第3章 第4話 蒸し風呂の勝負
ラウベルへ足を踏み入れて最初に気づいたのは、町のあちこちから湯気が立ち上っていることだった。
石造りの建物の間を細い水路が走り、そこにも白い湯気が漂っている。通りには桶を抱えた人や、首に布を掛けたまま歩いている人までいた。
「本当に温泉の町なんだ……」
辺りを見回していると、隣からオットーさんの大きな声が飛んできた。
「そりゃそうだ! ラウベルから温泉を取ったら、山と家しか残らん!」
「それは町の人が聞いたら怒らない?」
「俺も町の人だ!」
「じゃあ自分で言ってるんだ……」
マーサさんが呆れたように笑った。
「昔からこうなのよ、オットーは」
「昔から元気って言ってくれ!」
「昔から声が大きいの」
「そっちか!」
思わず笑った。
町へ入ってまだ少ししか経っていないのに、魔法都市とはまるで空気が違う。
高い塔も、巨大な魔法具もない。代わりに石畳の隙間から湯気が立ち、通りの向こうから食べ物の匂いが流れてくる。宿らしい建物も多く、軒先にはそれぞれ違う印の入った暖簾が揺れていた。
「さて」
マーサさんが足を止めた。
「私はここでお別れね」
「マーサさん、温泉に行くんじゃないんですか?」
「行きますよ。でも、その前に寄りたいところがあるの。昔からの知り合いがまだこの町に住んでいるから、顔を見せておこうと思って」
「そうなんですね」
「ええ。あなたたちは?」
答えるより早く、ユニちゃんが口を開いた。
「温泉です」
「早いよ!」
「目的地です」
「町に着いてまだ何も見てないよ?」
「温泉の町に来ました」
「それはそうだけど!」
「ワン」
マーサさんが楽しそうに笑った。
「それなら『湯ノ花亭』へ行くといいわ。大きすぎない宿だけど、お湯はいいし、料理も美味しい。それに初めての人にも親切ですよ」
「湯ノ花亭……」
名前を覚えるように繰り返す。
「ありがとうございます」
「いいのよ。また町のどこかで会うかもしれませんしね」
マーサさんは少し歩いてから、振り返った。
「ルナちゃん」
「はい?」
「知らないところへ行くのは楽しいけれど、疲れたらちゃんと休むのよ。旅は、今日だけじゃないんだから」
一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「はい」
「それじゃあ、またね」
「また」
「ワン!」
マーサさんは最後ににゃん吉君へ手を振り、別の通りへ歩いていった。
オットーさんも仕事の途中だったらしく、「困ったらその辺の奴に俺の名前を出せ!」と言い残して去っていった。
「その辺の人、本当にみんな知ってるのかな……」
「声が大きいですからね」
「それ関係ある?」
「ワン」
二人と一匹だけになった。
通りの先を見る。
「じゃあ……行ってみようか。湯ノ花亭」
「はい」
「ワン」
*
湯ノ花亭は、町の中心から少し外れた場所にあった。
二階建ての古い建物で、入口の脇には小さな石造りの湯船がある。そこから絶えず湯が溢れ、細い水路へ流れ込んでいた。
扉を開けると、木の香りと温かな空気が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
帳場にいた女性が顔を上げた。
五十代くらいだろうか。髪を後ろでまとめ、落ち着いた色の服の上から白い前掛けをつけている。
「お泊まりですか?」
「はい。二人で――」
「ワン」
「……二人と一匹です」
女性の視線が、にゃん吉君へ向く。
「その子もお部屋に?」
「はい」
「おとなしい子なら大丈夫ですよ」
「ワン」
「返事した……?」
「にゃん吉君です」
ユニちゃんが言った。
「にゃん吉君……。猫では――」
「にゃん吉君です」
「……そうなのね」
また受け入れられた。
最近、このやり取りにも慣れてきた気がする。
「私はこの宿の女将、エルザです。主人は厨房にいますから、何か食べたいものがあったらあとで聞いてくださいね」
「ルナです。こっちはユニちゃんです」
「ユニ・N・スターチスです」
エルザさんの手が止まった。
