第2章 第23話 九十九階へ
アメリアさんの屋敷にある広い机の上へ、出発に必要な荷物が並べられていた。固く焼かれたパン。干し肉。傷薬。包帯。小さな瓶に入った薬。アメリアさんは一つずつ確かめると、順番に収納カバンへ入れていく。
「食料は多めに持っていく。途中で何が起きるか分からないもの」
「これで全部ですか?」
「ええ。あとは出発前に水を入れれば終わりよ」
その時、部屋の扉が開いた。屋敷にいる女の人が、追加の荷物を持って入ってくる。
「こちらもお持ちください」
「もう十分よ」
「足りなくなるよりはよろしいかと」
女の人は荷物を机へ置くと、アメリアさんを見た。何か言いたそうな顔をしている。でも、なかなか口を開かない。
「そんな顔をしなくても、帰ってくるわよ」
「私はまだ何も申しておりません」
「顔に書いてあるもの」
女の人は少し黙った。それから、アメリアさんの収納カバンを両手で整える。
「必ず、お戻りください」
いつもと同じ落ち着いた声だった。でも、その手はカバンからなかなか離れなかった。アメリアさんは、その手へ自分の手を重ねる。
「ええ。今度は、ちゃんと帰ってくる」
女の人が静かに頭を下げた。
*
屋敷での準備を終えたあと、私たちは冒険者ギルドへ向かった。ギルドの中には、大勢の冒険者がいた。依頼書を見ている人。受付で話している人。酒を飲みながら笑っている人。
アメリアさんが中へ入ると、少しずつ声が小さくなった。何人もの人が、こちらを見る。アメリアさんは受付の前まで進み、そこで立ち止まった。
「二日後、九十九階を目指すわ」
ギルドの中が静かになった。誰かが持っていた杯を、机へ置く音が聞こえた。
「本気なのか?」
奥にいた男の人が聞いた。大きな盾を背負った、身体の大きな人だった。
「ええ」
「九十九階には、まだあいつがいる」
「知っているわ」
「二年前とは違う。俺たちも準備してきた。今度は一緒に――」
「必要ないわ」
アメリアさんが言葉を遮った。男の人の後ろにいた人たちも前へ出る。剣を持った人。杖を持った人。鎧を着た人。
その人たちは、二年前にもダンジョンへ入ったらしい。アメリアさんのお姉さんと一緒に、百階を目指した人たち。そして、お姉さんを残して帰ってきた人たち。
「俺たちにも責任がある」
「だから、今度こそ最後まで行く」
「リリアナだけに背負わせたままにはできない」
誰も目をそらさなかった。怖くないわけではないはずだ。それでも、もう一度あの場所へ行こうとしている。アメリアさんは、その人たちを順番に見た。
「あなたたちが逃げたとは思っていないわ」
誰も答えない。
「お姉ちゃんが残ったから、あなたたちは帰ってこられた。それも分かっている」
盾を持った男の人が、拳を握った。
「だったら――」
「それでも、今回は連れていかない」
アメリアさんの声は変わらなかった。
「これは私が決めたことよ。あなたたちが背負う必要はない」
「一人で行くつもりか?」
「一人じゃないわ」
アメリアさんが振り返った。その視線が、私たちへ向けられる。
「今回は、この四人で行く」
四人。アメリアさん。私。ユニちゃん。そして、にゃん吉君。私も、その中に入っていた。魔法を使えない私を、アメリアさんは数から外さなかった。
「その子も連れていくのか?」
男の人が私を見る。
「ええ」
「九十九階へ行くんだぞ」
「分かっているわ」
「なら――」
「私が連れていくんじゃない」
アメリアさんが言った。
「この子が、自分で行くと決めたのよ」
私は長杖を握る。片方には、淡い水色の消魔鋼。反対側には、淡い橙色の蓄魔珠。
