第2章 第25話「門の向こう」
開いた壁の向こうには、下へ続く階段があった。
誰も、すぐには動かなかった。
九十九階の広間には戦いの余韻が残っている。砕けた床、折れた柱、ところどころに残る魔法の痕跡。その中央で、アメリアさんは二本の剣を収めながら、じっと階段を見ていた。
「……まだ、先があるのね」
ルナも階段の奥を見る。
ここが最深部だと思っていた。少なくとも、これまで聞いた話では九十九階のさらに奥に何かがあるなんて、一度も聞いたことがない。
「アメリアさんも、知らなかったんですか?」
「知らないわ。二年前は、あんなものなかったもの。そもそも、ここを越えられなかったんだから、その先があるかどうかなんて確かめようもなかったけど」
「そうですよね……」
暗い階段だった。
九十九階まで続いていたダンジョンと、造りそのものは大きく変わらない。それなのに、ずっと昔からそこにあって、今までただ隠されていたような――そんな妙な感じがする。
そして、もう一つ。
「……にゃん吉君?」
返事がない。
にゃん吉君は、階段の奥をじっと見つめていた。
いつもなら名前を呼べば、すぐに「ワン」と返ってくる。けれど今は白く丸い体をふわふわと浮かせたまま、その先から目を離そうとしない。
「にゃん吉君」
もう一度呼ぶ。
ようやく、にゃん吉君が振り返った。
「ワン」
「……どうしたの?」
「ワン」
「何かあるの?」
「ワン」
「……どっちのワン?」
アメリアさんも、その様子を見ていた。
「……その子、何か知ってるんじゃない?」
「私も、そんな気がしてきました」
「ワン」
けれど次の瞬間、にゃん吉君が動いた。
ふわりとルナのそばを離れ、そのまま開いた壁の方へ向かっていく。
「え? にゃん吉君、待って」
にゃん吉君は階段の手前で止まった。
ルナが追いつくと、一度だけ振り返る。
「……行くの?」
「ワン」
今度の返事だけは、なぜか迷いがないように聞こえた。
「今日は戻るべきよ」
後ろからアメリアさんの声がした。
「私も気にはなる。でも、今すぐ行く理由はないわ。九十九階を越えられることは分かったんだもの。一度戻って、準備してから来ればいい」
それは正しい。
知らない場所へ勢いだけで踏み込まないこと。帰れるうちに帰ること。それも冒険者に必要な判断だと、ルナはここまでの旅で学んできた。
「……そうですね」
頷いた、そのときだった。
にゃん吉君は階段から離れなかった。
ルナは白い背中を見つめた。
ここまで何度も助けられた。灯りになってくれた。危ないときには守ってくれた。意味の分からない行動も多かったけれど、にゃん吉君がこうして自分から何かを求めることはほとんどない。
ルナは少し考えてから、アメリアさんを見る。
「少しだけ、見に行きませんか」
「ルナ」
「危ないと思ったら、すぐ戻ります。その先を確認するだけです」
アメリアさんはしばらくルナを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……本当に確認するだけよ。私はもう一戦する気なんてないんだから」
「はい」
「何かあったらすぐ戻る」
「はい」
「にゃん吉君もですよ」
「ワン」
ユニちゃんが階段へ向かう。
「ユニは迷わないのね」
「はい」
「……あなたはもう少し迷いなさいよ」
にゃん吉君を先頭に、四人は階段を下り始めた。
一段、また一段。
どれくらい下まで降りただろう。
九十九階の光はとっくに見えなくなっている。それでも階段は続いていた。
「……まだ続くの?」
アメリアさんの声が、階段に小さく響く。
「長いですね……」
ルナは長杖を握りながら、一段ずつ下りていく。
にゃん吉君だけは迷うことなく、ふわふわと先へ進んでいた。
やがて――階段が終わった。
その先にあったのは、長い橋だった。
「……橋?」
