第2章 第12話 揺れる足元
私の小さな笑い声が、結晶の間へ響いた。
でも、笑っても帰る道が現れるわけではない。
魔道灯も使えないまま、地図にない場所にいる。
「戻る道はないんだよね」
「見える範囲にはありません」
転移してきた場所には、光る円も元の通路へ続く道もなかった。
前にあるのは、結晶に囲まれた細い通路だけ。
「進むしかないか」
「はい」
私は長杖を握り直した。
「行こう」
「はい」
「ワン」
私たちは、知らない通路を歩き始めた。
*
足音が結晶の間へ響く。
一歩。また一歩。
歩くたびに、小さな音が遠くまで続いた。
通路の幅は、二人が並んで歩けるくらい。壁から伸びた結晶が、ところどころで道を狭くしている。
私は長杖で足元を確かめながら進む。
硬い地面。小さな段差。岩の割れ目。
杖の先が触れるたび、乾いた音が鳴った。
「この道、どこまで続いてるんだろう」
「まだ分かりません」
「出口があればいいけど」
返事はなかった。
分からないことを、ユニちゃんは分かるとは言わない。
私は頭の上の光を頼りに先を見る。
通路は少しずつ広くなっていた。壁を覆う結晶も、奥へ進むほど大きくなっている。私の背より高いものもあった。
透明な結晶の中を、銀色の筋が通っている。
「石なのかな」
「石だけではありません」
「違うものも混ざってるの?」
「はい」
「何が混ざってるの?」
「今は分かりません」
ユニちゃんでも分からないことがある。それとも、まだ言わないだけなのか。
今はどちらでもよかった。
必要なのは、ここから戻る方法を見つけること。
私は足元へ意識を戻した。
その時、杖の先が小さな結晶へ触れた。
高い音が鳴る。
音は何度も壁へ反射し、やがて聞こえなくなった。
「よく響くね」
「はい」
その直後、遠くから低い音が聞こえた。
どん。
一度だけ地面が揺れる。
私は足を止めた。
「今の、何?」
「何かが動きました」
どん。
さっきより少し大きい。
長杖を握る手へ、地面の震えが伝わってくる。
どん。どん。
音が近づいている。
「ユニちゃん」
「はい」
「何か来る」
「来ます」
通路の奥。
にゃん吉くんの光が届かない場所で、何かが動いた。
最初は結晶の塊に見えた。
水色。青緑。薄い紫。
周囲の壁と同じ色をしている。
けれど、その塊がゆっくりと持ち上がった。
「……え?」
四本の太い脚。地面すれすれに伸びた首。岩のような頭。
大きな身体の上には、丸く盛り上がった甲羅がある。
亀に似ていた。
でも、私が知っている亀とは大きさが違う。
甲羅全体が無数の結晶鉱物に覆われている。
小さな結晶が何層にも重なり、背中の上で大きな山を作っていた。透明な結晶の中には、壁と同じ銀色の筋が走っている。
私たちの何倍も大きい。
「魔獣……」
魔獣が岩のような頭を持ち上げた。
顔の左右に小さな目がある。でも、私たちを見ていない。
首を動かし、何かを探している。
私は動かないようにした。
魔獣もその場で止まっている。
にゃん吉くんの光は、私たちを照らしている。見えていないはずがない。
それなのに襲ってこない。
足元で小さな石が転がった。
私の靴に当たり、通路の中央へ転がっていく。
石が地面を跳ねた。
次の瞬間、魔獣の頭が石の方へ向いた。
太い脚が地面を掻く。
「え?」
魔獣が頭を低くした。
長い首が、結晶に覆われた甲羅の下へ少しだけ引かれる。
そして、走り出した。
「速い!?」
鈍そうに見えた巨体が地面を蹴る。太い脚が岩を砕く。
結晶の甲羅を乗せた魔獣が、転がった石へ向かって突進する。
「来る!」
私はユニちゃんと一緒に壁際へ寄った。
魔獣はこちらを見なかった。
地面へ落ちた石を踏み潰し、その先にあった岩へぶつかった。
大きな音が響く。
岩が砕け、破片が通路へ散った。
魔獣は何事もなかったように首を伸ばした。甲羅を覆う結晶には傷一つついていない。
「……石の方に行った?」
「はい」
「あの魔獣、どれくらい危険なの?」
「単体では、Bランク相当です」
「Bランク……」
私より、ずっと上の冒険者が相手をする魔獣。
「ただし」