男の人が私の長杖を見る。そのあと、ユニちゃんへ目を向けた。ユニちゃんは、いつもと同じ顔で立っていた。頭の上には、にゃん吉君が乗っている。
「白銀の……」
誰かが小さく言った。ユニちゃんが一緒に行くと分かると、ギルドの中の空気が少し変わった。それでも、盾を持った男の人はすぐには納得しなかった。
「必ず戻れ」
最後に、それだけを言った。アメリアさんが頷く。
「当然よ」
*
出発前の夜。私はなかなか眠れなかった。目を閉じても、明日のことを考えてしまう。
七十階。その先にある、地図でしか見たことのない場所。そして、九十九階にいる魔物。
寝台から起き上がり、水を飲む。窓の外は暗い。屋敷の中からも、ほとんど音が聞こえなかった。
私は部屋を出た。廊下を歩き、階段の近くまで来る。そこに、アメリアさんがいた。
階段の途中に掛けられた肖像画を見上げている。絵の中には、赤い髪の女の人が描かれていた。アメリアさんによく似ている。でも、少しだけ優しい目をしていた。
アメリアさんは、私に気づいていない。
「明日、終わらせてくるね」
小さな声だった。昼間、ギルドで話していた時とは違う。自信に満ちた声でも、誰かを遠ざける声でもなかった。お姉さんへ話しかける、妹の声だった。
白いものが、廊下をふわふわと進んでいく。にゃん吉君だった。
にゃん吉君はアメリアさんの前まで行くと、ゆっくりと頭の上へ降りた。
「ワン」
アメリアさんが驚いて顔を上げる。それから、自分の頭へ手を伸ばした。
「今日は一緒に寝てくれるの?」
「ワン」
「そう」
アメリアさんが少しだけ笑った。
私は声をかけず、その場を離れた。今夜は、にゃん吉君が一緒にいてくれる。それなら、きっと大丈夫。
私は自分の部屋へ戻った。今度は、少しだけ眠れそうだった。
*
翌朝。私たちはダンジョンの入口にある転移台へ集まった。アメリアさんが行き先を指定する。
七十階。
床に描かれた円へ光が走った。ここから先、百階まで転移台はない。途中で引き返す場合も、自分たちの足で七十階まで戻らなければならない。戻れなくなれば、助けは来ない。
私は長杖を握り直した。頭の上には、にゃん吉君がいる。
「にゃん吉君、今日も乗ってくれるんだね」
「ワン」
「いつもありがとう」
「ワン」
転移台の光が強くなる。足元の感覚が消えた。
次に目を開けた時、私たちは暗い石の通路に立っていた。
七十階。
壁にも天井にも灯りはない。私が魔道灯を取り出すより先に、アメリアさんが指を鳴らした。
白い光が生まれる。一つだった光が、すぐにいくつもの小さな光へ分かれた。光は私たちの周りを一度巡ると、天井近くへ昇っていく。
一つは前方へ。一つは後方へ。残った光は私たちの頭上へ浮かび、壁や床だけでなく、通路の奥まで淡く照らした。
「すごい……」
魔道灯よりも広く、遠くまで見える。
「深い階で、暗闇にまで気を取られていられないもの」
アメリアさんが言った。
その光に応えるように、頭の上が少し明るくなった。にゃん吉君の白い身体が、いつもより強く光っている。アメリアさんの光が届きにくい足元や、壁際の影が薄くなった。
「にゃん吉君も手伝ってくれるの?」
「ワン」
二つの光が重なり、暗かった通路が先まで見えるようになった。
アメリアさんが腰の双剣を抜く。二本の刃へ魔力が流れ、薄い光を帯びた。
「行くわよ」
アメリアさんが先頭を歩く。その後ろに私。ユニちゃんは最後尾だった。にゃん吉君は私の頭の上から、周囲を照らしている。
少し進んだところで、通路の奥から音が聞こえた。硬い爪が石を叩く音。一つではない。
「来るわ」
