第2章 第21話 足りないもの
翌朝。
屋敷の中庭に、私の荷物が並べられていた。
着替え。水筒。干し肉。固いパン。薬。包帯。縄。地図。魔道灯。雨具。それから、新しくなった長杖。
アメリアさんは、一つずつ確かめていく。
今日のアメリアさんは、腰に二本の剣を下げていた。
以前、ユニちゃんと戦った時に使っていた練習用の剣ではない。鞘にも柄にも細かな傷があり、長く使われていることが分かる。
その一方で、持っている荷物は小さな腰鞄だけだった。
「アメリアさんの荷物、それだけですか?」
「ほとんどは収納魔法の中よ」
アメリアさんが右手を動かす。
足元に置かれていた毛布が、一瞬で消えた。
「水も食料も、予備の武器も入っているわ」
「便利ですね……」
同じダンジョンへ入るのに、私の背中には大きな鞄。
アメリアさんは、腰鞄だけ。
並べて見ると、違いがよく分かる。
私はユニちゃんを見る。
「ユニちゃんも、荷物をしまえる?」
「はい」
「それなら、私の荷物も――」
言いかけて、止まる。
ユニちゃんは断らなかった。
ただ、私を見ている。
「ルナは、どうしたいですか?」
どうしたいのか。
持ってもらえれば楽になる。階段も歩きやすい。疲れにくくなる。
でも、それでいいのだろうか。
「ユニが持つこと自体は簡単よ」
アメリアさんが、並べた荷物から予備の服を持ち上げた。
「ただし、ユニとはぐれたら取り出せない。収納魔法が使えない場所へ入っても同じよ」
私は、消魔鋼があった場所を思い出す。
魔道灯が消え、周りの魔法が使えなくなった、結晶の区画。
あの時、必要な物を全部ユニちゃんへ預けていたら。
私は何も持たないまま、亀に似た大きな魔獣の前へ立つことになっていた。
「自分が生きるために必要な物は、自分で持っていなさい」
アメリアさんはそう言うと、予備の服を別の場所へ置いた。
「でも、何でも持てばいいわけでもない。今日は日帰りよ。着替えは一組でいい。食料も半分に減らす。雨具も天気を見れば必要ないわ」
「縄は?」
「残す。水と薬も必要。地図と魔道灯は、すぐ取り出せる場所へ移して」
厳しい言い方ではない。
必要な物と、今はいらない物。
アメリアさんは理由をつけて分けていく。
「収納魔法が使える私も、水と薬だけは腰鞄へ入れているわ。魔法は、いつでも使えるとは限らないから」
収納魔法が使えても、全部を預けているわけではないらしい。
私は減らした荷物を、もう一度鞄へ入れた。
最初より軽くなった。
それでも、背負えば肩へ重さがかかる。
「ユニちゃん」
「はい」
「これは、自分で持つ」
「分かりました」
ユニちゃんが、少しだけ笑う。
アメリアさんも何も言わなかった。
ただ、鞄の紐がねじれているのを直してくれた。
*
向かったのは、街の南側にあるダンジョンだった。
最下層は二十五階。
魔法都市の近くにあるダンジョンの中では、比較的危険が少ない場所らしい。
入口でアメリアさんが立ち止まる。
「今日は魔物を倒すことが目的ではないわ」
「はい」
「歩き方。周りの見方。荷物を持った状態で、どこまで動けるか。それを確かめる」
「分かりました」
「危険だと思ったら、私が止める。だからといって、何も考えなくていいわけではないわよ」
「はい」
ダンジョンへ入ろうとした時、ユニちゃんの頭にいたにゃん吉くんが浮かび上がった。
白い身体が、ゆっくり私の方へ飛んでくる。
そのまま、私の頭の上へ降りた。
重さは感じない。
それどころか、少しだけ身体が軽くなったような気がした。
「今日はこっちなの?」
「ワン」
私たちは、ダンジョンの中へ入った。
*
一階には、魔物がいなかった。
石でできた道が、緩やかに下へ続いている。
壁には魔道灯が取り付けられ、一定の間隔で白い光を放っていた。
先頭はアメリアさん。
真ん中を私が歩き、最後をユニちゃんがついてくる。
「ルナ。曲がり角へ近づいた時、最初に何を見る?」
「魔物がいないか、ですか?」
「それもある。でも、足元が先よ」
アメリアさんが道の端を指す。
薄い土の上に、小さな足跡が残っていた。
「前だけを見ていると、誰かが通った跡を見落とす。足跡、血、壊れた物。そこに何がいるか分からなくても、何がいたかは分かることがあるわ」
