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願いを魔法に  作者: 由吉


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第2章 第23話 九十九階へ

アメリアさんの屋敷にある広い机の上へ、出発に必要な荷物が並べられていた。固く焼かれたパン。干し肉。傷薬。包帯。小さな瓶に入った薬。アメリアさんは一つずつ確かめると、順番に収納カバンへ入れていく。


「食料は多めに持っていく。途中で何が起きるか分からないもの」


「これで全部ですか?」


「ええ。あとは出発前に水を入れれば終わりよ」


その時、部屋の扉が開いた。屋敷にいる女の人が、追加の荷物を持って入ってくる。


「こちらもお持ちください」


「もう十分よ」


「足りなくなるよりはよろしいかと」


女の人は荷物を机へ置くと、アメリアさんを見た。何か言いたそうな顔をしている。でも、なかなか口を開かない。


「そんな顔をしなくても、帰ってくるわよ」


「私はまだ何も申しておりません」


「顔に書いてあるもの」


女の人は少し黙った。それから、アメリアさんの収納カバンを両手で整える。


「必ず、お戻りください」


いつもと同じ落ち着いた声だった。でも、その手はカバンからなかなか離れなかった。アメリアさんは、その手へ自分の手を重ねる。


「ええ。今度は、ちゃんと帰ってくる」


女の人が静かに頭を下げた。



屋敷での準備を終えたあと、私たちは冒険者ギルドへ向かった。ギルドの中には、大勢の冒険者がいた。依頼書を見ている人。受付で話している人。酒を飲みながら笑っている人。