闇の奥から、黒い獣が飛び出した。狼に似ている。でも、人より大きい。一匹目に続いて、二匹、三匹。
魔物たちは私を見なかった。ユニちゃんも、にゃん吉君も見ない。全員が、アメリアさんだけを狙っている。
「どうして……」
一匹が横から飛びかかった。アメリアさんが身体をひねり、双剣を交差させる。魔力を帯びた二本の刃が、黒い獣の身体を斬り裂いた。魔物が淡い光へ変わる。
けれど、別の一匹がすぐに背後へ回った。アメリアさんが振り返り、片方の剣を振り抜く。刃から短い光が伸び、黒い獣の首元を斬り裂いた。
一匹ずつ、確実に倒している。それでも、アメリアさんの動きは普段より大きかった。魔物が現れる前から双剣を強く握り、必要以上の魔力を刃へ流している。その身体から漏れた魔力が、暗い通路の奥まで広がっていた。
「アメリア」
ユニちゃんが呼んだ。
「何よ!」
「六か月、何をしてきましたか?」
アメリアさんが魔物の牙を双剣で受け止める。
「今、説教している場合!?」
「今だからです」
ユニちゃんの声は変わらない。
「魔物より先に、あなたが戦い始めています」
アメリアさんの動きが止まりかけた。
「どういう意味よ」
「魔力が漏れています。殺気もです」
魔物は、使われた魔法だけを見ているわけではない。生き物の身体から漏れる魔力を感じ取っている。
私には魔力がない。ユニちゃんとにゃん吉君からも、魔物が感じ取れるものは出ていない。この場所で魔力を放っているのは、アメリアさんだけ。しかも今のアメリアさんは、九十九階へ近づこうとするほど、強く魔力を漏らしている。
「落ち着いてください」
ユニちゃんが言う。
「あなたは、もう二年前のあなたではありません」
黒い獣が地面を蹴った。アメリアさんが息を吐く。
双剣を握っていた手から、少しだけ力が抜けた。刃を覆っていた光が、必要な分だけに細くなる。アメリアさんの周囲に広がっていた重い空気も薄くなった。
飛びかかってきた魔物が、空中でわずかに迷う。
その一瞬。
アメリアさんの双剣が交差し、魔物の身体を切り裂いた。魔物はアメリアさんへ届く前に、淡い光となって消える。
残っていた魔物が足を止めた。アメリアさんは追いかけない。双剣を下げ、相手の動きを待つ。次に動いた一匹だけを、短い斬撃で倒した。
さっきまでとは違う。斬撃の大きさも、身体の動きも小さい。それでも、倒すまでの時間は短くなっていた。
最後の一匹が消える。通路に静けさが戻った。
「前より、無駄な動きが減っています」
ユニちゃんが言った。アメリアさんが肩で息をしながら振り返る。
「最初からできていたら、もっと格好がついたんだけど」
「私が育てました」
ユニちゃんが胸を張る。
「どやです」
「どうしてあんたが得意そうなのよ」
「成果が出たからです」
「私が頑張った成果でしょうが」
いつものアメリアさんの声に戻っていた。
*
七十五階。私たちは壁の一部が窪んだ場所で休むことにした。通路から少し外れている。正面から来る魔物にだけ注意すればいい。
アメリアさんが収納カバンから食料を取り出した。
「まだ半分も来ていないわ」
「七十階から始まったのに?」
「ここから先は、一階ずつが長くなるのよ。それに、魔物も強くなる」
私は固いパンを少しずつ食べた。身体はまだ動く。でも、足には少し疲れがたまっている。
にゃん吉君は私の頭の上に乗ったままだった。
「にゃん吉君は疲れないの?」
「ワン」
疲れていないらしい。
アメリアさんが地図を広げる。ここから先は、二年前の記録をもとに描かれていた。でも、ダンジョンの道は変わることがある。地図にある道がなくなっているかもしれない。何もなかった場所に、新しい道が現れることもある。
