第2章 第26話「またね」
ダンジョンがあった場所には、もう何も残っていなかった。
ルナたちが地上へ戻った頃には、空はすっかり夕方の色に染まっていた。西へ傾いた太陽が長い影を作り、その光の中で、つい先ほどまで存在していたダンジョンの入口が最後の輪郭を失っていく。
ルナは何もなくなった場所を見つめていた。
九十九階で戦った魔獣。その先にあった長い階段と橋。誰にも読めなかった巨大な門。そして、その向こうにいた女性。
あれほど長い時間を地下で過ごしたはずなのに、すべてが消えてしまうと、本当にあったことなのかさえ分からなくなる。
「……行くわよ」
アメリアさんの声に、ルナは振り返った。
「はい」
アメリアさんも一度だけ、ダンジョンがあった場所を見る。
「まずはギルド。報告しないと」
「そうですね」
「さすがに今日は、もう潜らなくていいのよね」
「もうダンジョンがないですよ」
「分かってるわよ」
アメリアさんが歩き出し、ユニちゃんもその後へ続いた。にゃん吉君は、いつものようにユニちゃんの頭の上でふわふわと浮かんでいる。
「ワン」
その声だけは、何も変わらなかった。
魔法都市へ戻る頃には、夕日はさらに低くなっていた。
ギルドの扉を開く。
中へ入った瞬間、いくつもの視線がルナたちへ集まった。
「……?」
ルナが足を止める。
静かだったのは、ほんの一瞬だった。
「アメリア!」
一人の冒険者が立ち上がる。
「ダンジョンが消えたって本当か!?」
その声をきっかけに、ギルド内が一気に騒がしくなった。
「九十九階まで行ったのか?」
「最深部はどうなってた!?」
「本当に攻略したのか!?」
あちこちから声が飛んでくる。
「ちょっと! 一度に聞かないで!」
アメリアさんの声が響く。けれど、騒ぎはなかなか収まらなかった。
ルナたちは受付へ向かい、順番に報告を始めた。
九十九階まで到達したこと。
そこで魔獣と戦ったこと。
アメリアさんがそれを討伐したこと。
そして、ダンジョンから出たあと、ダンジョンそのものが消滅したこと。
受付の職員は何度も内容を確認しながら、紙へ書き込んでいった。
「……以上ですか?」
その問いに、ルナは一瞬だけ黙った。
頭に浮かんだのは、あの巨大な門だった。その先にいた女性。広がっていった光のひび。そして、それを止めたにゃん吉君。
ルナは隣を見る。
アメリアさんもこちらを見ていた。ほんの少しだけ視線を交わす。
「……ええ。ひとまずは、それで」
アメリアさんが答えた。
今はまだ、話さない。
隠したいわけではない。
自分たち自身、何を見たのか分かっていないからだ。
受付の職員が頷く。
「確認が取れ次第、正式な攻略記録として処理いたします。本当に、お疲れさまでした」
「ありがとう」
アメリアさんが答える。
その直後、後ろから大きな声が上がった。
「ダンジョン攻略だってよ!」
再びギルドが沸いた。
「……帰りましょう」
アメリアさんが額に手を当てる。
「もういいんですか?」
「これ以上いたら質問だけで夜になるわよ」
「たしかに……」
「ワン」
「あなたは気楽でいいわね」
にゃん吉君は何も気にした様子がなかった。
屋敷へ戻る頃には、空に夜の色が混ざり始めていた。
玄関の扉が開く。
「お帰りなさいませ」
メイドがいつもと変わらない様子で頭を下げた。
「ただいま」
アメリアさんが答える。
メイドは四人を見たあと、アメリアさんへ視線を向けた。
「いかがでしたか?」
アメリアさんは少しだけ黙った。
そして――。
「攻略したわ」
メイドの目がわずかに大きくなった。
「九十九階まで?」
「ええ」
「……おめでとうございます、お嬢様」
深く頭を下げる。
アメリアさんは少し照れたように顔を逸らした。
「ありがとう」
「では、予定通り準備いたします」
「予定通り?」
ルナが首を傾げる。
メイドは微笑んだ。
「お食事でございます」
「……いつも食べてますよね?」
「本日は少々違います」
そう言って、メイドは奥へ向かっていった。
ルナがアメリアさんを見る。
「何かあるんですか?」
「知らないわよ」
「アメリアさんのお屋敷ですよね?」
「私だって全部知ってるわけじゃないの」
しばらくして食堂へ向かうと、その意味が分かった。
「わぁ……」
