第2章 第13話 二つの役目
「あそこに、帰るための何かがある」
私は、結晶に隠された円を見る。
でも、その手前には、亀に似た大きな魔獣がいる。壁へ近づこうとすれば、足音の振動に気づかれる。石を投げても、あの魔獣は壁の前で進路を変える。
「どうすれば……」
私は柱の陰から魔獣を見る。
投げた石。走り出した場所。進路を変えた場所。地面に残った、太い脚の跡。
一度目も、二度目も。魔獣は同じくらいの場所で曲がっていた。
壁から、太い結晶の柱三本分。それより近くまで進まない。
「近づきたくないんじゃなくて」
私は、魔獣と壁の距離を見る。
「近づく前に曲がってる……?」
「はい」
ユニちゃんが答える。
魔獣の身体は大きい。走り始めると、すぐには止まれない。進む向きを変えるにも、広い場所が必要になる。
なら。
曲がり始める場所を過ぎてから、壁の近くで振動を起こせば。
「曲がれなくなるかもしれない」
私は壁を見る。
円形の線を覆う結晶。その一部に、細い亀裂が入っている。
魔獣の甲羅でも、結晶の壁を全部壊すことはできないかもしれない。でも、あの亀裂へぶつけることができれば。
「やってみる」
「はい」
私は足元から石を拾った。さっきより少し大きい。片手で持てるくらいの石。
壁へ投げるだけではだめ。遠くから投げれば、魔獣は途中で曲がってしまう。もっと近くまで、魔獣を壁へ向かわせる必要がある。
私は広い空間を見る。
魔獣。結晶の壁。そして、壁の近くに立つ太い柱。
あの柱まで行く。魔獣が近づいてから、亀裂の前へ石を投げる。
失敗すれば、逃げる場所は少ない。
握った手が、少し震えた。
「ルナ」
ユニちゃんの声が聞こえる。
「何?」
「息をしてください」
「……うん」
息を吐く。ゆっくり。
身体に入っていた力が、少しずつ抜けていく。
怖くなくなったわけではない。それでも、足は動かせる。
私はもう一つ、小さな石を拾った。魔獣から離れた場所へ投げる。
石が地面を跳ねた。
魔獣が反応する。太い脚が、石の方へ向かう。
その間に、私は反対側へ歩き始めた。
一歩。もう一歩。
走らない。足を滑らせない。できるだけ静かに、壁の近くにある柱へ向かう。
魔獣が、投げた石の場所へ着いた。首を伸ばし、地面の震えを探している。
私は柱の近くまで来ていた。
あと少し。
その時、靴の下で小さな結晶が割れた。
高い音。足元へ伝わる振動。
魔獣の頭が、こちらへ向いた。
「気づかれた」
太い脚が地面を掻く。頭と首が、甲羅の下へ引かれる。
魔獣が走り出した。
私は、結晶の壁へ向かって走る。
地面が揺れる。後ろから、もっと大きな揺れが近づく。
振り返らなくても分かる。
近い。
私は、壁までの距離を見る。
太い結晶の柱。
一本。二本。三本。
魔獣が、いつも進路を変えていた場所を越えた。
「今!」
私は握っていた石を、壁の亀裂へ向かって投げた。
石が結晶へぶつかる。亀裂の周りへ、小さな振動が広がった。
魔獣の進む向きが、壁へ変わる。
でも、近すぎる。巨体を曲げるための場所がない。
魔獣の脚が地面を削る。身体を横へ向けようとする。
間に合わない。
私は柱の裏へ飛び込んだ。
次の瞬間。
大きな音が響いた。
魔獣の甲羅が、結晶の壁へぶつかる。
壁の亀裂が一気に広がった。水色と青緑の光が細かく砕け、結晶の破片が雨のように地面へ落ちる。
その奥から、円形の線が現れた。
「あった!」
転移する前に見たものと同じ。いくつもの線が、一つの円を作っている。
魔獣が、壁へぶつかった反動で後ろへ下がる。甲羅を覆う結晶には、ほとんど傷がない。
岩のような頭を振り、ゆっくりと首を伸ばし始める。
私は結晶の破片の間を走った。
足元に、淡い水色の光が見えた。
壁から落ちた、細長い結晶の欠片。ほかの破片より小さい。でも、中を通る銀色の筋がはっきり見えた。