私は地図へ、足跡を見つけた場所を書き込んだ。
二階にも、魔物はいなかった。
その代わり、いくつも道が分かれていた。
「右だと思います」
「理由は?」
「右の道だけ、魔道灯の下に埃が積もっていません。誰かが最近通っています」
「正解。ただし、人とは限らないわよ」
「はい」
進む前に止まる。
見る。
音を聞く。
通ってきた道を振り返る。
アメリアさんに言われたことを、一つずつ確かめた。
三階へ下りた頃には、鞄の紐が肩へ食い込んでいた。
足も少し重い。
歩けないほどではない。
でも、一階へ入った時と同じ速さでは進めなくなっている。
「休みますか?」
ユニちゃんが聞く。
「まだ大丈夫」
そう答えると、アメリアさんが振り返った。
「まだ大丈夫、は信用しないわ」
「え?」
「動けなくなるまで歩く人は、みんなそう言うもの」
アメリアさんは壁際へ移動した。
「五分休憩。水は少しずつ飲みなさい」
私は鞄を下ろした。
肩が急に軽くなる。
頭の上のにゃん吉くんが、私の髪を前足で押さえた。
「ワン」
「にゃん吉くんも疲れた?」
「ワン」
たぶん、疲れてはいない。
アメリアさんは地図を見ながら言う。
「自分がどれくらい疲れているか。それを知るのも探索よ。帰る分の力まで使ったら、奥へ進めても意味がないわ」
「帰れなくなるから?」
「そういうこと」
私は水を一口だけ飲んだ。
休む前は重かった足が、少しずつ戻っていく。
疲れたら休む。
簡単なことなのに、自分だけだと、もう少し歩けると思ってしまう。
五分後。
私たちは再び歩き始めた。
三階にも、魔物はいなかった。
静かな道が続く。
何も起きていない。
それでも、荷物を持って歩くだけで少しずつ疲れていく。
これがもっと深い階まで続いたら。
魔物と戦った後にも、同じ道を戻らなければならなかったら。
私が思っていたより、ダンジョンの探索は長い。
*
四階へ下りて、少し進んだ時だった。
アメリアさんが片手を上げた。
私はすぐに足を止める。
頭の上で、にゃん吉くんも動かなくなった。
前から、何かを引きずる音が聞こえる。
それから、小さな話し声。
人の言葉には聞こえない。
曲がり角の向こうから、三つの影が現れた。
緑色の肌。
尖った耳。
私より小さな身体。
一匹は錆びた剣を持っている。もう一匹は棍棒。最後の一匹は、先端に濁った魔石がついた杖を持っていた。
「ゴブリンよ」
アメリアさんが、小さな声で言う。
三匹のゴブリンが、私たちに気づいた。
杖を持ったゴブリンが声を上げる。
残りの二匹が、武器を構えた。
胸の奥が、強く鳴った。
怖くないわけではない。
武器を持った魔物を見るのは怖い。
でも。
亀に似た、あの大きな魔獣よりは小さい。
あの時は、魔法も使えない場所で追いかけられた。
地面が揺れるほどの巨体が、すぐ後ろまで迫っていた。
それでも、私は帰る方法を考えた。
息の仕方も、知っている。
ゆっくり吐く。
肩に入った力を抜く。
三匹。
正面に二匹。後ろに一匹。
杖を持っているものが、魔法を使うかもしれない。
後ろを振り返る。
階段までの道に、魔物はいない。
戻れる。
「ルナ。どうする?」
アメリアさんが聞く。
答えを教える声ではなかった。
私に決めさせる声だった。
「戻ります」
「理由は?」
「三匹います。奥にまだいるかもしれません。ここで戦う必要はないと思います」
「分かった。では、下がりなさい」
私はゴブリンから目を離さず、一歩ずつ後ろへ下がる。
二匹のゴブリンが走り出した。
杖を持った一匹が、何かを叫ぶ。
濁った魔石の周りへ、赤い光が集まった。
「魔法が来ます」
ユニちゃんの声が聞こえる。
「うん」
私は長杖を握り、消魔鋼のついた方を前へ向けた。
赤い光が、火の玉になって飛んでくる。
速い。
でも、見えている。
私は長杖を両手で支えた。
消魔鋼の先端が、火の玉へ触れる。
赤い光が崩れた。
熱が広がる前に、火の玉が細かな光へ変わって消えていく。
「消えた!」
立ち止まってはいけない。
前から、剣と棍棒を持ったゴブリンが近づいてくる。
私は杖を持ち替える。
消魔鋼を後ろへ。
蓄魔珠を前へ。
背中の鞄が動き、身体が少しだけ横へ傾いた。