ルナは思わず声を漏らした。
いつもよりずっと多くの料理が並んでいる。
焼き上げられた肉料理。香草の添えられた魚。色鮮やかな野菜。温かなスープに、焼きたてのパン。さらに端には、甘い菓子まで用意されていた。
「多くない?」
アメリアさんがメイドを見る。
「ダンジョンを攻略されたのでしょう?」
「そうだけど」
「でしたら、これでも控えた方かと」
「……そう」
アメリアさんはそれ以上何も言わず、席へ着いた。
ルナも座る。ユニちゃんもその隣へ座った。
メイドが飲み物を注いでいく。
「では」
アメリアさんがグラスを持った。少しだけ照れくさそうに、ルナとユニちゃんを見る。
「……お疲れさま」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
小さくグラスが触れ合う。
「ワン」
にゃん吉君の声が混ざった。
アメリアさんが見上げる。
「あなたも参加するの?」
「ワン」
「何に乾杯してるのよ」
「ワン」
ルナは思わず笑った。
張り詰めていたものが、ようやくほどけていくようだった。
食事が始まる。
最初にダンジョンへ入った日のこと。何度も同じ階層を歩いたこと。うまく進めず、戻った日のこと。アメリアさんが先へ行こうとして、ルナが止めた日のこと。
「そんなに止められてないわよ」
「止めました」
「何回?」
「……何回でしょう」
「覚えてないんじゃない」
「でも、いっぱいです」
「いっぱいは数じゃないわよ」
「ワン」
「にゃん吉君はどっちの味方なの?」
「ワン」
「だから分からないのよ!」
笑い声が食堂に響いた。
九十九階での戦いも、あの先で見たものも、ほんの少しだけ遠いことのように感じられた。
食事が終わったあとも、四人はそのまま食堂に残っていた。
料理の多くは片づけられ、食卓には飲み物と少しの菓子だけが残っている。
ルナは温かい飲み物を両手で持ちながら、ぼんやりと湯気を眺めていた。
楽しかった。
でも――やっぱり頭から離れない。
「あの……」
ルナが口を開く。
「何?」
アメリアさんが見る。
「やっぱり、あの人のことが気になります」
食堂が静かになった。
誰のことか、聞き返す者はいなかった。アメリアさんも表情を変える。
「……そうね」
名前を忘れた女性。
どれほど長くあそこにいたのかさえ分からず、食べても食べても空腹が消えないと言っていた。
そして。
『だって、それも私たちの役目だったもの』
「私たちって言ってましたよね」
「言ってたわ」
アメリアさんが頷く。
「それに、この世界の魔力がどこから来るのか知ってるようなことも言ってた」
「はい」
「……少々、お待ちください」
声を上げたのはメイドだった。
アメリアさんが振り返る。
「どうしたの?」
「一つ、思い当たるものがございます」
「何?」
「確認してまいります」
メイドは一礼し、食堂を出ていった。
しばらくして戻ってきたその手には、一冊の古い本があった。
表紙は色褪せている。角は擦れ、紙そのものも黄色く変色していた。
メイドはそれを食卓へ置く。
「何、その本」
「この屋敷に古くから保管されているものでございます。各地に残された古い伝承や記録をまとめたものです」
メイドが慎重にページをめくっていく。
何枚も、何枚も。
やがて、手が止まった。
「……こちらです」
ルナが覗き込む。
古い文字が並んでいる。ところどころ読めるものもあったが、文章全体の意味までは分からない。
「何て書いてあるんですか?」
メイドは文字を目で追った。
「十二の災いをもたらすもの――十二災神」
「十二災神……」
ルナが小さく繰り返す。
「十二ってことは……十二人いるの?」
アメリアさんが尋ねる。
「この記述が正しければ、そのように考えられます。ただし、詳しいことはほとんど残されておりません」
「いつ頃の記録なの?」
「それも分かりません」
メイドがページの端を見る。
「年代の記載がございません。それほど古いものなのか、あるいは記録そのものが失われたのか……」
そして、一つの文章を指でなぞった。
「ただ、このように記されています」
ルナたちは黙って待つ。
「十二災神がこの地に降りしとき――その村は消える」
「……消える?」
アメリアさんの声が低くなる。