「……今、なんて?」
「ユニ・N・スターチスです」
エルザさんは、ユニちゃんの白銀の髪と青いコート、それから頭の上にいるにゃん吉君を順番に見た。
「まさか……十三人目の?」
「はい」
「新聞で見た姿と同じだわ。本当に本人なのね」
「たぶんです」
「ユニちゃん、それ今日二回目だからね」
「どやです」
「何が!?」
「ワン」
エルザさんはしばらく驚いた顔をしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「まさか、本人がうちの宿に来るとは思わなかったわ。最近も何か大きなことがあったと聞いたけれど……」
「もう伝わってるんですか?」
尋ねると、エルザさんは頷いた。
「詳しいことまでは知らないわよ。昨日、この辺りにも魔法都市のダンジョンが攻略されたらしいって知らせが届いたの。大きな町やギルド同士なら、遠距離通信の魔道具で重要な知らせをすぐ送れるでしょう?」
「昨日のことなのに……」
「私が聞いた話では、十三人目のSランクとアメリア・レヴァンテが、とても深いダンジョンを攻略したとか。その程度だけどね」
「アメリアさんが倒したんです」
それだけは、きちんと伝えておきたかった。
「最後の魔物を倒したのは、アメリアさんです」
「あら、そうなの?」
「はい」
エルザさんは少し考えてから笑った。
「やっぱり、人づての話だけじゃ分からないものねえ。そのうち新聞にも詳しく載るでしょうけど」
魔法都市で起きたことが、もうこの町まで届いている。
けれど、私にとってはまだ昨日の出来事だった。
九十九階。
アメリアさんの剣。
消えたダンジョン。
そして、駅で交わした「またね」。
それらが今はもう、自分たちの知らないところで「十三人目のSランクが関わった出来事」として語られ始めている。
「それで」
エルザさんが帳面を開いた。
「その十三人目のSランクさんは、ラウベルへ何をしに?」
「温泉です」
「……温泉?」
「はい」
「それだけ?」
「大事なことです」
「そう……」
エルザさんは少しだけ考えたあと、それ以上聞くのをやめた。
その気持ちは、少し分かる気がした。
世界のどこかでは、十三人目のSランクが何を考え、どこへ向かっているのかを真剣に気にしている人たちがいる。
けれど、その本人は今、温泉に近い部屋を希望している。
「温泉に近い部屋はありますか?」
「そこなんだ……」
思わず呟いた。
*
部屋を決めたあと、エルザさんが大浴場の入口まで案内してくれた。
「ルナちゃんは、温泉が初めてなのよね?」
「はい。本では読んだことがあるんですけど、入るのは初めてです」
「それなら、いくつか覚えておいてね。難しいことは何もないから」
エルザさんは指を一つ立てた。
「まず、湯船に入る前に体を綺麗に洗うこと。ここはみんなが使うお湯だからね。それから、いきなり入らないで、少しずつ体をお湯に慣らしてから入るの」
「はい」
「それと、タオルは湯船の中に入れないこと」
「タオルを?」
「そう。湯船の縁に置いてもいいし、小さく畳んで頭に載せる人もいるわ」
視線をゆっくりと横へ動かす。
ユニちゃんの頭の上には、にゃん吉君がいる。
「……ユニちゃんは載せる場所ないね」
「あります」
「どこ?」
ユニちゃんが自分の頭を指した。
「にゃん吉君の上です」
「ワン?」
「そこ!?」
「嫌ですか?」
「ワン!」
「嫌だって!」
「そうですか」
「今のは分かるんだ……」
エルザさんが口元を押さえて笑っている。
「最後に、熱かったら無理をしないこと。温泉は長く我慢した人が偉いわけじゃないのよ。出たくなったら出て、水分を取って休む。自分が気持ちいいと思う入り方をすればいいの」
「分かりました」
「それじゃあ、ゆっくりしてきて」
エルザさんが去っていく。
大浴場の入口を見る。
「…………」
「ルナ?」
「……本当に、みんなで入るんだよね?」
「大浴場ですから」
「それは分かってるんだけど……」
「ワン」
少しだけ迷った。
けれど、せっかく初めて温泉の町へ来たのだ。
「……よし」