それでも、杖を離さない。
蓄魔珠の先端を地面へつける。
「離れて!」
淡い橙色の光が、足元から広がった。
次の瞬間。
思っていたよりも大きな音が響いた。
空気が強く弾ける。
「きゃっ!」
長杖を握っていた私の腕まで押し戻された。
身体が後ろへ傾き、鞄に引かれる。
私は片足を下げ、どうにか転ばずに踏みとどまった。
二匹のゴブリンも、衝撃を受けて後ろへ倒れている。
でも、どのくらいの力が出るのか、私は分かっていなかった。
逃げるための道は空いた。
「今なら戻れます!」
私は足元を確かめ、階段の方向を見る。
倒すためではない。
距離を作るための力。
目的は果たせた。
けれど、自分まで体勢を崩していた。
もっと近くで使っていたら。
後ろに壁があったら。
今と同じようには、いかなかったかもしれない。
「もう十分よ」
アメリアさんが、私の横を通り過ぎた。
鞘から二本の剣が抜かれる。
次の瞬間には、アメリアさんの姿がゴブリンの前にあった。
右の剣が、起き上がろうとした一匹を倒す。
左の剣が、棍棒を弾いた。
杖を持ったゴブリンが、もう一度魔法を使おうとする。
アメリアさんが床を蹴った。
振り下ろされた剣が、杖ごと魔法を断ち切る。
三匹のゴブリンが光へ変わった。
光が消えた場所に、小さな魔石が三つ落ちる。
静かになった。
アメリアさんが剣を鞘へ戻す。
「終わりよ」
私は息を吐いた。
手は少し震えている。
でも、長杖を落としてはいない。
逃げる道も、最後まで見失わなかった。
頭の上から、にゃん吉くんの前足が下りてくる。
私の額を、二回ほど叩いた。
「ワン」
「大丈夫だよ」
「ワン」
ユニちゃんが私の隣へ来る。
私の顔を見た後、アメリアさんへ向き直った。
「ルナは、前より強くなっています」
ユニちゃんが、少しだけ胸を張る。
「どやです?」
「どうしてユニが得意そうなのよ」
アメリアさんは呆れたように言った。
けれど、否定はしなかった。
「……そうね。魔物を見ても止まらなかった。数と退路を確認して、戦わないことを選んだ。そこまでは悪くないわ」
アメリアさんが、私の長杖を見る。
「ただし、持ち替えは遅い。蓄魔珠の力も読み違えた。自分まで体勢を崩したでしょう?」
「はい……」
「次も同じように逃げられるとは限らないわ」
できたことはある。
でも、足りないこともある。
亀の魔獣と出会う前の私なら、ゴブリンを見ただけで動けなくなっていたかもしれない。
今は、逃げるために動けた。
それでも、道具を思いどおりに使えたわけではない。
「今日はここまでにするわ」
「もう戻るんですか?」
「戻る力が残っているうちに戻るの。確かめたいことは確かめたわ」
アメリアさんは魔石を拾い、収納魔法の中へ入れた。
私たちは、来た道を戻り始めた。
*
ダンジョンの外へ出る頃には、足が重くなっていた。
行きよりも、帰りの階段の方が長く感じる。
外の光が見えた時、私はようやく肩の力を抜いた。
入口の近くにある長椅子へ座り、鞄を下ろす。
アメリアさんは私の前へ立った。
「今日の判断は悪くなかったわ」
「本当ですか?」
「ゴブリンを見ても怯えて動けなくなると思っていた」
「少しは怖かったです」
「怖くても動ければいいのよ。怖さを感じない人より、自分が怖がっていると分かる人の方が、引く判断は早いこともあるわ」
私は長杖を見る。
消魔鋼で魔法を消すことはできた。
蓄魔珠で距離を作ることもできた。
でも、荷物を背負ったまま杖を持ち替える時、身体が傾いた。
蓄魔珠を使った時も、出る力を分かっていなかった。
帰り道では、何度も足が遅くなった。
「足りないのは、体力ね」
アメリアさんが言う。
「それから、荷物を持った状態での足運び。杖の持ち替えも、考えてからでは遅い。身体が先に動くくらい繰り返す必要があるわ」
「一か月でできますか?」
屋敷で聞いた言葉を思い出す。
アメリアさんは、私を一か月で鍛えると言っていた。
けれど、すぐには答えなかった。
私の鞄と、長杖。
それから、私の顔を見る。
「無理ね」
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
