第3章 第2話「予定にない町」
列車が止まってから、数分が経った。けれど、動き出す気配はない。
窓の外には、どこまでも緩やかな丘陵が続いていた。線路沿いには背の低い草が揺れ、その向こうには深い緑の山々が重なっている。
駅らしき建物は、どこにも見えない。
「本当に止まっちゃったね」
ルナは窓に顔を近づけた。
「止まっていますね」
「ワン」
ユニちゃんは特に慌てた様子もなく、座席に座っている。その手には、さっきのお菓子があった。
「……まだ食べてるの?」
「はい」
「列車、止まったよ?」
「止まりましたね」
「気にならないの?」
ユニちゃんは少しだけ考えた。
「そのうち分かります」
「それはそうだけど……」
「ワン」
にゃん吉君も、いつも通りユニちゃんの頭の上にいる。
ルナは二人を見てから、もう一度窓の外を見た。周囲の乗客たちはそうもいかないらしい。
「どうしたんだ?」
「何かあったのか?」
「こんなところで止まるなんて聞いてないぞ」
車内のあちこちから声が上がる。立ち上がって窓の外を確認する人。荷物を抱き寄せる人。近くの乗客と話し始める人。
小さな子どもを連れた母親もいた。
「お母さん、もう着いたの?」
「まだよ。ちょっと列車がお休みしてるみたい」
「列車も疲れるの?」
「そうかもしれないわね」
母親は笑って答えていたが、その視線は何度も車両の前方へ向けられている。
やがて、車両の扉が開いた。
「皆様、大変申し訳ございません!」
制服姿の若い車掌が入ってくる。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「ただいま、この列車に不具合が発生していることを確認いたしました。安全確認のため、しばらく停車いたします。原因については現在、機関士と整備担当者が確認しております」
ざわめきが大きくなる。
「不具合って、どこのだ?」
「いつ動くんです?」
「次の駅で乗り継ぎがあるんだが」
一斉に質問を浴びせられ、若い車掌が明らかに困った顔をする。
「申し訳ございません。現時点では、まだ復旧までのお時間をお伝えできる状況ではありません。詳しいことが分かり次第、すぐにお知らせいたしますので――」
「困るよ」
通路側に座っていた大柄な男が声を上げた。
「俺は今日中にミレアまで行かなきゃならんのだ。夕方には取引先と会う約束がある。列車が遅れましたで済む相手じゃないんだよ」
「申し訳ございません」
「謝ってほしいわけじゃない。いつ動くのかを聞いてるんだ」
「それが、まだ――」
車掌の顔がさらに強張る。
「あなた、そんなに責めても列車は直らないでしょう」
別の声がした。窓側に座っていた老婦人だった。
白髪を後ろでまとめ、小さな旅行鞄を膝の上に置いている。
「でもな、婆さん。こっちにも予定ってものがあるんだ」
「私にだってありますよ。孫が今日の夕食を一緒に食べようと待っています」
「だったら――」
「でも、壊れたものに怒鳴ったところで直りはしません。それに、原因も分からないうちに無理に走らせて、もっと大変なことになったらどうするんです?」
大柄な男が口を閉じる。老婦人は少しだけ表情を緩めた。
「予定に遅れるのは困ります。でもね、遅れて帰るのと、帰れなくなるのなら、私は遅れて帰る方を選びますよ」
「……そりゃ、そうだが」
「でしょう?」
男は頭を掻いた。
「悪かったよ。兄ちゃん」
「い、いえ!」
車掌が慌てて頭を下げる。
「ただ、分かったらすぐ教えてくれ。今日中に動けないなら、それはそれで別の方法を考えなきゃならん」
「はい。必ずお伝えします」
車掌は何度も頭を下げて、次の車両へ向かっていった。
ルナはその背中を見送った。
「いろんな人がいるね」
「はい」
「怒ってた人も、別に悪い人じゃなさそうだった」
「そうですね」
ユニちゃんが短く答える。
老婦人がこちらを向いた。
「あら。聞こえてましたよ」
「あっ……すみません」
