お母さんが選んだの?」
「ええ。特別な魔法はないけれど」
「それでいい」
母がルナの後ろへ回り、ペンダントを首へかけた。
胸元の石が、部屋の明かりを受けて淡く色を変える。
「似合う?」
「ええ。とても」
ルナはペンダントを握った。
「ありがとう」
特別な力はない。
母が選んでくれた。
それだけで、ルナには十分だった。
*
夜。
ルナは自分の部屋で、荷物をもう一度確認していた。
着替え、食料、水、地図、旅費。着火用の魔道具と火口箱。毛布、食器、薬。
そして、壁に立てかけていた長杖。
「……多いなあ」
「必要なものです」
いつの間にか、ユニが部屋の入口に立っていた。
「ユニちゃん」
「はい」
「忘れ物、ないと思う?」
「三回確認していました」
「見てたの?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫かな」
「おそらく」
「おそらくなんだ」
「絶対とは言えません」
「もう」
ルナは笑い、荷物を閉じた。
窓の外には、いつものリーネの夜が広がっている。
何度も見てきた景色。
明日、ここを出る。
「ユニちゃん」
「はい」
「世界樹まで行けるかな」
「分かりません」
「願いの泉を見つけられるかな」
「分かりません」
「魔法、使えるようになるかな」
「それも分かりません」
「一つくらい、大丈夫って言ってくれてもいいのに」
「まだ起きていないことですから」
「……そっか」
未来のことは、何も分からない。
世界樹まで行けるのか。願いの泉を見つけられるのか。自分が魔法を使えるようになるのか。
だから、自分で確かめに行く。
「おやすみ、ユニちゃん」
「おやすみなさい」
「にゃん吉君も」
「ワン」
ルナは目を閉じた。
明日の朝。
自分の意思で、リーネの外へ旅立つ。




