第3章 第3話「ラウベルへの道」
列車を降りると、最初に聞こえたのは風の音だった。窓越しに眺めていた時よりもずっと近く、草の擦れる音が線路の両側から聞こえてくる。
「足元にお気をつけください!」
若い車掌が、列車から降りる乗客たちへ声をかけていた。
「線路脇の保守用通路から街道へ出られます! 次の駅へ向かわれる方は街道を東へ、ラウベルへ向かわれる方は南西です! くれぐれも線路上は歩かないようお願いいたします!」
列車を降りたのは、思っていたより少なかった。大半の乗客は修理を待つらしい。
ルナは鞄を背負い直し、振り返った。長い列車が、何もない場所にぽつんと止まっている。
「こうやって見ると、本当に変なところで止まったね」
「列車も止まりたい時があるのです」
「故障だよ」
「そうでした」
「ワン」
ユニちゃんの頭の上で、にゃん吉君が鳴いた。
「あなたたち、本当に行くのねえ」
後ろから声がして、ルナは振り返った。
「マーサさん」
マーサも列車を降りていた。小さな旅行鞄を持ち、先ほどまで編んでいたものはもう綺麗にしまわれている。
「マーサさんもラウベルへ?」
「ええ。そのつもりです。次の駅まで行って、そこから別の列車に乗るつもりだったんですけどね。こんなことになってしまったでしょう?」
マーサは止まった列車を見上げた。
「ここで何時間も待つくらいなら、ラウベルへ寄ってしまおうかと思って。急いで帰ったところで、孫との夕食にはもう間に合いそうにありませんし」
「でも、待ってるんじゃ……」
「待ってますよ。きっと今頃、『おばあちゃん遅いなあ』って窓から外でも見ているでしょうね」
そう言いながら、マーサは困ったように笑った。
「だから帰らなくていい、ということにはなりません。でも、急いだからといって列車が直るわけでもない。なら私は、帰れる方法で帰ります」
ルナは少し考えてから頷いた。
「……そうですね」
「それに」
マーサの目が少しだけ細くなる。
「久しぶりにラウベルのお湯に入りたくなってしまいました」
「あ」
「ふふ。あなたたちと話していたらね」
「マーサさんも温泉が目的になってる……」
「いいじゃありませんか。予定が変わった時くらい、その先に一つ楽しみを見つけても」
「なるほど……」
ルナが頷く。
「勉強になります」
「ルナ」
「なに?」
「温泉は大事です」
「そこだけ聞いてたでしょ」
「ワン」
マーサが声を上げて笑った。
保守用の通路を抜けると、道幅の広い街道へ出た。街道には古い石の道標が立っている。
東には次の駅。
南西には――ラウベル。
「こっちですね」
マーサが南西を指した。道の先には緩やかな坂が続いている。そのさらに向こうには山々が連なっていた。
「どのくらい歩くんですか?」
「私の足なら二時間くらいかしら。あなたたちなら、もう少し早いでしょうね」
「二時間……」
ルナは驚かなかった。以前なら、まず距離を気にしたかもしれない。
靴の具合を確かめる。水はある。日が暮れるまでには十分な時間がある。空を見上げると、雲はあるが雨の気配はなさそうだった。
「大丈夫そう」
呟いてから、ルナは自分で少し驚いた。
「どうしました?」
「ううん。なんでもない」
ユニちゃんに答えて、歩き出す。
旅に出る前、父と母に教わったこと。王都までの道で覚えたこと。それから、魔法都市までの旅で身についたこと。
いつの間にか、知らない道を歩く前に何を確かめればいいのか、少しずつ考えられるようになっていた。
「ルナちゃんは、旅を始めて長いの?」
隣を歩くマーサが尋ねた。
「もう半年以上になります」
「まあ。そんなに?」
「途中で王都に長くいたり、魔法都市にもいたので、ずっと歩いていたわけじゃないですけど」
「それでも立派なものですよ。ご家族は心配しているでしょう」
「……してると思います」
ルナは少し笑った。
「さっき列車で手紙を書いてたんです。ちゃんと元気だって伝えないと」
「それがいいわ。待っている側というのはね、本人が思っているより、ずっといろんなことを考えるものだから」
「マーサさんも?」
「もちろん」
マーサは笑った。
「息子が初めて一人で遠くへ行った時なんて、帰ってくるまで何度玄関を見たか分かりません。夫には『見たところで早く帰ってくるわけじゃない』と言われましたけど」
「確かに……」
「腹が立ったから、『分かってます』って言いました」
「ふふっ」
「でも、その夫も夜になったら何度も外を見ていたんですよ。自分だって心配してるじゃない、って」
マーサは懐かしそうに笑う。
「心配する方も、される方も、なかなか思った通りにはいきませんね」
「……はい」
ルナは故郷の家を思い出した。父と母。旅立つ朝。そして、何通も送った手紙。
「だから、手紙は書いてあげてください。大したことじゃなくてもいいんです。今日は何を食べたとか、変な猫を見たとか」
「ワン」
「あら、ごめんなさい。あなたのことじゃないですよ」
「ワン」
「分かってるのかな……」
「にゃん吉君は賢いです」
ユニちゃんが言った。
「それは知ってるけど」
「とても賢いです」
「なんで二回言ったの?」
「大事なことなので」
「ワン」
マーサがまた笑った。