私は欠片を拾って、鞄へ入れた。
調べてもらうために、持って帰る。
今は、それだけでいい。
「ユニちゃん!」
「はい」
ユニちゃんが、円の前まで来る。
私は転移する前と同じように、長杖の先を溝へ触れさせた。線に沿って、ゆっくりとなぞる。
何も起きない。
「動かない……」
もう一度、円の形を見る。
一か所だけ、線が途切れている。砕けた結晶の下に、まだ隠れていた。
私は長杖で破片を押しのける。最後の線が現れた。
杖の先で、途切れていた円をつなぐ。
かすかに、青い光が走った。
「動いた!」
円の中心から、光が広がっていく。
魔道灯は使えない。それなのに、転移陣は動いている。
「これも魔法なの?」
「魔道灯とは、違う仕組みです」
「誰が作ったの?」
「今は分かりません」
また、分からないものが増えた。
でも、今は動いてくれればいい。
光が少しずつ強くなる。
その時、地面が揺れた。
振り返る。
魔獣が、こちらを向いている。太い脚が地面を掻いた。
「来る!」
頭と首が、甲羅の下へ引かれる。
魔獣が、まっすぐこちらへ走り出した。
転移陣の光は、まだ円の半分までしか広がっていない。
「間に合わない!」
魔獣の巨体が、地面を砕きながら近づいてくる。
その時。
私の頭の上から、白い身体が飛び出した。
「ワン」
にゃん吉くんが、魔獣へ向かって飛んでいく。
「にゃん吉くん!?」
小さな前足が、甲羅の下から出ている顎へ触れた。
次の瞬間。
巨大な身体が、宙へ浮いた。
「え?」
亀に似た魔獣が、一度だけ空中で回る。
結晶の甲羅を下にして、地面へ落ちた。
大きな音が響く。
四本の太い脚が、何もない空中を掻いている。自分では起き上がれないらしい。
「ワン」
にゃん吉くんが、私の頭の上へ戻ってきた。
「……今の、何?」
「アッパーです」
ユニちゃんが答える。
「アッパー……」
「ワン」
転移陣の円が、すべて光った。
「行きます」
「う、うん」
私は、四本の脚を動かしている魔獣を見る。
少しだけ、かわいそうに見えた。でも、近づいて戻すことはできない。
「ごめんね」
「ワン」
私たちは、光の中へ入った。
*
足元の感覚が、一瞬だけ消える。
次に目を開けた時、見覚えのある岩の通路に立っていた。
右へ続く道。地図にはない左の道。そして、足元に描かれた円。
「戻ってきた……」
頭の上で、にゃん吉くんが光っている。ユニちゃんも隣にいる。
誰も欠けていない。
私は鞄から魔道灯を取り出し、起動させる。
白い光がついた。
今度は、消えない。
「使える」
やっぱり、壊れてはいなかった。あの結晶に囲まれた場所だけで、使えなくなっていた。
私は左の通路を見る。
奥は暗い。さっきまで、あの先にいた。
もう一度入れば、同じ場所へ行けるのか。それとも、別の場所へ飛ばされるのか。
分からない。
「戻ろう」
「はい」
案内板の確認は、最後まで終わっていない。
でも、それより先に知らせなければならないことがある。
私は地図へ、新しい通路と転移陣の場所を書き込んだ。そして、来た道を戻り始めた。
*
「転移した?」
管理所の男の人が、椅子から立ち上がった。
「はい。地図になかった左の通路の前です」
私は、見たことを順番に話す。
六つ目の案内板がなかったこと。新しい通路が現れていたこと。足元に円形の溝があったこと。知らない区画へ転移したこと。魔道灯が使えなくなったこと。結晶の甲羅を持つ魔獣がいたこと。
男の人の表情が、少しずつ険しくなる。
「今朝まで、そんな通路はなかった」
「誰も入ってないんですか?」
「ああ。少なくとも、ここにある記録にはない」
男の人は、すぐに別の人を呼んだ。
入口を一時的に閉じる。中にいる冒険者を確認する。新しい通路を調べるため、ギルドへ連絡する。
管理所の人たちが、次々に動き始めた。