「地図を信じすぎないで。壁と床も見ながら進むわよ」
「はい」
休憩を終え、私たちは再び歩き始めた。階を下りるごとに、魔物は強くなっていった。
八十階では、岩のような皮膚を持つ獣が現れた。アメリアさんの斬撃を受けても倒れず、そのまま突っ込んでくる。
「左です!」
壁に残っていた爪の跡を見て、私は声を上げた。正面にいた獣とは別に、左の穴へ一匹隠れている。
アメリアさんが身体をひねる。右手の剣で正面の獣を牽制しながら、左手の剣へ魔力を集めた。刃から細い光が走る。
穴から魔物が飛び出すより早く、その身体が斬り裂かれた。魔物が淡い光へ変わる。
「助かったわ」
アメリアさんはそれだけを言い、すぐに正面の魔物へ向き直った。
八十四階では、天井へ張りつく魔物がいた。八十七階では、倒れた魔物のふりをして近づくものがいた。
私は魔物を倒せない。それでも、床に残る跡を見ることはできる。壁の傷。岩の色。何かを引きずった跡。
アメリアさんが戦っている間に周囲を見て、次に来るものを探す。ユニちゃんは最後尾を歩き、後ろから近づく魔物だけを知らせた。にゃん吉君は私の頭の上で、光を絶やさず周囲を照らしている。
誰か一人だけが進んでいるのではない。四人で、少しずつ下へ向かっていた。
*
九十階へ入ると、通路の様子が変わった。暗かった壁の中に、光る鉱石が混ざっている。
青。緑。紫。
細い光が重なり、通路の奥まで続いていた。
「明るい……」
アメリアさんの光がなくても、足元を見ることができる。
私は壁へ近づいた。鉱石は壁の内側から光っている。表面には細い亀裂があり、その奥にも同じ光が続いていた。
「触らない方がいいわよ」
アメリアさんが言った。
「危ない鉱石なんですか?」
「分からないから危ないの」
私は伸ばしかけていた手を戻した。
九十階からは、現れる魔物の数が減った。でも、一匹ずつが、それまでとは比べものにならないほど強かった。
最初に現れたのは、牛の頭を持つ大きな魔物だった。前に見たミノタウロスより身体の色が濃い。腕も太く、持っている斧はアメリアさんの身体より大きかった。
アメリアさんが双剣を振るう。二つの斬撃に重なるように、赤い光が走った。刃は魔物の身体へ届いている。それでも、魔物は倒れなかった。
巨大な斧を振り回し、通路の壁を砕きながら迫ってくる。アメリアさんは正面から受けず、横へ回った。右手の剣を脚へ当てる。傷口へ残った赤い光が、一瞬遅れて弾けた。
魔物の体勢が崩れる。アメリアさんは両方の剣へ魔力を集中させ、その胸へ交差する斬撃を放った。二本の光が胸の中心で重なる。
次の瞬間、魔物の巨体が淡い光へ変わった。
その先では、ハイオークが現れた。一匹だけだった。それでも、前に戦ったオークの集団より危険に見えた。アメリアさんの動きを見てから動き、壁を盾にして近づいてくる。
「頭がいい……」
「深い階にいる魔物ほど、力だけではないわ」
アメリアさんが踏み込む動きを途中で止めた。斬ると見せて、斬らなかった。
壁に隠れようとしたハイオークが、自分からアメリアさんの正面へ出る。そこへ、双剣が走った。魔物が淡い光へ変わる。
「この魔物たちも、二年前にいたんですか?」
「ええ」
「帰る時は、どうしたんですか?」
「下りる時にほとんど倒したから、帰り道にはあまり残っていなかったわ」
アメリアさんは簡単に答えた。
二年前、この道を大勢で進んだ。九十九階までたどり着き、戦った。そして、お姉さん以外の全員が帰ってきた。