「いいんですよ。あの人も悪い人じゃありません。困っているだけです」
老婦人はそう言って笑った。
「旅をしているとね、予定通りにいかないことなんて、いくらでもあります。若い頃は私も、そのたびに腹を立てていましたけど」
「よく旅をされるんですか?」
「昔はね。今はこの辺りを行ったり来たりするくらいですよ」
老婦人は膝の上の鞄を撫でた。
「私はマーサ。マーサ・ベルンといいます。南の生まれです」
「私はルナです。こっちはユニちゃん。それから――」
「ワン」
紹介される前に、にゃん吉君が鳴いた。
マーサが目を丸くする。
「あらまあ」
「にゃん吉君です」
「猫……ではないの?」
「にゃん吉君です」
ユニちゃんが答えた。
「そう。にゃん吉君なのね」
「ワン」
マーサは数秒だけにゃん吉君を見つめたあと、あっさり受け入れた。
「かわいいわね」
「ワン」
「なんだか得意そう……」
ルナが呟く。マーサが楽しそうに笑った。
「あなたたちは、どこまで行くの?」
「それが、まだ決めてないんです」
「あら」
「魔法都市から王都に戻るつもりだったんですけど、駅で南へ行く路線を見つけて。それで、こっちへ行ってみたくなって……」
「それで列車に?」
「はい」
「目的地も決めずに?」
「……はい」
言葉にしてみると、やっぱり少し変な旅に聞こえる。けれどマーサは笑わなかった。
「いいじゃない」
「いいんですか?」
「もちろん。行き先を決めてから旅に出る人もいれば、旅に出てから行き先を決める人もいます。どちらが正しいなんてありませんよ」
マーサは窓の外へ目を向ける。
「ただし、南は広いですからね。何も知らずに歩くと、本当にどこへ行くか分からなくなります。山の向こうへ行けば空気も変わるし、町によって食べるものも言葉の癖も少しずつ違う。海沿いまで行けば、同じ国なのかと思うくらい景色も変わります」
「そんなに違うんですか?」
「ええ。だから面白いんです」
マーサは少し懐かしそうに笑った。
「若い頃、夫と二人でずいぶん歩きました。お金がなくて宿に泊まれなかったこともありましたし、道を間違えて知らない村に着いたこともあります。大雨で三日も足止めされたこともありました。それでも今になって覚えているのは、予定通り着いた日のことより、そういう日のことばかりなんですよ」
「……今日みたいな?」
「そうね。今日みたいな日も、いつかそうなるかもしれません」
ルナは窓の外を見る。
止まった列車。知らない土地。予定にはなかった時間。
少し前の自分なら、不安の方が大きかったかもしれない。でも今は――ほんの少しだけ、この先が気になっている。
◇
数両先。
「故障?」
「ああ」
「本当に?」
「車掌がそう説明している」
二人の男は向かい合ったまま、しばらく黙っていた。
「……ただの故障か?」
「今のところは」
「こんな時に?」
「故障は時を選ばない」
「それはそうだが」
一人が腕を組む。
「俺はてっきり、別の連中が動いたのかと」
「俺もだ」
「…………」
「…………」
窓の外では、鳥が一羽、線路脇の杭に止まった。
二人はそれを見る。
「……平和だな」
「そうだな」
「仕掛けた奴はいない?」
「今のところな」
「…………」
「…………」
「じゃあ、本当に故障なのか」
「その可能性が高い」
男は深く息を吐き、背もたれに体を預けた。
「紛らわしい」
「列車に言え」
◇
それから三十分ほど経った。
列車はまだ動かなかった。乗客たちも最初ほど騒がなくなり、車内には妙な落ち着きが戻っている。
大柄な男は誰かに見せるためなのか、鞄から書類を取り出して何度も確認していた。子どもは窓に張りついて、外を飛ぶ鳥を数えている。マーサは編み物を始めていた。
そしてユニちゃんとにゃん吉君は――。
「にゃん吉君」
「ワン」
「最後の一つです」
「ワン」
お菓子の袋を二人で覗いていた。
「もうなくなったの!?」
「なくなりました」
「結構大きい袋だったよね?」
「長旅でした」
「まだ全然進んでないよ!」