アメリアさんが中へ入ると、少しずつ声が小さくなった。何人もの人が、こちらを見る。アメリアさんは受付の前まで進み、そこで立ち止まった。


「二日後、九十九階を目指すわ」


ギルドの中が静かになった。誰かが持っていた杯を、机へ置く音が聞こえた。


「本気なのか?」


奥にいた男の人が聞いた。大きな盾を背負った、身体の大きな人だった。


「ええ」


「九十九階には、まだあいつがいる」


「知っているわ」


「二年前とは違う。俺たちも準備してきた。今度は一緒に――」


「必要ないわ」


アメリアさんが言葉を遮った。男の人の後ろにいた人たちも前へ出る。剣を持った人。杖を持った人。鎧を着た人。


その人たちは、二年前にもダンジョンへ入ったらしい。アメリアさんのお姉さんと一緒に、百階を目指した人たち。そして、お姉さんを残して帰ってきた人たち。


「俺たちにも責任がある」


「だから、今度こそ最後まで行く」


「リリアナだけに背負わせたままにはできない」


誰も目をそらさなかった。怖くないわけではないはずだ。それでも、もう一度あの場所へ行こうとしている。アメリアさんは、その人たちを順番に見た。


「あなたたちが逃げたとは思っていないわ」


誰も答えない。


「お姉ちゃんが残ったから、あなたたちは帰ってこられた。それも分かっている」


盾を持った男の人が、拳を握った。


「だったら――」


「それでも、今回は連れていかない」


アメリアさんの声は変わらなかった。


「これは私が決めたことよ。あなたたちが背負う必要はない」


「一人で行くつもりか?」


「一人じゃないわ」


アメリアさんが振り返った。その視線が、私たちへ向けられる。


「今回は、この四人で行く」


四人。アメリアさん。私。ユニちゃん。そして、にゃん吉君。私も、その中に入っていた。魔法を使えない私を、アメリアさんは数から外さなかった。


「その子も連れていくのか?」


男の人が私を見る。


「ええ」


「九十九階へ行くんだぞ」


「分かっているわ」


「なら――」


「私が連れていくんじゃない」


アメリアさんが言った。


「この子が、自分で行くと決めたのよ」


私は長杖を握る。片方には、淡い水色の消魔鋼。反対側には、淡い橙色の蓄魔珠。


男の人が私の長杖を見る。そのあと、ユニちゃんへ目を向けた。ユニちゃんは、いつもと同じ顔で立っていた。頭の上には、にゃん吉君が乗っている。


「白銀の……」


誰かが小さく言った。ユニちゃんが一緒に行くと分かると、ギルドの中の空気が少し変わった。それでも、盾を持った男の人はすぐには納得しなかった。


「必ず戻れ」


最後に、それだけを言った。アメリアさんが頷く。


「当然よ」



出発前の夜。私はなかなか眠れなかった。目を閉じても、明日のことを考えてしまう。


七十階。その先にある、地図でしか見たことのない場所。そして、九十九階にいる魔物。


寝台から起き上がり、水を飲む。窓の外は暗い。屋敷の中からも、ほとんど音が聞こえなかった。


私は部屋を出た。廊下を歩き、階段の近くまで来る。そこに、アメリアさんがいた。


階段の途中に掛けられた肖像画を見上げている。絵の中には、赤い髪の女の人が描かれていた。アメリアさんによく似ている。でも、少しだけ優しい目をしていた。


アメリアさんは、私に気づいていない。


「明日、終わらせてくるね」


小さな声だった。昼間、ギルドで話していた時とは違う。自信に満ちた声でも、誰かを遠ざける声でもなかった。お姉さんへ話しかける、妹の声だった。


白いものが、廊下をふわふわと進んでいく。にゃん吉君だった。


にゃん吉君はアメリアさんの前まで行くと、ゆっくりと頭の上へ降りた。


「ワン」


アメリアさんが驚いて顔を上げる。それから、自分の頭へ手を伸ばした。


「今日は一緒に寝てくれるの?」


「ワン」


「そう」


アメリアさんが少しだけ笑った。


私は声をかけず、その場を離れた。今夜は、にゃん吉君が一緒にいてくれる。それなら、きっと大丈夫。


私は自分の部屋へ戻った。今度は、少しだけ眠れそうだった。



翌朝。私たちはダンジョンの入口にある転移台へ集まった。アメリアさんが行き先を指定する。


七十階。


床に描かれた円へ光が走った。ここから先、百階まで転移台はない。途中で引き返す場合も、自分たちの足で七十階まで戻らなければならない。戻れなくなれば、助けは来ない。


私は長杖を握り直した。頭の上には、にゃん吉君がいる。


「にゃん吉君、今日も乗ってくれるんだね」


「ワン」


「いつもありがとう」


「ワン」


転移台の光が強くなる。足元の感覚が消えた。


次に目を開けた時、私たちは暗い石の通路に立っていた。


七十階。


壁にも天井にも灯りはない。私が魔道灯を取り出すより先に、アメリアさんが指を鳴らした。