小さく呟いて、一歩を踏み出した。
*
広い浴場には白い湯気が漂っていた。
壁際にはいくつもの洗い場が並び、その先に大きな石造りの湯船がある。さらに奥には外へ続く扉があり、その向こうにも湧き上がる湯気が見えた。
エルザさんに教わった通り、まず体を綺麗に洗う。
周りを見ると、何人もの人が当たり前のように同じことをしていた。
「こういう順番なんだ……」
「はい」
「ユニちゃん、知ってたの?」
「今、知りました」
「同じじゃん」
「ワン」
準備を終え、いよいよ湯船の前に立つ。
片足を入れた。
「熱っ!」
思わず引っ込める。
近くにいた年配の女性が笑った。
「最初はそうなるよ。ゆっくり入りな」
「は、はい」
今度は慎重に足を入れる。
熱い。
でも、少しずつ体を慣らしていくと、さっきまでの驚くような熱さが和らいでいく。
肩まで浸かる。
「…………」
「どうです?」
「……気持ちいい」
「どやです」
「なんでユニちゃんが得意げなの?」
「ワン」
歩き続けて重くなっていた足が、ゆっくりほどけていくようだった。
しばらく湯に浸かったあと、外の露天風呂へ移った。
高い木の塀の向こうには山が見える。湯気が風に流され、夕方に近づき始めた空へ消えていく。
火照った頬に当たる風が心地いい。
「旅って、不思議だね」
「何がです?」
「朝には知らなかった町で、今こうして温泉に入ってる」
「そうですね」
「列車が壊れなかったら、来なかったかもしれない」
「はい」
「……こういうのも、旅なのかな」
ユニちゃんは少しだけ間を置いた。
「ルナが来ると決めました」
「うん」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
*
温泉から上がり、少し休んでいると、先ほど浴場で見かけた年配の女性が声をかけてきた。
「あんたたち、蒸し風呂には入ったかい?」
「蒸し風呂?」
「なんだ、知らないのかい。ラウベルまで来て、あれに入らず帰るのはもったいないよ」
女性は五十代くらいだろうか。短く切った灰色混じりの髪に、よく通る声。話し方からして、この場所には相当慣れているらしい。
「私はドーラ。この町で生まれて、もう何十年もここの湯に入ってる。蒸し風呂には週に三日は来てるよ」
「週に三日?」
「昔は毎日だったんだけどね。娘に『母さんは風呂屋に住んでるの?』って言われて減らしたんだ」
「それでも多いと思います……」
「私もそう思います」
ユニちゃんが言った。
「お嬢ちゃん、分かってるじゃないか」
「はい」
「ユニちゃんも今日初めてだからね?」
「そうでした」
ドーラさんが豪快に笑った。
「面白い子だねえ。まあ、入ってみな。普通の湯とはまた違うから。ただし、暑いと思ったら出るんだよ。蒸し風呂は我慢大会をする場所じゃない。水を飲んで、休んで、また入りたくなったら入る。それで十分さ」
「はい」
その横で、ユニちゃんがすでに蒸し風呂の入口を見ていた。
「……ユニちゃん、入りたいんでしょ?」
「体験は大事です」
「やっぱり」
*
扉を開けた瞬間、熱気が押し寄せた。
「……暑い」
「暑いですね」
「戻ろうか」
「まだ入っていません」
「入る前から暑いんだけど!」
ドーラさんが後ろから笑う。
「最初は短くていいんだよ。ほら、座りな」
木製の長椅子に腰を下ろす。
数分もしないうちに、額から汗が流れ始めた。
「……さっきより暑くなってない?」
「同じです」
「絶対暑くなってるよ」
「蒸し風呂ですから」
「それは分かってる!」
ドーラさんが肩を揺らして笑っていた。
「元気だねえ。それに比べて、そっちの白い髪のお嬢ちゃんは随分平気そうじゃないか」
「はい」
「なかなかやるね」
「そうですか?」
「ああ。私は長いよ。この町でも、私より蒸し風呂に通ってる奴なんてそうはいない」
「そうなのですか」
「そうさ」
ドーラさんがユニちゃんを見る。
ユニちゃんもドーラさんを見る。
「…………」
「…………」
なぜか沈黙が生まれた。
二人を交互に見る。
「……何?」
「いや」