「一か月で仕上げると言ったのは私よ。私の見積もりが甘かった」
「私が、弱すぎたからですか?」
「違うわ」
アメリアさんは、はっきりと言った。
「今日の判断は悪くなかった。亀の魔獣と出会った経験も、ちゃんと残っている。問題は、身体と技術がまだ判断についていけないことよ」
アメリアさんが、私の鞄を持ち上げる。
「一か月で無理に身体を作れば、ダンジョンへ入る前に壊れる。少なくとも三か月は必要ね」
「半年です」
ユニちゃんが言った。
「……何が?」
「ルナに必要な時間です」
ユニちゃんは、私の鞄と長杖を見る。
「三か月あれば、体力と筋力は形になります。杖も、今より扱えるようになります」
「なら、三か月でいいでしょう?」
「足りません」
ユニちゃんが、首を横へ振る。
「身体が動くだけでは、ダンジョンを歩けません」
「どういうこと?」
「疲れていても周りを見る。考える。選んだとおりに動く」
ユニちゃんが、私を見る。
「そのために、もう三か月必要です」
体力と筋力をつけるための三か月。
そこから、身体を使いながら考え、選んだとおりに動けるようになるまでの三か月。
合わせて、半年。
「半年……」
アメリアさんが呟いた。
一日でも早く、あの魔物のところへ行きたいはずなのに。
すぐには否定しなかった。
「アメリアさんは、早く行きたいんですよね?」
「ええ」
「それでも、半年待てるんですか?」
「待つんじゃないわ。準備するの」
アメリアさんの声が、少しだけ低くなる。
「私が判断を急いで、同じ失敗を繰り返すつもりはないわ」
同じ失敗。
何のことなのか、私は聞かなかった。
今のアメリアさんは、それ以上話そうとしていない。
私にも、それくらいは分かった。
アメリアさんが私を見る。
「最初の三か月で、身体と杖の扱いを鍛える。その後の三か月で、実際にダンジョンを歩きながら判断と動きを合わせる」
「はい」
「半年後、私たちと一緒に動けるかを確かめる。そこで無理だと判断したら、あなたは連れていかない」
まだ、認められたわけではない。
半年が過ぎれば、必ず一緒に行けるわけでもない。
「分かりました」
私は答えた。
「それでも、やります」
アメリアさんは、しばらく私を見る。
「そう」
返ってきたのは、それだけだった。
「頑張ります」
「頑張るだけではだめよ。休むことも覚えなさい」
「はい」
「それから、私の指示を聞くだけではなく、自分でも考えること」
「自分でも?」
「今朝、荷物を自分で持つと決めたでしょう。ダンジョンの中では、誰かに言われてから考えていたら間に合わないこともあるわ」
「分かりました」
「では、決まりね。明日から半年の訓練を始めるわ」
「明日からですか?」
「当然よ」
やっぱり、少し厳しい。
その時、ユニちゃんが手を上げた。
「アメリアにも、訓練が必要です」
「どうして私まで?」
「アメリアは、気配が大きいです」
「大きい?」
アメリアさんの眉が動く。
「歩く音ではありません。いると分かります」
「それは魔力のせい?」
「違います」
ユニちゃんは、アメリアさんをまっすぐ見る。
「気配の消し方。殺気の抑え方。それから、気を感じる方法を覚えた方がいいです」
「気?」
「魔力とは違うものです」
「そんなものまで使えるの?」
「はい」
ユニちゃんが、少しだけ胸を張った。
「どやです?」
「二度目はいいわよ」
アメリアさんはそう言いながら、口元を少しだけ上げた。
「教えられるものなら、教えてもらうわ」
「はい」
「ただし、一か月で覚える」
「無理をしてはいけません」
「やってみなければ分からないでしょう?」
「さっき、ルナには無理をさせないと言いました」
「私はいいのよ」
「よくありません」
二人の言い合いが始まる。
私はそれを見ながら、鞄を背負い直した。
足りないものがあるのは、私だけではないらしい。
私はアメリアさんから、ダンジョンを歩くための力を教わる。
アメリアさんはユニちゃんから、気配や気について教わる。
半年の後、私が一緒に行けるかは、まだ分からない。
だから、確かめてもらわなければならない。
私が、どこまで進めるのか。
頭の上で、にゃん吉くんが小さく鳴いた。
「ワン」
半年の訓練が、始まった。