「止まっていますからね」
「それは知ってる!」
マーサが編み物をしながら、肩を揺らして笑っている。
「仲がいいのねえ」
「はい」
「ワン」
「……否定はしないけど」
ルナも笑った。
その時、再び車両の扉が開いた。先ほどの若い車掌が入ってくる。
今度は一人ではなかった。作業着姿の中年男性が一緒にいる。袖を肘までまくり、手には油汚れがついていた。
「皆様、お待たせして申し訳ございません」
乗客たちの視線が一斉に集まる。
「原因が判明いたしました。動力を車輪へ伝える機構の一部に損傷が見つかりました。現在、応急修理を行っております」
大柄な男がすぐに尋ねた。
「どのくらいかかる?」
若い車掌が隣の男性を見る。作業着の男が前へ出た。
「整備主任のハインツ・ローデンです。正直に申し上げますと、すぐには動かせません」
車内がざわめいた。ハインツはそれを待ってから続ける。
「部品そのものを交換できれば早いんですが、予備がありません。次の駅から保守用の車両と部品をこちらへ向かわせています。ただ、この辺りは単線区間が長い。到着して交換、それから安全確認まで含めれば――早くても数時間は見ていただきたい」
「数時間……」
「今日中には動くのか?」
「動かします。ただし、安全を確認できなければ走らせません」
はっきりとした声だった。さっき怒っていた男も、今度は何も言わなかった。
ハインツが続ける。
「それから、ここから次の停車駅まではそれなりに距離があります。原則として、車内でお待ちいただくのが一番安全です。ただし――」
一度、言葉を切る。
「この列車が止まっている場所から少し南へ下ったところに、街道があります」
ルナが顔を上げた。
「街道?」
「ええ。線路の保守用通路をしばらく進めば、街道へ出られます。そこから東へ行けば次の駅。反対に南西へ向かえば、小さな町があります」
マーサが編み物の手を止めた。
「もしかして、ラウベル?」
「はい」
「あら。こんな近くまで来ていたのね」
「知ってるんですか?」
ルナが尋ねる。マーサは頷いた。
「知っていますよ。昔からある小さな町です。山の麓にあってね」
そこで、少し楽しそうに笑う。
「温泉があるの」
ルナの動きが止まった。
向かい側を見る。ユニちゃんもこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
「ユニちゃん」
「はい」
「今、温泉って」
「言いましたね」
「ワン」
マーサが二人を交互に見る。
「あら。温泉を探していたの?」
「さっき列車で会った人から、南には温泉があるって聞いたんです」
「まあ。それならちょうどいいじゃない」
「でも……」
ルナは窓の外を見る。
列車を降りる。予定にはなかったことだ。そもそも、今日どこへ行くのかさえ決めていなかった。
車掌が乗客たちへ説明を続けている。
列車に残って修理を待つ人。次の駅まで歩くことを考え始める人。予定を変更して、近くの町へ向かおうとする人。
それぞれが、自分の次を考え始めていた。
「どうする?」
ルナが尋ねた。
ユニちゃんは答えなかった。ただ、ルナを見る。
その視線の意味は、もう分かる。
――ルナは、どうしたいですか。
言葉にされなくても、そう聞かれている気がした。
ルナは少し考えた。
列車が直るのを待つこともできる。王都へ向かうこともできる。
でも、自分たちはさっき、知らない道へ行ってみようと決めたばかりだ。そして今、その知らない道のすぐ先に、知らない町がある。
「……行ってみたい」
「はい」
「温泉があるからじゃなくてね?」
「はい」
「……ユニちゃんは温泉が理由でしょ?」
少しだけ間があった。
「長旅には大事です」
「やっぱり!」
「ワン」
ルナは笑った。
窓の外では、風に吹かれた草が波のように揺れている。
地図にも予定にもなかった町――ラウベル。
ルナたちの第三章最初の寄り道は、止まった列車から始まることになった。