「はい」
「滅ぼされたってこと?」
「分かりません。ここには、村が消えたとだけ」
ルナは古い本を見る。
消えた。
たったそれだけの言葉なのに、妙に胸に残った。
「昔話じゃないの?」
アメリアさんが尋ねる。
「その可能性もございます」
メイドは否定しなかった。
「ですが――」
少しだけ間を置く。
「他の土地にも、似たような記録が残されていると聞いたことがございます」
アメリアさんの目が細くなった。
「他の土地にも?」
「はい。ただ、詳しい記録まではこちらには残されておりません」
メイドが古い本へ視線を落とす。
「この書物にあるのも、断片的な伝承ばかりでございます。どこまでが事実なのか、それすら分かっておりません」
食堂に再び静けさが戻った。
ルナは以前、ギルドで聞いた話を思い出していた。
まだ旅を始めて間もなかった頃。魔獣にはランクがあると教えてもらった。
E、D、C、B、A、S。
そして、そのさらに先。
災害級。
天災級。
神話級。
あのとき聞いた。
上へ行くほど、それはもう単純に戦う、倒すという話ではなくなっていくのだと。
その言葉の意味を、あの頃のルナはほとんど想像できなかった。
でも今は――ほんの少しだけ分かる気がした。
「……私」
アメリアさんが小さく呟く。
自分の手を見ていた。
「何度か、剣を抜こうとしてた」
ルナも覚えている。
あの女性が不思議なことを口にするたび。正体の分からない言葉を話すたび。
アメリアさんの手は、何度も剣へ伸びていた。
「もし……あそこで剣を抜いてたら」
アメリアさんが顔を上げた。
視線の先にいるのはユニちゃんだった。
「どうなってたの?」
ユニちゃんはアメリアさんを見る。
「戦いにはならなかったでしょう」
「……どういうこと?」
「アメリアは強いです」
ユニちゃんは静かに告げる。
「ただ――アメリアだけでは、戦いの土俵には上がれません」
「……」
アメリアさんは何も言わなかった。
ルナも言葉を失う。
アメリアさんは強い。
九十九階で、それを誰より近くで見た。以前とは比べものにならないほど強くなった。自分自身の力で九十九階の魔獣を倒した。
それでも。
アメリアだけでは、戦いの土俵には上がれない。
強いとか弱いとか。
勝つとか負けるとか。
そういうものではないのだろうか。
「……そう」
長い沈黙のあと、アメリアさんはそれだけ答えた。
食卓に置かれた古い本へ視線を戻す。
「十二災神……」
その名前だけが、静かな部屋に残った。
メイドが古い本を閉じたあとも、誰もすぐには席を立たなかった。
夜はすっかり深くなっていた。
窓の外には魔法都市の灯りが見える。
アメリアさんが、ふとユニちゃんを見る。
「……そういえば」
「はい」
「もう一つ聞いてなかったわ」
「何でしょう」
「あの女が言ってたことよ」
アメリアさんがユニちゃんをまっすぐ見る。
「ユニとにゃん吉君は、この世界の存在じゃないって」
ルナも顔を上げた。
「……あれ、どういう意味?」
ユニちゃんは少しも困った様子を見せなかった。
「そのままです」
「そのまま?」
「はい」
アメリアさんの眉が寄る。
「この世界じゃないって、別の大陸から来たとか、そういう意味じゃないわよね?」
「違います」
「……じゃあ、どこから来たの?」
「遠いところです」
「それは前にも聞いたわよ」
「とても遠いところです」
「どれくらい?」
「とてもです」
アメリアさんがじっとユニちゃんを見る。
「それで押し通すつもり?」
「はい」
「……そう」
意外にも、アメリアさんはそれ以上聞かなかった。
ルナはユニちゃんを見つめる。
遠いところ。
その言葉を聞くのは、初めてではない。
初めてユニちゃんと出会った、あの日。橋の上で聞いた。どこから来たのかと尋ねたルナに、ユニちゃんは同じように答えた。
遠いところから来た、と。
あの頃のルナは、遠くの町や、海の向こうの国を想像していた。
でも今は、その「遠い」がまったく違う意味に聞こえる。
「……ユニちゃん」
「はい」
「いつか、教えてくれる?」
ユニちゃんは少しだけルナを見る。
「いつかです」
「いつか?」
「はい」
それ以上は言わなかった。
ルナも、それ以上聞かなかった。