「その区画から、何か持ち帰ったか?」
「小さな欠片だけです」
私は鞄から結晶の欠片を取り出した。
淡い水色。青緑と薄紫。中には、銀色の筋が通っている。
男の人が手を伸ばしかける。けれど、途中で止めた。
「見たことがない。ギルドで調べてもらおう」
「はい」
私たちは、管理所の人と一緒に街へ戻った。
*
ギルドの奥にある、小さな部屋。
机の上には、持ち帰った結晶が置かれていた。
受付の女の人と、管理所の男の人。そして、白い髭を生やした年配の男の人が結晶を見ている。
年配の男の人は、ギルドで素材の鑑定をしているらしい。
手袋をはめ、結晶を持ち上げる。光へ透かし、銀色の筋を細い道具で確かめる。
「まさかとは思ったが……」
男の人の声が、少し低くなった。
「何か分かったんですか?」
「これは、消魔鋼だ」
「しょうまこう?」
「魔法に干渉する、非常に珍しい結晶金属だ」
石ではない。金属でもない。その両方に似た性質を持つ。
結晶の形で生まれ、魔法へ触れると、その術式を崩す。
「だから、魔道灯が消えたんですか?」
「おそらくな。小さな欠片なら、触れた魔法か、ごく近くにある魔法にしか作用しない」
男の人が、机の上に置かれた消魔鋼を見る。
「だが、お前さんたちが見たような鉱床なら話は別だ。大量の消魔鋼が互いに影響し合い、区画全体の魔法を封じていたんだろう」
あの場所では、魔道灯が使えなかった。
もし普通の魔法使いが転移していたら、魔法を使えないまま、あの大きな魔獣から逃げなければならない。
「とても危険な場所なんですね」
「場所も危険だが、この素材自体も危険だ」
「きれいなのに?」
「きれいだから安全とは限らん」
消魔鋼をたくさん集めることができれば、魔法を防ぐ盾。魔法使いを閉じ込める牢。魔法を使わせないための道具。いろいろな物を作れる。
誰かを守るためにも使える。でも、誰かを襲うためにも使える。
「そのため、一定以上の大きさの消魔鋼は、採取も売買も厳しく管理されている」
「じゃあ、これは?」
「まずはギルドで記録する。見つかった場所についても、すぐに上へ報告が必要だ」
私は、机の上の小さな欠片を見る。
持って帰ってきた。でも、私の物にしていいとは限らない。
「分かりました」
持ち帰ったものを、必要な場所へ渡す。
前の街の魔石と同じ。それでいい。
そう思った時、年配の男の人が私の持っている長杖を見た。
「その杖は、護身用か?」
「はい。歩く時にも使っています」
「なるほど」
男の人は、消魔鋼と長杖を交互に見る。
「この大きさなら、盾や鎧を作ることはできん。刃物にするにも足りない」
「はい」
「だが、杖の先端へ取り付けることならできるかもしれん」
「この杖に?」
私は長杖を見る。
旅立つ前から使っている。
坂道で身体を支えてくれた。足場の悪い場所を、先に確かめてくれた。今日も転移陣を見つけ、帰るための円を起動させた。
「魔法を消せる杖になるんですか?」
「何でも消せるわけではない」
消魔鋼へ直接触れた魔法だけ。遠くにある魔法は消せない。広い範囲へ広がるものや、強すぎる魔法は受け止めきれないこともある。
魔法で起こされた後の炎や、飛ばされた岩まで消せるわけではない。
「それでも、目の前へ来た魔法から身を守れる可能性はある」
魔法を使えない私が、魔法へ触れられる。
ほんの少しだけ、できることが増える。
でも、使い方を間違えれば守れない。杖を出す場所も、向ける方向も、私が決めなければならない。
「これ、私の杖につけられますか?」
私は、自分から聞いた。
「正式に装備として登録し、ギルドの管理下で加工するなら可能だ。この大きさならな」
「お願いします」
「決めるのが早いな」
「今日、この杖に助けてもらったから」
新しい武器が欲しいわけではない。この杖を、これからも使いたい。
できることを、少しだけ増やしたい。