白い光が生まれる。一つだった光が、すぐにいくつもの小さな光へ分かれた。光は私たちの周りを一度巡ると、天井近くへ昇っていく。


一つは前方へ。一つは後方へ。残った光は私たちの頭上へ浮かび、壁や床だけでなく、通路の奥まで淡く照らした。


「すごい……」


魔道灯よりも広く、遠くまで見える。


「深い階で、暗闇にまで気を取られていられないもの」


アメリアさんが言った。


その光に応えるように、頭の上が少し明るくなった。にゃん吉君の白い身体が、いつもより強く光っている。アメリアさんの光が届きにくい足元や、壁際の影が薄くなった。


「にゃん吉君も手伝ってくれるの?」


「ワン」


二つの光が重なり、暗かった通路が先まで見えるようになった。


アメリアさんが腰の双剣を抜く。二本の刃へ魔力が流れ、薄い光を帯びた。


「行くわよ」


アメリアさんが先頭を歩く。その後ろに私。ユニちゃんは最後尾だった。にゃん吉君は私の頭の上から、周囲を照らしている。


少し進んだところで、通路の奥から音が聞こえた。硬い爪が石を叩く音。一つではない。


「来るわ」


闇の奥から、黒い獣が飛び出した。狼に似ている。でも、人より大きい。一匹目に続いて、二匹、三匹。


魔物たちは私を見なかった。ユニちゃんも、にゃん吉君も見ない。全員が、アメリアさんだけを狙っている。


「どうして……」


一匹が横から飛びかかった。アメリアさんが身体をひねり、双剣を交差させる。魔力を帯びた二本の刃が、黒い獣の身体を斬り裂いた。魔物が淡い光へ変わる。


けれど、別の一匹がすぐに背後へ回った。アメリアさんが振り返り、片方の剣を振り抜く。刃から短い光が伸び、黒い獣の首元を斬り裂いた。


一匹ずつ、確実に倒している。それでも、アメリアさんの動きは普段より大きかった。魔物が現れる前から双剣を強く握り、必要以上の魔力を刃へ流している。その身体から漏れた魔力が、暗い通路の奥まで広がっていた。


「アメリア」


ユニちゃんが呼んだ。


「何よ!」


「六か月、何をしてきましたか?」


アメリアさんが魔物の牙を双剣で受け止める。


「今、説教している場合!?」


「今だからです」


ユニちゃんの声は変わらない。


「魔物より先に、あなたが戦い始めています」


アメリアさんの動きが止まりかけた。


「どういう意味よ」


「魔力が漏れています。殺気もです」


魔物は、使われた魔法だけを見ているわけではない。生き物の身体から漏れる魔力を感じ取っている。


私には魔力がない。ユニちゃんとにゃん吉君からも、魔物が感じ取れるものは出ていない。この場所で魔力を放っているのは、アメリアさんだけ。しかも今のアメリアさんは、九十九階へ近づこうとするほど、強く魔力を漏らしている。


「落ち着いてください」


ユニちゃんが言う。


「あなたは、もう二年前のあなたではありません」


黒い獣が地面を蹴った。アメリアさんが息を吐く。


双剣を握っていた手から、少しだけ力が抜けた。刃を覆っていた光が、必要な分だけに細くなる。アメリアさんの周囲に広がっていた重い空気も薄くなった。


飛びかかってきた魔物が、空中でわずかに迷う。


その一瞬。


アメリアさんの双剣が交差し、魔物の身体を切り裂いた。魔物はアメリアさんへ届く前に、淡い光となって消える。


残っていた魔物が足を止めた。アメリアさんは追いかけない。双剣を下げ、相手の動きを待つ。次に動いた一匹だけを、短い斬撃で倒した。


さっきまでとは違う。斬撃の大きさも、身体の動きも小さい。それでも、倒すまでの時間は短くなっていた。


最後の一匹が消える。通路に静けさが戻った。


「前より、無駄な動きが減っています」


ユニちゃんが言った。アメリアさんが肩で息をしながら振り返る。


「最初からできていたら、もっと格好がついたんだけど」


「私が育てました」


ユニちゃんが胸を張る。


「どやです」


「どうしてあんたが得意そうなのよ」


「成果が出たからです」


「私が頑張った成果でしょうが」


いつものアメリアさんの声に戻っていた。



七十五階。私たちは壁の一部が窪んだ場所で休むことにした。通路から少し外れている。正面から来る魔物にだけ注意すればいい。


アメリアさんが収納カバンから食料を取り出した。


「まだ半分も来ていないわ」


「七十階から始まったのに?」


「ここから先は、一階ずつが長くなるのよ。それに、魔物も強くなる」


私は固いパンを少しずつ食べた。身体はまだ動く。でも、足には少し疲れがたまっている。


にゃん吉君は私の頭の上に乗ったままだった。


「にゃん吉君は疲れないの?」


「ワン」


疲れていないらしい。


アメリアさんが地図を広げる。ここから先は、二年前の記録をもとに描かれていた。でも、ダンジョンの道は変わることがある。地図にある道がなくなっているかもしれない。何もなかった場所に、新しい道が現れることもある。