さらにしばらく話をして、時計の針が進み、屋敷の中も静かになってきた頃。
ユニちゃんが言った。
「明日には、王都へ戻ります」
「……明日?」
アメリアさんが顔を上げた。
「はい」
「急ね」
「マグナスさんに報告があります」
その名前を聞いて、ルナも頷いた。
この魔法都市へ来た理由。
ルナが魔法を使えない理由を探すため。
マグナスさんの紹介を受け、ここまでやってきた。
結局、答えは見つからなかった。
それでも、分かったことはある。
出会った人がいる。
経験したことがある。
一度、王都へ戻って報告する。それは必要なことだと思った。
「……そっか」
アメリアさんが呟く。
「明日、帰るのね」
「はい」
アメリアさんは窓の外を見る。
「もっといるのかと思ってた」
「また来ます」
ユニちゃんが言った。
「……いつ?」
「いつかです」
「そればっかりね、あなた」
「はい」
アメリアさんが小さく笑った。
「まあ、いいわ。さすがに今日は寝ましょう。明日出るなら、なおさらね」
ルナも立ち上がった。
「はい。おやすみなさい、アメリアさん」
「おやすみ、ルナ」
ユニちゃんも席を立つ。
アメリアさんは数歩歩いて――止まった。
振り返る。
その視線の先には、ユニちゃんの頭の上にいるにゃん吉君。
「にゃん吉君」
「ワン」
アメリアさんは、自分の部屋の方を指さした。
「今日は、いいところに寝ないの?」
「ワン」
「……来るの?」
にゃん吉君がアメリアさんを見る。
少しの間。
ふわり。
ユニちゃんの頭の上から離れ、そのままアメリアさんの方へ浮いていく。
「……来るのね」
アメリアさんの口元が少し緩む。
「ワン」
「じゃ、行くわよ」
アメリアさんが歩き出す。
にゃん吉君も、その横をふわふわとついていった。
ルナは二人の後ろ姿を見つめる。
「……仲良くなりましたね」
「はい」
ユニちゃんが答えた。
ルナは少しだけ笑った。
魔法都市で過ごす最後の夜が、静かに更けていった。
翌朝。
旅支度を整えたルナたちは、屋敷の玄関に集まっていた。
ルナは荷物を確認する。
「地図……あります。着替えも……あります。お金も……」
「何回確認してるのよ」
アメリアさんが呆れたように言う。
「忘れたら困りますから」
「確認するのはいいことだけど」
「はい」
「でも、今日はそれ全部いらないわ」
「……え?」
ルナが顔を上げる。
アメリアさんがメイドを見る。
メイドはすでに何かを持っていた。
小さなバッグだった。
大きさは、腰につけても邪魔にならない程度。落ち着いた色の革で作られ、その縁には赤い糸で丁寧な縫い目が走っていた。
派手ではない。
けれど、どこかアメリアさんらしい色だった。
「ルナ」
アメリアさんがバッグを受け取り、差し出す。
「これ、あなたに」
「……私に?」
「そう」
ルナは両手で受け取った。
「小さいバッグ……?」
「収納の魔法がかかってるわ。見た目よりずっと入る」
「収納魔法?」
ルナの目が大きくなる。
「旅を続けるなら便利でしょ。腰につけておけば、必要なものもすぐ取り出せるし」
ルナはバッグを見る。
「でも……こんなもの、もらっていいんですか?」
「あなたのために用意したんだから、受け取りなさい」
「私のために……?」
「そちらは、お嬢様が以前より特注されていたものでございます」
横からメイドが言った。
アメリアさんが振り返る。
「ちょっと」
「ルナ様が旅を続けられるのであれば、使いやすいものを、と」
「そこまで言わなくていいの!」
「そうでしたか」
「絶対分かってて言ってるでしょ!」
メイドは何も答えず、静かに微笑んでいた。
ルナはバッグを見る。
赤い糸。
一つ一つ、丁寧に縫われている。
ただ便利だから、今朝用意したものではない。ずっと前から、自分のために準備してくれていた。
「……アメリアさん」
「何よ」
「ありがとうございます」
ルナはバッグを大切に抱えた。
「大事に使います」
「……そうして」
アメリアさんが少しだけ視線を逸らした。
ルナは腰へバッグをつける。小さくて、歩く邪魔にもならない。
「似合ってるわ」
「本当ですか?」
「私が選んだんだから当然でしょ」
「どやです?」
「それユニのだから」
「どやです」
横からユニちゃんが言った。
「あなたは呼んでないわよ!」