ルナは思わず足を止めた。
橋の下を覗いても、底は見えない。暗闇の中へ、そのまま吸い込まれていくようだった。
そして、橋の先には大きな門があった。
見たことのない形をしている。表面には文字のようなものが刻まれていたが、ルナには何と書かれているのか分からない。
「アメリアさん、これ読めますか?」
「……無理ね。魔法文字でもないわ」
「ユニちゃんは?」
「分かりません」
誰にも読めない。
ルナは門を見上げた。
理由は分からない。何かを見たわけでも、聞いたわけでもない。
それでも――ここに足を踏み入れてはいけない。そんな気がした。
「……戻った方がいいのかな」
小さく呟いたルナの横を、にゃん吉君がふわふわと進んでいく。
「にゃん吉君?」
「ワン」
にゃん吉君は門の前で止まった。
その様子を見て、ルナはユニちゃんとアメリアさんへ目を向ける。
アメリアさんはしばらく門を見上げていたが、やがて息を吐いた。
「……本当に、少しだけよ」
ルナは頷いた。
ルナが門へ手を伸ばした。
その指先が触れるより先に――。
巨大な門が、音もなく開き始めた。
「……え?」
ルナは思わず手を止める。
誰も触れていない。
それなのに、門はルナたちを迎え入れるように、ゆっくりと左右へ開いていった。
その先に広がっていた光景を見て、ルナは言葉を失った。
「……ここが、ダンジョンの中?」
とても広い空間だった。
どこから光が差しているのか分からない。それなのに中は明るく、遠くまで見渡すことができる。
モンスターはいない。宝箱もない。
これまでの階層にあったようなものが、何一つ見当たらなかった。
ただ、広い空間だけがどこまでも続いている。
四人は慎重に歩き始めた。
足音だけが、静かな空間に響く。
「……何もないですね」
「それが逆に嫌なのよ」
アメリアさんは周囲を警戒したまま歩いている。
ユニちゃんはいつもと変わらない。
そして、にゃん吉君は――やはり迷わなかった。ふわふわと少し前を進んでいる。
しばらく進んだ、そのときだった。
ルナは足を止めた。
「……あれ」
淡い光の向こうに、何かが見えた。
最初は、そこに何かがあるとしか分からなかった。けれど近づくにつれて、少しずつ輪郭が見えてくる。
「……人?」
アメリアさんが一歩前へ出る。
「ルナ、私より前に出ないで」
「はい」
さらに近づくと、その姿がはっきりと見えた。
若い女性だった。
年は二十歳前後に見える。長い髪に、整った顔立ち。こんな場所にいることの方がおかしいと思えるほど、美しい女性だった。
女性も、こちらに気づいていた。
けれど、警戒する様子はない。
ただ静かに四人を見ている。
やがて、女性が口を開いた。
「……私を、殺しに来たの?」
「え?」
思いもしなかった言葉に、ルナは足を止めた。
「違います」
女性は少しだけ首を傾げた。
「そう」
それだけだった。
女性は改めて四人を見た。
「じゃあ、あなたたちは何者?」
「私たちは――」
ルナが答えようとしたところで、女性の視線がアメリアさんに止まった。
「……すごい」
「何が?」
「あなた、とてもたくさん持ってるのね」
アメリアさんの表情が変わる。
「……魔力のこと?」
女性は小さく頷いた。
「人間にしては、とても多い」
「人間にしては……?」
アメリアさんの目が細くなる。
「その言い方、あなたは人間じゃないみたいに聞こえるけど」
女性は答えなかった。
アメリアさんの手が、ゆっくりと剣へ近づく。
女性はそれを気にする様子もなく、次にルナを見た。
その目が、長杖を持つルナの姿を静かに追う。
「……」
けれど、女性は何も言わなかった。
ルナはその視線を受けながら、長杖を握り直す。
やがて女性の視線は隣へ移った。
そして――止まった。
にゃん吉君。
女性が初めて目を見開く。
「……あなた」