「地図を信じすぎないで。壁と床も見ながら進むわよ」


「はい」


休憩を終え、私たちは再び歩き始めた。階を下りるごとに、魔物は強くなっていった。


八十階では、岩のような皮膚を持つ獣が現れた。アメリアさんの斬撃を受けても倒れず、そのまま突っ込んでくる。


「左です!」


壁に残っていた爪の跡を見て、私は声を上げた。正面にいた獣とは別に、左の穴へ一匹隠れている。


アメリアさんが身体をひねる。右手の剣で正面の獣を牽制しながら、左手の剣へ魔力を集めた。刃から細い光が走る。


穴から魔物が飛び出すより早く、その身体が斬り裂かれた。魔物が淡い光へ変わる。


「助かったわ」


アメリアさんはそれだけを言い、すぐに正面の魔物へ向き直った。


八十四階では、天井へ張りつく魔物がいた。八十七階では、倒れた魔物のふりをして近づくものがいた。


私は魔物を倒せない。それでも、床に残る跡を見ることはできる。壁の傷。岩の色。何かを引きずった跡。


アメリアさんが戦っている間に周囲を見て、次に来るものを探す。ユニちゃんは最後尾を歩き、後ろから近づく魔物だけを知らせた。にゃん吉君は私の頭の上で、光を絶やさず周囲を照らしている。


誰か一人だけが進んでいるのではない。四人で、少しずつ下へ向かっていた。



九十階へ入ると、通路の様子が変わった。暗かった壁の中に、光る鉱石が混ざっている。


青。緑。紫。


細い光が重なり、通路の奥まで続いていた。


「明るい……」


アメリアさんの光がなくても、足元を見ることができる。


私は壁へ近づいた。鉱石は壁の内側から光っている。表面には細い亀裂があり、その奥にも同じ光が続いていた。


「触らない方がいいわよ」


アメリアさんが言った。


「危ない鉱石なんですか?」


「分からないから危ないの」


私は伸ばしかけていた手を戻した。


九十階からは、現れる魔物の数が減った。でも、一匹ずつが、それまでとは比べものにならないほど強かった。


最初に現れたのは、牛の頭を持つ大きな魔物だった。前に見たミノタウロスより身体の色が濃い。腕も太く、持っている斧はアメリアさんの身体より大きかった。


アメリアさんが双剣を振るう。二つの斬撃に重なるように、赤い光が走った。刃は魔物の身体へ届いている。それでも、魔物は倒れなかった。


巨大な斧を振り回し、通路の壁を砕きながら迫ってくる。アメリアさんは正面から受けず、横へ回った。右手の剣を脚へ当てる。傷口へ残った赤い光が、一瞬遅れて弾けた。


魔物の体勢が崩れる。アメリアさんは両方の剣へ魔力を集中させ、その胸へ交差する斬撃を放った。二本の光が胸の中心で重なる。


次の瞬間、魔物の巨体が淡い光へ変わった。


その先では、ハイオークが現れた。一匹だけだった。それでも、前に戦ったオークの集団より危険に見えた。アメリアさんの動きを見てから動き、壁を盾にして近づいてくる。


「頭がいい……」


「深い階にいる魔物ほど、力だけではないわ」


アメリアさんが踏み込む動きを途中で止めた。斬ると見せて、斬らなかった。


壁に隠れようとしたハイオークが、自分からアメリアさんの正面へ出る。そこへ、双剣が走った。魔物が淡い光へ変わる。


「この魔物たちも、二年前にいたんですか?」


「ええ」


「帰る時は、どうしたんですか?」


「下りる時にほとんど倒したから、帰り道にはあまり残っていなかったわ」


アメリアさんは簡単に答えた。


二年前、この道を大勢で進んだ。九十九階までたどり着き、戦った。そして、お姉さん以外の全員が帰ってきた。


帰るための道を作ったのは、きっと残ったお姉さんだった。アメリアさんは前を見たまま歩いている。私は、それ以上聞かなかった。



九十五階。階段を下りた先には、広い空間があった。壁も床も、黒い鉱石に覆われている。天井は高い。光る鉱石がところどころにあり、広い空間を薄く照らしていた。


「何かいます」


ユニちゃんが足を止めた。


地面が揺れた。奥の暗がりで、大きな影が動く。


最初に見えたのは、剣だった。岩を削って作ったような、巨大な剣。刃の表面には黒い鉱石が食い込んでいる。きれいな形ではない。鋭く研がれてもいない。それでも、振り下ろされれば人の身体ごと地面を砕くことが分かった。