一時間ほど歩いた頃、景色が少しずつ変わってきた。平らだった土地に起伏が増え、街道の両側には木々が目立つようになる。
時折、荷馬車とすれ違った。御者とマーサが軽く手を上げて挨拶を交わす。
誰も急いでいない。
魔法都市の駅前とは、時間の流れそのものが違うようにルナには感じられた。
「あれ?」
ルナが足を止めた。
道の脇に、小さな石像が立っている。人の膝ほどの高さしかない。
丸い顔。短い手足。頭には何かを載せている。
「……にゃん吉君?」
「ワン?」
にゃん吉君まで首を傾げた。
「違いますよ」
マーサが笑う。
「これはラウベルの古い守り神です」
「守り神?」
「ええ。名前は――ポル爺さん」
「……爺さん?」
「ポル爺さんです」
「神様なのに?」
「昔からみんなそう呼んでいます」
ルナは石像を見る。
どう見ても、威厳のある神様には見えなかった。鼻は丸い。お腹も丸い。しかも頭の上には、大きな桶のようなものを載せている。
「何の神様なんですか?」
「さあ」
「分からないんですか!?」
「私が子どもの頃、お婆ちゃんに聞いたら『お湯の神様』と言っていました。父に聞いたら『山の神様だ』と言いましたし、町の先生は『昔の旅人を祀ったものだろう』と言っていましたね」
「全部違う……」
「そういうものです」
「そういうものなのかな……」
ユニちゃんが石像の前へ行き、じっと見る。
「…………」
「ユニちゃん?」
「似ています」
「え?」
ユニちゃんが自分の頭の上を指した。にゃん吉君がいる。
「どこが!?」
「丸いです」
「そこだけだよ!」
「ワン!」
にゃん吉君が抗議するように鳴いた。
マーサが腹を抱えて笑い始める。
「ご、ごめんなさいね。こんなに笑ったの、久しぶりで……」
「ユニちゃんが変なこと言うから」
「事実です」
「にゃん吉君怒ってるよ」
「ワン」
「怒っていますか?」
「ワン!」
「怒っていますね」
「今分かったの!?」
街道に、三人と一匹の声が響いた。
そこからさらに一時間ほど歩いた。
道は少しずつ山の麓へ近づき、空気にもわずかな湿り気が混じり始める。
「あそこですよ」
マーサが前方を指した。
山の麓。斜面に沿うように、いくつもの屋根が見え始めていた。
大きな町ではない。けれど家々の間から、白い煙のようなものが何本も空へ昇っている。
「煙?」
「あれは湯気ですよ」
「……あれ全部?」
「全部ではありませんけどね。ラウベルは町のあちこちからお湯が湧くんです」
近づくにつれ、街道を歩く人も増えてきた。
籠を背負った女性。荷車を引く青年。桶を抱えた子どもたち。
すれ違う人たちがマーサに気づき、何人かが「あら」と声をかける。
「マーサじゃないか!」
大きな声が飛んできた。
道の先から、一人の男性が歩いてくる。五十歳くらいだろうか。日に焼けた顔に太い眉。肩には大きな籠を担いでいる。
「やっぱりマーサだ。何年ぶりだよ」
「まあ、オットー。まだその大きな声は治ってないのね」
「治す必要がないからな!」
「耳が悪くなったの?」
「違う!」
オットーと呼ばれた男は豪快に笑った。
「しかし珍しいな。急にどうした?」
「列車が壊れたのよ」
「列車が?」
「ええ。そこで、この子たちと一緒に歩いてきたの」
オットーの視線がルナたちへ向く。
「旅の子か?」
「はい。ルナです」
「ユニ・N・スターチスです」
「ワン」
「にゃん吉君です」
オットーが固まった。
「…………」
ルナはその反応を見て、なんとなく分かってしまった。
オットーがゆっくりユニちゃんを見る。
白銀の髪。青いコート。そして頭の上の、白く丸い生き物。
「ユニ・N・スターチス……?」
「はい」
「十三人目の?」
「はい」
数秒の沈黙。
オットーはマーサを見る。
「お前、列車が壊れただけで、とんでもないの拾ってきたな」
「拾ってませんよ」
ルナが思わず言った。
「そうなの?」
「一緒に歩いてきただけです!」
「そうか」
オットーはもう一度ユニちゃんを見る。
「……本物?」
「たぶんです」
「たぶん!?」
「ユニちゃん!」
「どやです」
「そこで得意げにならないで!」
「ワン」
オットーの大きな笑い声が、町の入口に響いた。
「まあいい! 旅人なら歓迎だ。ラウベルには温泉くらいしか自慢するもんはないが、その温泉ならどこにも負けん!」
「オットー。それ、三十年前から言ってるわね」
「三十年負けてないってことだ!」
「誰と競ってるのよ」
マーサが呆れたように笑う。
ルナも笑いながら、その向こうへ目を向けた。
湯気の立つ町。石造りの古い家々。行き交う、知らない人たち。
ここへ来る予定なんて、今朝まではなかった。町の名前すら知らなかった。
それでも今、自分の足でここに立っている。
「ラウベルへようこそ!」
オットーが両腕を広げた。
「まずは腹か? 宿か? それとも風呂か?」
「温泉です」
「ユニちゃん、即答!?」
「長旅でしたので」
「列車より歩いてる時間の方が長くなってるよ!」
「だからこそです」
「ワン!」
マーサとオットーが笑う。
ルナも、とうとう堪えきれなくなって笑った。
こうして三人と一匹は、予定になかった町――ラウベルへ足を踏み入れた。