にゃん吉君が、ふわふわと浮いたまま女性を見る。
「なんで、そんな姿をしてるの?」
「え?」
ルナは思わずにゃん吉君を見る。
白くて丸い、いつもの姿だ。
「どういうことですか?」
女性は答えない。にゃん吉君をじっと見つめている。
「ワン」
女性の眉がわずかに動いた。
「……それも、どうしたの?」
にゃん吉君は答えなかった。
女性の視線がゆっくりと動く。
最後に見たのは、ユニちゃんだった。
「……あなたも」
女性がユニちゃんを見つめる。
先ほどまでとは違い、その視線が長く止まった。
「あなたも、この子も、この世界の存在ではないみたいね」
ルナがユニちゃんを見る。
アメリアさんも、わずかに表情を変えた。
ユニちゃんだけは、いつもと何も変わらない。
「はい」
「……どこから来たの?」
「遠いところから来ました」
「遠いところ?」
「はい。とても遠いところです」
女性はしばらくユニちゃんを見つめた。
「そう。遠いところ……」
それ以上は聞かなかった。
「ちょっと待って」
アメリアさんが口を挟む。
「さっきから私たちのことばかり見てるけど、自分のことは何も話してないわよね」
女性がアメリアさんを見る。
「あなたは誰?」
「私?」
「そうよ。ここはダンジョンの最深部よりさらに奥。普通の人がいるような場所じゃないわ」
女性は少し考えるように首を傾げた。
「名前を聞いてるの?」
「それも含めてよ」
「名前……」
女性は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「ずっと呼ばれてないから、忘れちゃった」
「……忘れた?」
「ええ」
あまりにも普通に答えるので、ルナは何も言えなかった。
「じゃあ、いつからここにいるの?」
アメリアさんが続ける。
「分からないわ」
「どれくらい?」
「数えてないもの」
「百年とか?」
女性は少しだけ首を傾げた。
「百年って、長いの?」
アメリアさんが黙った。
ルナも言葉を失う。
冗談を言っているようには見えなかった。
女性は何事もなかったように周囲を見渡した。
「昔は、もっといろいろあったのよ」
「いろいろ?」
ルナも広い空間を見る。
今は何もない。
「食べられるもの」
女性はそう答えた。
アメリアさんの表情が変わる。
「……食べられるものって?」
「いろいろ」
「ここには、もう何もないですよね」
ルナが尋ねる。
「ええ」
女性は少し考えた。
「もう、食べたから」
誰も言葉を返さなかった。
あまりにも普通の声だった。
自慢しているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、そうだったから答えた。それだけに聞こえた。
「……全部?」
「たぶん」
「たぶん……?」
「昔すぎて、覚えてないもの」
女性は静かに微笑んだ。
アメリアさんの手が、今度ははっきりと剣の柄へかかる。
「あなた……何者なの?」
「だから、忘れちゃったの」
「そういう意味じゃないわ」
女性は不思議そうにアメリアさんを見る。
それから、また周囲へ視線を向けた。
「ずっと、お腹が空いてるの」
声の調子は変わらない。
「食べても、食べても、なくならないの」
ルナは何も言えなかった。
目の前にいるのは、見た目だけならどこにでもいそうな若い女性だ。
けれど、その言葉だけが、この場所の静けさとまるで噛み合っていなかった。
女性が、ふとルナたちを見る。
「あなたたち、この世界の魔力がどうやって生まれているか知ってる?」
「……魔力が?」
アメリアさんの表情が変わった。
「大気や大地に満ちているものじゃないの?」
「そういうことじゃないわ」
女性は静かに首を振る。
「それが、どこから来るのか」
アメリアさんは答えなかった。
女性はそんなアメリアさんを見て、少しだけ首を傾げる。