「分かった。加工できる職人を紹介しよう」
*
翌日の夕方。
私たちは、ギルドから紹介された工房にいた。
壁には、剣。盾。杖。見たことのない道具が並んでいる。
職人の男の人が、私の長杖を机へ置いていた。その横には、登録を終えた消魔鋼の欠片がある。
男の人が、長杖の片方を指す。
「消魔鋼は、こっちへ取り付ける」
欠片を削って形を変えることはできない。だから、自然に割れた細長い形のまま使う。
魔力を通しにくい陶製の留め具。その周りを覆う、細い銀色の枠。
消魔鋼は、杖の先から少しだけ伸びる形になる。
刃物には見えない。
透明な結晶の先端。その中を通る、銀色の筋。
「きれい……」
「見た目だけで触るなよ。加工が終わるまでは危ない」
「はい」
男の人が、今度は杖の反対側を指した。
「こっちには、何をつける?」
「何かつける必要があるんですか?」
「片側だけ重くすれば、杖のバランスが変わる。今までと同じようには使いにくくなる」
考えていなかった。
消魔鋼をつければ、杖の重さも変わる。歩く時に使うなら、持ちやすさも大切だ。
男の人が、棚から小さな箱を持ってきた。
中には、丸い玉が入っていた。
淡い橙色。内側に、小さな光が浮かんでいる。
「これは?」
「蓄魔珠だ」
「魔石とは違うんですか?」
「魔石を精製して作った魔道具だ。魔石に蓄えられた魔力を、必要な時だけ放出できる」
丸い玉の中へ、あらかじめ魔力を蓄えておく。
杖の先を地面へ当てれば、一瞬だけ光や衝撃を放つ。
相手を倒すためではない。
驚かせる。動きを止める。距離を作る。その間に逃げる。
「護身用の杖には合う。ただし、使える回数には限りがある。中の魔力がなくなれば補充が必要だ」
消魔鋼とは、反対の役目。
片方は、近づいてきた魔法を消す。もう片方は、蓄えた魔力を放つ。
「消魔鋼と一緒につけても大丈夫なんですか?」
「同時には使えん」
男の人が、長い木製の柄を指で叩く。
「両端を離し、消魔鋼を陶製の留め具で固定する。片方だけを使うなら、互いの影響はほとんどない」
「両方一緒に使ったら?」
「蓄魔珠から出た魔力を、消魔鋼が打ち消す。何も起きん」
使う時は、杖を持ち替える。
魔法を防ぐなら、消魔鋼を相手へ向ける。距離を作るなら、蓄魔珠を向ける。
同時には使えない。
その時、必要な方を選ぶ。
「どうする? つけるか?」
職人の男の人が聞く。
私は、ユニちゃんを見なかった。
自分の長杖を見る。
「お願いします」
「分かった」
蓄魔珠の代金は、前の街でもらった報酬と、今回の依頼で支払われた分から出した。
鞄の中のお金は少し減った。
でも、必要だと思って、自分で選んだ。
*
加工が終わったのは、その日の夜だった。
私は、新しくなった長杖を受け取る。
木製の長い柄は、今までと同じ。
片方には、淡い水色の消魔鋼。青緑と薄紫の光。銀色の細い枠。
反対側には、丸い蓄魔珠。淡い橙色の光が、内側でゆっくりと揺れている。
持ち上げる。
前より少しだけ重い。でも、両端の重さが釣り合っている。
持った時の感覚は、大きく変わらない。
「どうだ?」
「大丈夫です」
長杖を地面へつく。
音が、工房の床へ響いた。
今までと同じ音。
でも、できることは増えている。
「扱いには気をつけろ。消魔鋼があるからといって、何でも防げるわけじゃない」
「はい」
「蓄魔珠も、相手を倒すために使うな。逃げるための時間を作る道具だ」
「覚えておきます」
にゃん吉くんが、ユニちゃんの頭の上から杖を見る。
「ワン」
「どう?」
「ワン」
たぶん、気に入ったらしい。
私は、二つの先端を見比べる。
魔法を消す。
魔力を放つ。
反対の役目を持つ、二つの道具。
どちらを使うのか。
決めるのは、杖ではない。
私は長杖を握り直した。
その時に必要な方を、私が選ぶ。




