第2章 第18話 九十九階層
「……そうね」
アメリアさんは、治ったばかりの手を見つめながら答えた。
赤金色だった髪は、元の赤い色へ戻っている。頭の上から伸びた一房だけが白い。
にゃん吉君の光に包まれる前まで、指一本動かせなかった。
それでも今は、自分の足で立っている。
アメリアさんは地面へ落ちていた二本の剣を拾った。表面に細い亀裂が走っている。それを確かめてから、静かに鞘へ収めた。
「私の負けよ」
悔しそうではあった。
でも、負けたことから目を逸らしてはいなかった。
「あなたは、私より強い」
ユニちゃんは何も答えない。
アメリアさんは、その緑色の目をまっすぐ見た。
「あなたに頼みたいことがある」
さっきまでとは違う。
勝ったら何かを奪うための言葉ではない。
「私と一緒に、あるダンジョンへ来てほしい」
「どうして、ユニちゃんが必要なんですか?」
私が聞くと、アメリアさんはこちらを見た。
すぐには答えず、壊れた採石場へ目を向ける。
「二年前、私はダンジョンの調査隊に参加した」
その声から、戦っていた時の強さが消えていた。
「目的は、第九十九階層までの調査だった」
調査隊は、三十人ほど。
冒険者だけではなく、地図を作る人や、魔物や鉱石を調べる人もいた。
その中に、アメリアさんと、アメリアさんのお姉さんがいた。
「お姉さんも、冒険者だったんですか?」
「リリアナ・レヴァンテ。当時、すでにSランクだった」
アメリアさんよりも強い魔法使い。
複数の魔法を使い、一人で大勢を守りながら戦うことができた。
「今の私より、ずっと強かったわ」
アメリアさんの手が、わずかに握られる。
そのダンジョンで、最後に発見されていた階層ボスは第七十階層にいた。
階層ボスを倒せば、その階層まで転移できるようになる。
調査隊は第七十階層から、さらに下を目指した。
第七十一階層。
第八十階層。
第九十階層。
そこから、さらに九つの階層を下りた。
「第九十九階層へ着いた頃には、魔力も道具もかなり減っていた」
下りるだけでは終わらない。
調査を終えたあと、また第七十階層の転移地点まで戻らなければならない。
途中には魔物もいる。
負傷者を守るための魔法も、回復や退路を確保するための道具も必要になる。
帰るための分を残して、調査を終える。
そのはずだった。
「第九十九階層に、あれが現れるまでは」
アメリアさんの声が低くなる。
「階層ボスだったんですか?」
「分からない」
アメリアさんは首を横へ振った。
「第九十九階層にボスが現れたなんて記録はない。誰も、そこであんな魔物と遭遇するなんて考えていなかった」
予定にない魔物。
しかも、Sランク冒険者でも簡単には倒せないほど強い。
調査隊は、そんな相手と戦う準備をしていなかった。
残された魔力も道具も、帰るために必要なものばかりだった。
「退却しなかったんですか?」
「したわ」
アメリアさんは答えた。
「でも、全員で背を向ければ追いつかれる。誰かが残って、あれを止めなければならなかった」
リリアナさんは、一人で魔物の前へ残った。
「お姉ちゃん一人なら、あのダンジョンごと壊すこともできた」
私は息を止めた。
「そんなことが……」
「できたわ。あの人は、それくらい強かった」
それでも、使わなかった。
ダンジョンを壊せば、中にいる調査隊も巻き込まれる。
第七十階層へ戻ろうとしている仲間たちも、生き埋めになる。
「だから、お姉ちゃんは私たちを先に行かせた」
アメリアさんの声は震えていなかった。
泣いてもいない。
それなのに、握られた手だけが白くなっていた。
「『みんなを連れて帰って』って、私に言った」
アメリアさんは、その言葉に従った。
負傷者を守り、途中の魔物を倒し、残っていた道具を使って第七十階層まで戻った。
一人も置いていかなかった。
リリアナさん以外の全員が、生きてダンジョンを出た。
「リリアナさんは……」
「帰ってこなかった」
アメリアさんは、それだけ答えた。
しばらく、誰も話さなかった。
壊れた地面の上を、風だけが通り過ぎる。
「それから何度も、あのダンジョンへ行こうとした。でも、ギルドの許可は下りなかった」
一度の調査で、Sランク冒険者が命を落とした。
第九十九階層に現れた魔物の正体も、その後も同じ場所にいるのかも分からない。
同じ規模の調査隊を、もう一度送ることはできない。
「それで、強い仲間を探していたんですか?」
「ええ」
アメリアさんは、すぐに認めた。
「私だけでは足りない。あそこへ辿り着くだけではなく、一緒に帰ってこられる相手が必要だった」
最初は、それがにゃん吉君だと思っていた。
Sランクの魔物を一撃で倒したという噂を聞き、その力があれば第九十九階層へ戻れると考えた。
「でも、戦って分かった」
アメリアさんの視線が、にゃん吉君からユニちゃんへ移る。
「本当に頼まなければならなかったのは、あなたの方だった」
アメリアさんが、ユニちゃんの名を呼ぶ。
「ユニ・N・スターチス」
一度、息を整える。
「私と一緒に、第九十九階層へ来てほしい」
ユニちゃんは、すぐには答えなかった。
「アメリアは、何をしに行くのです?」
「お姉ちゃんを殺した魔物を倒す」
迷いのない答えだった。
「それだけですか?」
アメリアさんの眉が、わずかに動く。
口を開きかけて、止まった。
「……確かめたい」
しばらくして、アメリアさんは答えた。
「あの場所で何が起きたのか。どうして、第九十九階層にあんな魔物が現れたのか」
仇を討つためだけではない。
二年前に終わらなかった調査を終わらせるため。
そして、帰ってこなかったお姉さんのところへ、もう一度行くため。
「私も行きます」
言葉が、自然に出ていた。
アメリアさんが、私を見る。
「ルナ……だったわね」
「はい」
「あなたがユニを一人で行かせたくない気持ちは分かる」
さっきまでよりも、穏やかな声だった。
「でも、あそこは気持ちだけで行ける場所ではないの」
「分かっています」
「本当に?」
責めるような言い方ではなかった。
アメリアさんは、私の持つ長杖へ目を向ける。
消魔鋼と、蓄魔珠。
二つの先端を見たあと、もう一度私を見る。
「その杖が護身用の魔道具だということも分かる。何も考えずについてくると言っているわけではないことも」
私は長杖を握った。
「それなら――」
「それでも、今のあなたを連れていくとは言えない」
静かな言葉だった。
「第九十九階層へ着くまでにも、何度も魔物と戦うことになる。帰る時には、魔力も道具も減っている。その状態で、全員が生きて戻らなければならない」
二年前。
リリアナさんは、みんなを帰すために一人で残った。
アメリアさんは、その背中を見ている。
「私はSランク冒険者よ。同行を認めた人の命には、私にも責任がある」
アメリアさんは、私を弱いとは言わなかった。
役に立たないとも言わなかった。
「あなたに何もできないと言っているわけじゃない」
その視線が、私の長杖へ向かう。
「でも、できることと、第九十九階層から生きて帰れることは別よ」
言い返す言葉が見つからなかった。
怖くないわけではない。
今の私が行って、何ができるのかも分からない。
それでも。
「ユニちゃんだけを行かせることはできません」
アメリアさんは、すぐには答えなかった。
「……ごめんなさい」
少しだけ、困ったような顔をする。
「今のあなたを連れていって、大丈夫だとは言えない」
拒んでいる。
でも、突き放しているわけではなかった。
「だから、今は一緒に来てとは言えないわ」