剣を持っていたのは、二本の脚で立つ巨人だった。灰色の身体。岩と鉱石が重なったような皮膚。胸、肩、腕には、黒い結晶の鎧が生えている。


「こんな魔物、記録になかったわ」


アメリアさんが双剣を構えた。巨人が一歩、前へ出る。地面が大きく揺れた。


巨人はアメリアさんを見なかった。私にも目を向けない。その視線は、最初からユニちゃんだけを捉えていた。


魔力ではない。もっと別の何かで、誰が最も強いのかを見抜いている。


ユニちゃんが前へ出た。


「どうやら、私をご指名みたいです」


少しだけ胸を張る。


「どやです」


「どうして得意そうなのよ」


巨人が低い声で吠えた。空間全体が震える。


それは威嚇だけではなかった。自分より強い相手だと分かったうえで、それでも戦うと告げている。


ユニちゃんの表情から、得意そうな色が消えた。


「ルナ。アメリア。下がっていてください」


「一人で戦うの?」


「はい」


「手伝った方が――」


「この方は、私を選びました」


ユニちゃんは巨人から目を離さなかった。


「なら、私が応えます」


アメリアさんが双剣を下ろした。


「分かったわ。ただし、こっちへ攻撃が来たら防ぐわよ」


「お願いします」


私は長杖を構え、アメリアさんと一緒に後ろへ下がった。


ユニちゃんが歩き出す。巨人が剣を持ち上げた。


次の瞬間、巨大な剣が振り下ろされた。空気が裂ける。


ユニちゃんは直前まで動かなかった。剣が届く寸前、身体をわずかに横へずらす。巨大な刃が、青いコートのすぐ横を通り過ぎた。


地面が砕ける。黒い鉱石の破片が周囲へ飛んだ。


「速い……」


巨人の身体は大きい。それなのに、剣を戻す動きが止まらない。振り下ろした力をそのまま使い、横薙ぎへ変えた。


ユニちゃんが低く沈む。剣が頭上を通り過ぎた。そのまま巨人の足元へ入り、右脚へ手を伸ばす。


巨人が一歩引いた。ユニちゃんの手は届かない。


「避けた?」


力任せに振り回しているだけではない。ユニちゃんが何をしようとしているのかを見て、攻撃される場所を守っている。


巨人が空いている手で地面を殴った。床から黒い石が跳ね上がる。巨人はその石を掴み、私たちの横へ投げた。


大きな石が通路の入口へ落ちる。帰る道が半分ふさがった。


「逃げ道を……」


「こちらの動きも見ていますね」


ユニちゃんが言った。


巨人の剣が再び迫る。今度は途中で軌道が変わった。横へ振ると見せて止め、柄をユニちゃんへ突き出す。


ユニちゃんが身体をそらす。巨人はその動きを待っていた。黒い鉱石に覆われた拳が、上から振り下ろされる。


当たる。


そう思った瞬間、ユニちゃんの姿が拳の前から消えた。


拳が地面へ触れる直前。ユニちゃんは巨人の肘の内側へ滑り込んでいた。腕の曲がる方向へ進み、拳の力が届かない場所へ入る。


「強いですね」


ユニちゃんが静かに言った。からかっている声ではなかった。


巨人の力と速さだけではない。相手を見て、考え、勝つために動いている。それを認めた言葉だった。


ユニちゃんの手が巨人の脇腹へ伸びる。巨人は両腕を交差させ、黒い鉱石の鎧で守った。


ユニちゃんの指先が鎧へ触れる。硬い音が響いた。巨人の身体がわずかに揺れる。しかし、黒い鉱石には傷がなかった。


「硬い……」


私は思わず声を出した。あの鉱石は、普通の岩とは違う。アメリアさんが双剣で正面から斬れば、魔物より先に剣が壊れるかもしれない。