ルナは笑った。
けれど、笑っているうちに少しずつ実感してくる。
本当に、今日でここを離れる。
「ルナ」
アメリアさんが呼んだ。
いつもより少しだけ静かな声だった。
「はい」
「……ちゃんと言ってなかったから」
「何をですか?」
アメリアさんは少し黙った。何から話そうか考えているようだった。
「私ね。最初は、あなたがダンジョンに行くことに反対だった」
「……はい」
「魔法も使えない。戦う力だってほとんどない。それなのに、危ない場所へ行こうとする」
「はい……」
「正直、理解できなかった」
アメリアさんはまっすぐルナを見る。
「どうしてそこまでして旅をするのかも。どうして危険だと分かってるのに、自分の足で先へ行こうとするのかも」
ルナは黙って聞いていた。
「でも、一緒に歩いて分かったわ」
アメリアさんが続ける。
「あなたは、私が見てないものを見てた」
「私が?」
「そう」
アメリアさんが頷く。
「私はずっと、先へ行くことしか考えてなかった。もっと強くなること。もっと上へ行くこと。姉さんが行ったところまで辿り着くこと」
少しだけ目を伏せる。
「だから、止まることが嫌いだった」
「……」
「でも、あなたは止まるのよね」
ルナは少し困った。
「私、そんなに止まってました?」
「止まってたわよ」
「……すみません」
「謝るところじゃないわ」
アメリアさんが小さく笑う。
「止まって、考えて、周りを見て。それから自分で決める」
ルナの腰の小さなバッグへ視線を落とす。
「私には、それができなかった」
「アメリアさんは強いです」
「知ってる」
即答だった。
ルナは思わず笑う。
「でもね」
アメリアさんも少し笑った。
「強いだけじゃ、あのダンジョンは攻略できなかった」
九十九階。
ルナの頭に、あの戦いが浮かぶ。
「私一人でも、九十九階まで辿り着けたかもしれない」
アメリアさんは言った。
「何度失敗しても、何年かかっても。たぶん、いつかは行ったと思う」
「はい」
「でも――攻略はできなかった」
ルナは顔を上げる。
アメリアさんが、まっすぐこちらを見ていた。
「あなたがいなければ、私はダンジョンを攻略できなかった」
「……」
「九十九階だけじゃない」
アメリアさんは続ける。
「途中で戻ったことも。立ち止まったことも。誰かと一緒に進むことも」
少しだけ間を置く。
「全部、私一人だったら選ばなかったと思う」
ルナは何も言えなかった。
「だから」
アメリアさんが息を吸う。
「ありがとう、ルナ」
その言葉は、いつものアメリアさんより少しだけ柔らかかった。
「あなたと一緒に行けてよかった」
ルナの胸が少しだけ熱くなる。
「……私もです」
「うん」
「私も、アメリアさんと一緒に行けてよかったです」
「……うん」
ルナは腰のバッグへ触れた。
「最初は、アメリアさんってすごい人なんだと思ってました」
「最初は?」
「今もすごいです」
アメリアさんがじっと見る。
「言い方が引っかかるわね」
「でも、一緒にいるうちに、それだけじゃないって分かりました」
「……どういう意味?」
「負けず嫌いで、すぐ先に行こうとして、いっぱい怒って。それに、思ってたよりずっと心配性でした」
「誰が心配性よ」
「アメリアさんです」
「あなたが危なっかしいだけでしょ」
「それもあるかもしれません」
ルナは笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも、姉さんのことを話してくれたときも、九十九階に向かうときも……アメリアさんが強いだけの人じゃないって、たくさん分かりました」
アメリアさんは何も言わなかった。
「だから、私もアメリアさんと一緒に行けてよかったです。いっぱい助けてもらいました。いっぱい怒られました。いっぱい置いていかれそうにもなりました」
「……最後のはいらないでしょ」
「ありましたよね?」
「……少しだけね」
二人とも笑った。
「本当に、ありがとうございます」
「いいのよ」
アメリアさんは少しだけ黙る。
そして。
「ルナ」
「はい」
「これからも旅を続けるんでしょ?」
「はい」
「だったら――ちゃんと自分で歩きなさい」
ルナはアメリアさんを見る。
「誰かが行くからじゃなくて。誰かに言われたからでもなくて」