ユニちゃんが結晶に覆われた周囲を見る。
「この場所では、Aランク相当の危険があります」
「魔法が使えないから?」
「はい」
魔法を使えない場所で、硬い結晶の甲羅を持つ魔獣と戦う。
普通の冒険者にとっては、それだけで危険が大きくなる。
「そんな魔獣が、どうしてこんな場所に……」
「今は分かりません」
魔獣がゆっくりと向きを変える。
また首を動かしている。
探している。
目の前にいる私たちではない。
私は足元を見る。
「音……?」
さっき長杖が結晶へ触れた。そのあと、あの魔獣が近づいてきた。
今も転がった石へ向かって走った。
でも、大きな音が響いても、魔獣は砕けた岩の方を見ていない。
音だけではない。
私は長杖の先を静かに地面へつけ、ほんの少しだけ離れた場所を叩く。
こつ。
魔獣の顔が、すぐに杖の先へ向いた。
私は慌てて杖を持ち上げる。
魔獣は動かない。
「地面だ」
「はい」
「地面の揺れを感じてる」
目よりも、耳よりも、足元から伝わる震えを追っている。
だから、動かなければすぐには見つからない。
私は息をゆっくり吐いた。
旅へ出る前に何度も練習した呼吸。
身体から余計な力を抜く。
慌てて走れば地面が大きく揺れる。そうすれば、あの魔獣が来る。
通路の先を見る。
魔獣の向こうに広い空間が見えていた。その奥には、別の道らしきものがある。
「向こうへ行かないと」
「そうですね」
でも、魔獣が道を塞いでいる。
私は足元に落ちた小さな石を拾い、手の中で握る。
魔獣から離れた壁へ向かって投げた。
石が地面へ落ち、一度、二度と跳ねる。
魔獣の頭が動いた。太い脚が地面を掻き、頭と首が甲羅の下へ引かれる。
走り出す。
私は反対側へ向かって歩いた。
走らない。足を大きく上げない。できるだけ静かに。
それでも、地面の揺れを完全には消せない。
魔獣が投げた石を踏み潰す。
首がこちらへ向く。
「気づかれた……」
太い脚が地面を掻いた。
私は走った。
地面を蹴るたび、魔獣も速度を上げる。
広い空間へ出る。
左右には太い結晶の柱が並んでいた。
私は一番近い柱へ向かう。
背後から、地面を叩く音が迫る。
直前で柱の横へ飛び込んだ。
魔獣の巨体が、すぐ後ろを通り過ぎる。
風が背中へぶつかった。
甲羅から伸びた結晶が柱の一部を削り取り、細かな破片が光を散らしながら落ちる。
魔獣は、正面にあった結晶の壁へ向かっていく。
ぶつかる。
そう思った。
けれど、魔獣は直前で身体を傾けた。
太い脚が地面を削り、丸い甲羅が大きく揺れる。
巨体が進路を変え、壁の横を通り抜けた。
「避けた……?」
ほかの岩には、そのままぶつかった。
結晶の柱も甲羅で削っている。
それなのに、あの壁だけは避けた。
魔獣が広い空間の端で止まり、甲羅の下からゆっくりと首を伸ばす。
また、こちらを探している。
私は柱の陰で動きを止めた。
心臓の音が身体の中へ響いている。
これも地面へ伝わるのだろうか。
頭の上で、にゃん吉くんが小さく鳴いた。
「ワン」
「大丈夫」
声を小さくする。
ユニちゃんは少し離れた場所に立っていた。
いつもと変わらない。
魔獣もユニちゃんの方を見ていない。動いていないからだ。
私は、さっき魔獣が避けた壁を見る。
ほかの場所と同じように結晶に覆われている。
違いは分からない。
もう一度、確かめる必要がある。
私は近くに落ちていた石を拾い、壁の手前へ投げた。
石が地面へ落ちる。
魔獣が反応した。
太い脚で地面を掻き、頭と首を引いて壁へ向かって走り出す。
今度は正面から、魔獣が近づいていく。
それでも、やっぱり壁へぶつかる直前で進路を変えた。
「二回目……」
偶然ではない。
あの魔獣は、あそこへ近づかない。
私は壁をよく見る。
結晶の奥。
銀色の筋に混じって、何かが見えた。
自然にできたものではない。
細い線。曲がった線。いくつもの線が、円を描くようにつながっている。
転移する直前に見たものと、よく似ていた。
「あそこだ」
魔獣がゆっくりとこちらへ向き直る。
私は、結晶に隠された円から目を離さなかった。
「あそこに、帰るための何かがある」