帰るための道を作ったのは、きっと残ったお姉さんだった。アメリアさんは前を見たまま歩いている。私は、それ以上聞かなかった。
*
九十五階。階段を下りた先には、広い空間があった。壁も床も、黒い鉱石に覆われている。天井は高い。光る鉱石がところどころにあり、広い空間を薄く照らしていた。
「何かいます」
ユニちゃんが足を止めた。
地面が揺れた。奥の暗がりで、大きな影が動く。
最初に見えたのは、剣だった。岩を削って作ったような、巨大な剣。刃の表面には黒い鉱石が食い込んでいる。きれいな形ではない。鋭く研がれてもいない。それでも、振り下ろされれば人の身体ごと地面を砕くことが分かった。
剣を持っていたのは、二本の脚で立つ巨人だった。灰色の身体。岩と鉱石が重なったような皮膚。胸、肩、腕には、黒い結晶の鎧が生えている。
「こんな魔物、記録になかったわ」
アメリアさんが双剣を構えた。巨人が一歩、前へ出る。地面が大きく揺れた。
巨人はアメリアさんを見なかった。私にも目を向けない。その視線は、最初からユニちゃんだけを捉えていた。
魔力ではない。もっと別の何かで、誰が最も強いのかを見抜いている。
ユニちゃんが前へ出た。
「どうやら、私をご指名みたいです」
少しだけ胸を張る。
「どやです」
「どうして得意そうなのよ」
巨人が低い声で吠えた。空間全体が震える。
それは威嚇だけではなかった。自分より強い相手だと分かったうえで、それでも戦うと告げている。
ユニちゃんの表情から、得意そうな色が消えた。
「ルナ。アメリア。下がっていてください」
「一人で戦うの?」
「はい」
「手伝った方が――」
「この方は、私を選びました」
ユニちゃんは巨人から目を離さなかった。
「なら、私が応えます」
アメリアさんが双剣を下ろした。
「分かったわ。ただし、こっちへ攻撃が来たら防ぐわよ」
「お願いします」
私は長杖を構え、アメリアさんと一緒に後ろへ下がった。
ユニちゃんが歩き出す。巨人が剣を持ち上げた。
次の瞬間、巨大な剣が振り下ろされた。空気が裂ける。
ユニちゃんは直前まで動かなかった。剣が届く寸前、身体をわずかに横へずらす。巨大な刃が、青いコートのすぐ横を通り過ぎた。
地面が砕ける。黒い鉱石の破片が周囲へ飛んだ。
「速い……」
巨人の身体は大きい。それなのに、剣を戻す動きが止まらない。振り下ろした力をそのまま使い、横薙ぎへ変えた。
ユニちゃんが低く沈む。剣が頭上を通り過ぎた。そのまま巨人の足元へ入り、右脚へ手を伸ばす。
巨人が一歩引いた。ユニちゃんの手は届かない。
「避けた?」
力任せに振り回しているだけではない。ユニちゃんが何をしようとしているのかを見て、攻撃される場所を守っている。
巨人が空いている手で地面を殴った。床から黒い石が跳ね上がる。巨人はその石を掴み、私たちの横へ投げた。
大きな石が通路の入口へ落ちる。帰る道が半分ふさがった。
「逃げ道を……」
「こちらの動きも見ていますね」
ユニちゃんが言った。
巨人の剣が再び迫る。今度は途中で軌道が変わった。横へ振ると見せて止め、柄をユニちゃんへ突き出す。
ユニちゃんが身体をそらす。巨人はその動きを待っていた。黒い鉱石に覆われた拳が、上から振り下ろされる。
当たる。
そう思った瞬間、ユニちゃんの姿が拳の前から消えた。
拳が地面へ触れる直前。ユニちゃんは巨人の肘の内側へ滑り込んでいた。腕の曲がる方向へ進み、拳の力が届かない場所へ入る。
「強いですね」
ユニちゃんが静かに言った。からかっている声ではなかった。
巨人の力と速さだけではない。相手を見て、考え、勝つために動いている。それを認めた言葉だった。