ドーラさんが腕を組んだ。
「なんだか負けられない気がしてきた」
「何がです?」
「待って。何が始まったの?」
「何も始まっていません」
「そうかい?」
「はい」
「なら、どっちが先に出るか見てみようじゃないか」
「ドーラさん、さっき我慢大会する場所じゃないって言いましたよね!?」
「言ったね」
「言ったよね!?」
「これは我慢大会じゃないよ」
「じゃあ何!?」
「意地だね」
「もっと駄目じゃない!?」
ドーラさんが声を上げて笑った。
「ユニちゃんも張り合わなくていいからね」
「張り合っていません」
「じゃあ出よう?」
「もう少し温まります」
「絶対ちょっと乗ってるでしょ!」
「気のせいです」
「ワン」
いつの間にか、にゃん吉君が入口の向こうからこちらを覗いていた。
無理をせず、先に外へ出た。
水を飲み、椅子に座って休む。
少しして、ドーラさんも出てきた。
「ふう……」
「大丈夫ですか?」
「ああ。気持ちよかったよ」
「勝負は?」
「私の負けだね」
「まだやってたの!?」
最後にユニちゃんが出てくる。
いつもと変わらない顔だった。
ドーラさんが目を丸くする。
「お嬢ちゃん、本当に平気そうだねえ」
「はい」
「いやあ、完敗だよ」
「勝負していません」
「私はしてたよ」
「片方だけで勝負って成立するんですか?」
「細かいことはいいんだよ!」
思わず笑った。
そこへ、休憩処にいた別の女性がこちらを見て、小さく声を上げた。
「……ねえ、もしかして」
その視線がユニちゃんへ向く。
「白銀の髪に、その子……。十三人目のSランクじゃない?」
ドーラさんの動きが止まった。
「十三人目?」
「前に新聞で大きく載ってたじゃない。ユニ・N・スターチス」
ドーラさんがゆっくりとユニちゃんを見る。
「お嬢ちゃん。名前は?」
「ユニ・N・スターチスです」
「…………」
「十三人目のSランク!?」
「はい」
「本物?」
「たぶんです」
「また言ってる……」
思わず呟く。
ドーラさんはしばらくユニちゃんを見つめていたが、やがて大きな声で笑い始めた。
「はっはっは! そりゃ勝てないわけだ!」
「関係ありますか?」
「十三人目ってのは、蒸し風呂まで強いんだねえ!」
「勝負していません」
「私はしたよ!」
「またそれ!?」
私まで笑ってしまう。
十三人目のSランクがどこへ向かったのか。何を目的に動いているのか。その正体は何なのか。
そんなことを真剣に考えている人たちも、きっといるのだろう。
けれどラウベルでは今、新しい話が一つ増えようとしていた。
――十三人目は、蒸し風呂にも強いらしい。
*
休憩処の隅には、氷の入った大きな箱が置かれていた。
中には小さな瓶が何本も並んでいる。
「これ、牛乳?」
「風呂上がりはこれだよ」
ドーラさんが一本取り出した。
「ラウベルじゃ昔からの定番さ。冷えてるうちに飲んでみな」
一本手に取る。
冷たい。
蓋を開け、一口飲んだ。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。
温まった体に、冷たい牛乳が気持ちいい。
ユニちゃんも一本飲む。
「なるほど」
「何が?」
「お風呂の後に飲む理由が分かりました」
「そんなに大げさなこと?」
「大事なことです」
「またそれ?」
「ワン」
にゃん吉君を見る。
「にゃん吉君も飲む?」
「ワン」
瓶を見る。
にゃん吉君を見る。
もう一度、瓶を見る。
「……どうやって?」
「ワン」
「いや、ワンじゃ分からないよ」
「ワン」
「だから、どうやって飲むの?」
ユニちゃんがもう一本の牛乳を手に取った。
「任せてください」
「ユニちゃん、分かるの?」
「分かりません」
「分からないんだ!?」
ドーラさんの笑い声が、休憩処いっぱいに響いた。
初めての温泉。
初めての蒸し風呂。
初めて飲む、風呂上がりの冷たい牛乳。
そして、なぜか始まっていたユニちゃんと町のおばさんの勝負。
ラウベルに来て、まだ半日も経っていない。
それなのに、もうこの町を少しだけ好きになれそうな気がしていた。