巨人が交差させていた腕を開く。その勢いでユニちゃんを挟もうとする。


ユニちゃんが後ろへ跳んだ。巨人は追う。地面を踏み砕き、一気に距離を縮めた。


大きな剣が、何度も振られる。縦。横。斜め。途中で止まり、別の攻撃へ変わる。


ユニちゃんはすべてを直前で避けていた。大きく離れない。剣が届くぎりぎりの場所を保ちながら、巨人の動きを見ている。


「ユニちゃん、戦い方を調べている……」


すぐに倒せないのではない。どう戦う魔物なのかを、最後まで見ようとしている。


巨人も、それに気づいているようだった。低く吠え、剣を両手で握る。黒い鉱石の光が、腕から剣へ広がった。


「来ます」


ユニちゃんが言った。


巨人が剣を振り上げる。今までで一番大きな攻撃。


でも、剣は振り下ろされなかった。


巨人が片手を離す。空いた拳がユニちゃんへ向かう。剣を使うと見せた攻撃。


ユニちゃんは動いていない。巨人の拳が迫る。


その直前、ユニちゃんが一歩だけ前へ出た。拳を外へ避けるのではなく、巨人の腕の内側へ入る。振り抜かれる肘の下を通り、胸元へ近づく。


巨人が反応する。黒い鉱石で覆われた両腕が、胸の前で交差する。さっきと同じ守り方。


でも、ユニちゃんは鉱石を狙わなかった。


交差した腕の間。鎧と鎧が重ならない、わずかな隙間。そこへ指先を触れさせる。


音は小さかった。巨人の背中から、短い衝撃が抜けた。


黒い鉱石の鎧には、傷一つついていない。それでも、巨人の身体が止まった。外側の鎧を壊さず、その内側へだけ力を届かせた。


巨人の手から、大剣が落ちる。重い音が、広い空間へ響いた。


巨人が膝をつく。それでも倒れず、ユニちゃんを見ていた。ユニちゃんも、その場を動かなかった。


しばらくして、巨人がゆっくりと頭を下げた。身体が淡い光へ変わり始める。


「見事でした」


ユニちゃんが言った。


巨人の身体がすべて光へ変わり、消えていく。あとには、大きな魔石が残った。巨人が使っていた大剣も残っている。身体を覆っていた黒い鉱石も、いくつか床へ落ちていた。


ユニちゃんが手を向ける。大剣が消えた。続いて、黒い鉱石と魔石も消える。ユニちゃん自身の異空間へ収納したのだ。


「その大剣、持ち帰るの?」


「はい。何でできているのか調べます」


「鉱石も?」


「貴重かもしれません」


アメリアさんが黒い鉱石の消えた床を見る。


「今の魔物、相当強かったわ」


「アメリアさんが戦っていたら、どうなっていましたか?」


「私でも勝てた」


アメリアさんは迷わず答えた。腰に戻した双剣へ目を向ける。


「でも、正面から斬っていたら、剣を一本失っていたかもしれないわね」


勝てなかったとは言わない。ただ、簡単に勝てる相手でもなかった。


あれほどの魔物が、九十五階にいた。九十九階は、まだ先にある。


ユニちゃんが、巨人の投げた岩へ手を向けた。入口をふさいでいた岩が浮き、通路の横へ移動する。先へ進む道が開いた。


アメリアさんが、その先を見る。


「行くわよ」


声に迷いはなかった。


「はい」


私は長杖を握り直した。消魔鋼の先端が、鉱石の光を受けて淡く輝く。


九十六階へ続く道は、黒い鉱石の奥へ伸びている。私たちはもう一度並び、深い暗闇の中へ歩き始めた。


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