ユニちゃんの手が巨人の脇腹へ伸びる。巨人は両腕を交差させ、黒い鉱石の鎧で守った。
ユニちゃんの指先が鎧へ触れる。硬い音が響いた。巨人の身体がわずかに揺れる。しかし、黒い鉱石には傷がなかった。
「硬い……」
私は思わず声を出した。あの鉱石は、普通の岩とは違う。アメリアさんが双剣で正面から斬れば、魔物より先に剣が壊れるかもしれない。
巨人が交差させていた腕を開く。その勢いでユニちゃんを挟もうとする。
ユニちゃんが後ろへ跳んだ。巨人は追う。地面を踏み砕き、一気に距離を縮めた。
大きな剣が、何度も振られる。縦。横。斜め。途中で止まり、別の攻撃へ変わる。
ユニちゃんはすべてを直前で避けていた。大きく離れない。剣が届くぎりぎりの場所を保ちながら、巨人の動きを見ている。
「ユニちゃん、戦い方を調べている……」
すぐに倒せないのではない。どう戦う魔物なのかを、最後まで見ようとしている。
巨人も、それに気づいているようだった。低く吠え、剣を両手で握る。黒い鉱石の光が、腕から剣へ広がった。
「来ます」
ユニちゃんが言った。
巨人が剣を振り上げる。今までで一番大きな攻撃。
でも、剣は振り下ろされなかった。
巨人が片手を離す。空いた拳がユニちゃんへ向かう。剣を使うと見せた攻撃。
ユニちゃんは動いていない。巨人の拳が迫る。
その直前、ユニちゃんが一歩だけ前へ出た。拳を外へ避けるのではなく、巨人の腕の内側へ入る。振り抜かれる肘の下を通り、胸元へ近づく。
巨人が反応する。黒い鉱石で覆われた両腕が、胸の前で交差する。さっきと同じ守り方。
でも、ユニちゃんは鉱石を狙わなかった。
交差した腕の間。鎧と鎧が重ならない、わずかな隙間。そこへ指先を触れさせる。
音は小さかった。巨人の背中から、短い衝撃が抜けた。
黒い鉱石の鎧には、傷一つついていない。それでも、巨人の身体が止まった。外側の鎧を壊さず、その内側へだけ力を届かせた。
巨人の手から、大剣が落ちる。重い音が、広い空間へ響いた。
巨人が膝をつく。それでも倒れず、ユニちゃんを見ていた。ユニちゃんも、その場を動かなかった。
しばらくして、巨人がゆっくりと頭を下げた。身体が淡い光へ変わり始める。
「見事でした」
ユニちゃんが言った。
巨人の身体がすべて光へ変わり、消えていく。あとには、大きな魔石が残った。巨人が使っていた大剣も残っている。身体を覆っていた黒い鉱石も、いくつか床へ落ちていた。
ユニちゃんが手を向ける。大剣が消えた。続いて、黒い鉱石と魔石も消える。ユニちゃん自身の異空間へ収納したのだ。
「その大剣、持ち帰るの?」
「はい。何でできているのか調べます」
「鉱石も?」
「貴重かもしれません」
アメリアさんが黒い鉱石の消えた床を見る。
「今の魔物、相当強かったわ」
「アメリアさんが戦っていたら、どうなっていましたか?」
「私でも勝てた」
アメリアさんは迷わず答えた。腰に戻した双剣へ目を向ける。
「でも、正面から斬っていたら、剣を一本失っていたかもしれないわね」
勝てなかったとは言わない。ただ、簡単に勝てる相手でもなかった。
あれほどの魔物が、九十五階にいた。九十九階は、まだ先にある。
ユニちゃんが、巨人の投げた岩へ手を向けた。入口をふさいでいた岩が浮き、通路の横へ移動する。先へ進む道が開いた。
アメリアさんが、その先を見る。
「行くわよ」
声に迷いはなかった。
「はい」
私は長杖を握り直した。消魔鋼の先端が、鉱石の光を受けて淡く輝く。
九十六階へ続く道は、黒い鉱石の奥へ伸びている。私たちはもう一度並び、深い暗闇の中へ歩き始めた。