「知らないのね」
「……あなたは知ってるの?」
「ええ」
「どうして?」
女性はしばらく黙っていた。
そして、自分のお腹へ手を当てる。
「だって、それも私たちの役目だったもの」
「……私たち?」
ルナが聞き返す。
女性は答えなかった。
「他にも、あなたみたいな人がいるの?」
それにも答えない。
ただ、どこか遠くを見るように目を細めた。
「……外には出られないんですか?」
ルナが尋ねる。
「出られないわ」
「あの門からも?」
「ええ」
「誰かに閉じ込められたんですか?」
女性は少し考えた。
「たぶん」
「誰に?」
今度は、少し長い沈黙があった。
「……分からない」
「覚えてないんですか?」
「昔すぎるもの」
女性はそう言って、ルナたちが入ってきた方を見る。
そして――表情が止まった。
「……あら?」
「どうしたんですか?」
女性は門の方を見つめたまま答えない。
「何?」
アメリアさんが聞く。
「開いたのね」
「え?」
「あの門」
女性はゆっくりとルナたちへ視線を戻した。
「ずっと、開かなかったのに」
「……開かない門だったんですか?」
「ええ」
ルナは遠くに見える門を振り返った。
自分が触れるより先に、あの門は開いた。
誰も触れていないのに。
「じゃあ、どうして……」
女性は答えなかった。
ルナを見ていない。
その視線は、にゃん吉君へ向けられていた。
「あなたが来たから?」
にゃん吉君も、女性を見ている。
「ニャ」
聞き慣れない声が、静かな空間に響いた。
ルナは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「……え?」
にゃん吉君を見る。
白くて丸い姿も、ふわふわと浮かんでいるのも、いつもと何も変わらない。
「にゃん吉君……今、ニャって言った?」
返事はない。
「ワンじゃなくて?」
それでも、にゃん吉君は何も答えなかった。
女性だけが、その姿をじっと見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そう」
それだけだった。
「何なんですか?」
ルナが尋ねる。
「にゃん吉君のこと、知ってるんですか?」
女性は首を振った。
「知らないわ」
「じゃあ、どうして……」
「分からないから見てるの」
女性はにゃん吉君を見つめたまま答えた。
「その子、この世界のものじゃないでしょう?」
ルナは答えられなかった。
にゃん吉君も何も言わない。
ルナは困ってユニちゃんを見る。
「ユニちゃんは?」
「分かりません」
「……本当に?」
「はい」
いつもと変わらない顔だった。
アメリアさんが小さく息を吐く。
「聞いても分からないなら、今はそれでいいわ」
そう言って、女性を見る。
「それより私たちは戻るわよ。最初から少し確認するだけのつもりだったんだから」
「……はい」
ルナも頷いた。
聞きたいことはいくつもある。
けれど、ここが何なのかも、目の前の女性が何者なのかも分からない。アメリアさんは九十九階で戦ったばかりだ。
これ以上ここに留まる理由はない。
そのときだった。
――ゴォン。
低い音が、広い空間の奥から響いた。
「……何?」
ルナが周囲を見る。
もう一度。
――ゴォン。
今度は、足元からも微かな震えが伝わってきた。
アメリアさんがすぐに剣へ手をかける。
「ルナ、こっちへ」
「はい」
ルナがアメリアさんのそばへ移動する。
ユニちゃんも周囲を見ていた。
女性だけは、その場から動かなかった。
「……あら」
「何?」
女性は、ルナたちが入ってきた門とは違う方向を見つめていた。
何もないように見える、遠くの壁。
そこに細い光が走った。
「……ひび?」
ルナが目を凝らす。
一本だった光が、ゆっくりと枝分かれしていく。
壁だけではない。床にも。さらに遠くの天井にも。