アメリアさんが微笑む。
「あなたが行きたいところへ」
ルナは頷いた。
「はい」
今度は、迷わなかった。
「アメリア」
ユニちゃんが呼んだ。
「何?」
「これを」
ユニちゃんが何もない空間へ手を伸ばす。
そこから取り出したのは――二本の剣だった。
アメリアさんの表情が変わる。
「……何、その剣」
二本とも、アメリアさんが今まで使っていたものとは違う。
けれど、最初から二本で一つだったことだけは、見れば分かった。
「アメリアにあげます」
「……私に?」
「はい」
ユニちゃんは二本の剣を差し出す。
「今なら、この剣を扱えるでしょう」
アメリアさんの目がわずかに大きくなる。
「今なら……」
「はい」
しばらく剣を見つめてから、アメリアさんは両手を伸ばした。
二本の剣を受け取る。その重さを確かめるように、ゆっくりと持ち上げる。
「……前だったら?」
「扱えませんでした」
「そう」
アメリアさんは双剣を見る。
悔しがるでもなく、怒るでもなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうだった。
「じゃあ、今の私なら使えるってことね」
「はい」
アメリアさんは二本の剣を見つめたあと、ユニちゃんへ視線を戻した。
「……ありがとう、ユニ」
「はい」
ユニちゃんが小さく胸を張る。
「どやです」
「何であなたが得意げなのよ」
「どやです」
「二回言わなくていいわよ」
ルナはまた笑った。
出発の時間が近づいた。
ルナたちは屋敷の外へ出る。
朝の魔法都市には、もうたくさんの人が行き交っていた。
初めてこの街へ来た日のことを思い出す。
見たことのない魔法。
たくさんの魔道具。
そして、アメリアさん。
あの頃とは、いろいろなものが変わった。
「にゃん吉君」
アメリアさんが呼ぶ。
昨夜はアメリアさんの部屋へ行ったにゃん吉君も、今はもうユニちゃんの頭の上に戻っている。
「ワン」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「ワン」
「……まあ、いいわ」
アメリアさんは少しだけ笑う。
ルナはアメリアさんを見る。
「それじゃあ……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「また来ます」
「ええ」
アメリアさんは頷く。
「次に会うときまで、ちゃんと元気でいなさいよ」
「アメリアさんもです」
「私は大丈夫よ」
「無茶しそうです」
「しないわよ」
「本当ですか?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないですか」
二人で笑う。
ユニちゃんが歩き出した。
にゃん吉君も、その頭の上でふわふわと揺れる。
ルナも一歩進む。
そして、もう一度だけ振り返った。
アメリアさんは屋敷の前に立っていた。
その手には、ユニちゃんから受け取った二本の剣。
ルナは大きく手を振る。
「アメリアさん!」
アメリアさんも手を上げた。
「またね、ルナ!」
ルナは笑った。
「はい!」
それから前を向く。
三人は魔法都市の駅へ向かって歩き始めた。
ルナの腰には、小さな収納バッグ。
赤い糸が、朝の光を受けている。
「まずは王都ですね」
「はい」
ユニちゃんが答える。
「マグナスさんに報告します」
「何て言いましょう」
「見たままを言えばいいです」
「……信じてもらえますかね」
「たぶんです」
「たぶん……」
「ワン」
ルナは少し笑った。
答えは、まだ見つかっていない。
どうして自分だけ魔法が使えないのか。
あの門は、なぜ開いたのか。
十二災神とは何なのか。
ユニちゃんとにゃん吉君は、どこから来たのか。
分からないことは、旅を始めた頃より増えたのかもしれない。
それでも。
ルナは腰にある小さなバッグへ触れる。
この街へ来なければ、知らなかったことがある。
出会えなかった人がいる。
自分の足で歩いたからこそ、見つけたものがある。
遠くから、列車の汽笛が聞こえた。
ルナは顔を上げる。
線路は王都へ続いている。
そして、その先にも。
まだ知らない場所へ。
ルナはユニちゃんと並んで、駅へ向かって歩いていった。
第二章 了