淡い光の筋が、少しずつ広がっていく。
「何なの、あれ」
女性が静かに答えた。
「壊れ始めてる」
アメリアさんが女性を見る。
「何が?」
「ここ」
「ここって……この部屋?」
女性は首を振った。
「私を、ここに置いているもの」
ルナは息を呑んだ。
「……封印?」
女性はその言葉を聞いて、少し考える。
「今は、そう呼ぶの?」
「あなた、自分が封印されてることも分かってなかったの?」
「外に出られないことは知ってるわ」
また低い音が響いた。
光のひびが、さらに伸びる。
アメリアさんが門を見る。
「まずいわ。戻るわよ」
「はい」
ルナも振り返る。
けれど、そこで足が止まった。
女性が動いていない。
「……来ないんですか?」
「今は、行かないわ」
「今は……?」
女性は、広がっていく光のひびを見つめた。
「でも、これがなくなれば――私はまた地上に戻る」
「また……?」
ルナは、その一言に引っかかった。
以前にも地上にいた。
そういう意味に聞こえた。
けれど、女性はそれ以上説明しない。
「あなた、自分が外に出たらどうなるか分かってるの?」
アメリアさんが尋ねる。
「たぶん」
「何が起きるの?」
女性は少し考えた。
「みんな、お腹が空くわ」
「みんな?」
「たくさん」
女性は自分のお腹へ手を当てる。
「食べても、足りなくなるの」
その瞬間だった。
ルナの腹部に、突然空腹を感じた。
「……え?」
朝から何も食べていないような、強い空腹。
けれど、それはほんの一瞬だった。すぐに消える。
「ルナ?」
「今……」
隣を見る。
アメリアさんも自分のお腹へ手を当てていた。
「……何よ、これ」
女性が二人を見る。
「あら」
その声には、ほんの少しだけ困ったような響きがあった。
「漏れてる」
「漏れてる!?」
「少しだけ」
「少しじゃないわよ!」
アメリアさんが女性から距離を取る。
女性は何もしない。
ただ立っているだけ。
それなのに――。
――ゴォン。
また封印にひびが走った。
女性は広がっていく光を見つめる。
「これが全部なくなったら、私は外に出る」
静かな声だった。
「そのときは――」
女性の視線がアメリアさんへ向く。
次にユニちゃんへ。
そして最後に、にゃん吉君で止まった。
「あなたたちは、私を止められるかしら」
誰も、すぐには答えなかった。
女性は答えを求めることもなく、再びひびへ目を向ける。
また、光が伸びた。
「どうすれば止められるの?」
アメリアさんが尋ねる。
「知らないわ」
「あなたの封印でしょ!?」
「私は閉じ込められてる方だもの」
「だったら誰が封印したのよ!」
女性は黙った。
「覚えてないの?」
「……ええ」
「何か一つくらい覚えてないの?」
女性は光のひびを見つめる。
長い沈黙のあと、首を振った。
「ごめんなさい」
また、ひびが伸びた。
ルナは長杖を握りしめる。
どうすればいい。
消魔鋼で触れていいものなのかも分からない。そもそも魔法による封印なのかさえ分からない。
「ユニちゃん」
「はい」
「これ、止められる?」
ユニちゃんは光のひびを見る。
少しの間を置いて、首を振った。
「分かりません」
「……そっか」
そのとき。
白いものが、ルナの横を通り過ぎた。
「にゃん吉君?」
にゃん吉君が、ひびの方へ向かっていく。
ふわふわと。ゆっくりと。けれど、迷いなく。
「待って、危ないよ!」
にゃん吉君は止まらない。
女性が目を見開いた。
「……直せるの?」
返事はない。
にゃん吉君は、最も大きくひび割れた場所の前で止まった。
そこをじっと見つめる。
「にゃん吉君?」
次の瞬間。
にゃん吉君の周囲から、何かが広がった。
光ではない。風でもない。音もない。
ルナには、それが何なのか分からなかった。
ただ――広がり続けていたひびが、止まった。
「……止まった?」
アメリアさんが呟く。
誰も動かない。
しばらく待っても、ひびはそれ以上広がらなかった。
消えてはいない。
壊れた場所が元に戻ったわけでもない。
ただ、崩れていく動きだけが止まっている。
女性が目を見開いた。
「……あなた、何なの?」
にゃん吉君は答えない。
「ワン」
女性はしばらく、その姿を見つめていた。
「……変な子」
にゃん吉君がルナのところへ戻ってくる。
「にゃん吉君……今、何したの?」
「ワン」
「直したの?」
「ワン」
「どっち……」
そこまで言って、ルナはやめた。
今聞いても、きっと分からない。
「……ありがと」
「ワン」
アメリアさんは剣を収めず、止まったひびを見ている。
「直ったわけじゃないのよね」
「たぶん、そうだと思います」
「また壊れ始める可能性もある」
「……はい」
女性は、止まった光のひびを見上げていた。
「止めたのね」
その声には、驚きとも納得ともつかない響きがあった。
そして、もう一度にゃん吉君を見る。
「さっき聞いたこと」
「……?」
「私が地上に戻ったら、止められるかって」
にゃん吉君は女性を見た。
「ワン」
女性は少しだけ首を傾げた。
それから、小さく笑った。
「どっちなのかしら」
にゃん吉君はもう答えなかった。
アメリアさんが門を見る。
「……今度こそ戻るわよ」
「はい」
四人は門へ向かう。
門の前まで来たところで、ルナは振り返った。
女性はまだ、広い空間の中央に立っている。
その向こうには、止まったままの光のひびが残っていた。
直ったわけではない。
何も分かったわけでもない。
女性が何者なのか。
「私たち」とは誰なのか。
この世界の魔力が、どこから生まれているのか。
そして、にゃん吉君が何をしたのか。
何一つ、答えは出ていない。
女性と目が合った。
女性は何も言わなかった。
ルナも、何も言わなかった。
ルナは前を向き、門の外へ歩き出した。
ユニちゃん、アメリアさん、にゃん吉君も続く。
全員が橋へ出た、その直後だった。
ルナの背後で、低い音が響いた。
振り返る。
巨大な門が、ゆっくりと閉じていく。
「……閉まる」
女性の姿が、少しずつ門の向こうへ隠れていく。
女性は逃げようとはしなかった。
ただ、さっきまでと同じ場所に立っている。
やがて、その姿も見えなくなった。
巨大な門は完全に閉じた。
誰も、しばらく何も言わなかった。
「……行くわよ」
アメリアさんが先に歩き出した。
ルナも頷き、長い橋を渡る。
来たときと同じ階段を、今度は上へ向かって歩いていく。
しばらく上った、そのときだった。
ふっと、目の前が淡い光に包まれた。
「……え?」
次の瞬間、ルナたちはダンジョンの入口近くに立っていた。
「戻ってきた……?」
アメリアさんが周囲を見回す。
「攻略されたからでしょうね」
それだけ言って、アメリアさんは出口へ目を向けた。
ルナたちが外へ出る。
そして、振り返った。
「……あ」
ダンジョンの入口が、淡い光に包まれていた。
長い間そこに存在していたはずのものが、少しずつ輪郭を失っていく。
「消えてる……」
「攻略されたダンジョンが消えるときと同じよ」
ルナは、その光を見つめた。
門の向こうに残った女性のことが頭に浮かぶ。
「……あの人は」
「分からないわ」
アメリアさんも、消えていく入口を見つめていた。
それ以上、誰にも答えられなかった。
あの女性が何者だったのか。「私たち」とは誰なのか。この世界の魔力が、どこから生まれているのか。なぜ、あの門が開いたのか。そして――にゃん吉君が何を止めたのか。
何一つ、分かっていない。
ふと隣を見る。
にゃん吉君はいつの間にかユニちゃんの頭の上へ戻り、いつもと変わらない様子でふわふわと浮かんでいた。
「ワン」
ルナは、その声を聞きながら、消えていくダンジョンを見つめていた。




