第2章 第7話 初ダンジョン
入口の前では、何人かの冒険者が荷物を確認していた。
大きな鞄を背負った人。剣を腰に下げた人。採掘用らしい道具を持った人。
奥から出てくる人たちもいる。服は土で汚れ、背負った袋は入る時よりも重そうだった。
「みんな、魔石を採りに来たのかな」
「別の依頼かもしれません」
「魔石だけじゃないんだ」
「ダンジョンには、いろいろあります」
「いろいろ?」
「いろいろです」
「またそれ?」
「ワン」
ユニちゃんは、それ以上説明しなかった。
私たちは、入口の隣にある建物へ向かった。
*
管理所の中には机が一つ。その向こうに、腕の太い男の人が座っていた。
「依頼で来ました」
私はギルドでもらった依頼書と冒険者証を差し出す。
男の人は依頼書を読み、次に私の冒険者証を見た。
「Fランク?」
「はい」
声が少し小さくなった。
「責任者は?」
「私です」
ユニちゃんが冒険者証を出す。
男の人はそれを受け取り、名前とランクを確かめた。それから、ユニちゃんの顔を見る。
「十三人目のSランク冒険者、ユニだな」
「はい」
「話は届いている」
私はユニちゃんを見る。
「もうここまで?」
「ギルドですから」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
男の人が冒険者証を返す。
「責任者があんたなら問題ない。二人とも入っていい」
「ワン」
にゃん吉くんが鳴く。
男の人は、初めてその存在に気づいたように顔を上げた。
「使い魔か?」
「いえ、にゃん吉くんです」
「猫?」
「ワン」
男の人は少しだけ黙った。
「まあ、暴れないならいい」
男の人は依頼書に印を押した。
「採取区域は第一層の西側だ。壁に青い印がある。赤い印より先には行くな」
「分かりました」
「第一層にも魔獣はいる。多いのはスライムやゴブリンだ」
「外にもいる魔獣ですよね?」
「ああ。ただし、ダンジョンの中にいるものは少し違う」
「違う?」
「暗闇や狭い道に慣れている。外で見かけるものと同じつもりで近づくな」
男の人は私を見た。
「特にスライムだ。足元だけじゃない。岩や壁に紛れていることもある」
私は自分の足元を見る。今は何もいない。
「壁も見ておけ」
「あ、はい」
男の人が笑った。少しだけ肩の力が抜ける。
「中で何かあったら、入口まで戻れ。無理に進むなよ」
ギルドの受付の女の人にも、同じことを言われた。
私はもう一度頷く。
「はい」
依頼書を受け取り、管理所を出る。
ダンジョンの入口が、さっきより近くなっていた。
*
入口から冷たい空気が流れてくる。
外は明るい。それなのに、数歩先から急に色がなくなったように見えた。
私は入口の前で立ち止まり、鞄から魔道灯を取り出した。
何度も使ったことがある。手順も覚えている。それでも、指が少しだけ動かしにくかった。
灯りをつける。
白い光が、暗闇の中へ細く伸びた。
「……思っていたより、暗いね」
声に出した途端、胸の奥にあったものが少しだけ形を持った。
怖い。
昨日までは、知らない場所へ行ってみたかった。魔石を必要としている人がいると知り、自分で行くと決めた。
それでも、怖くなくなったわけではない。
「ユニちゃんは、怖くないの?」
ユニちゃんは暗い道の先を見ていた。しばらく返事はなかった。
にゃん吉くんがユニちゃんの頭の上から、入口を覗き込む。
「ワン」
小さな声が、暗闇の中へ吸い込まれていった。
「怖くないことと、進めることは、同じではありません」
ユニちゃんは、それだけ言った。
大丈夫とも、危なくないとも言わなかった。
私は目を閉じ、細くゆっくりと息を吐いた。
旅に出る前、何度も練習した呼吸。
胸の音は消えない。それでも、魔道灯を持つ手から少しだけ力が抜けた。
この先に魔石がある。それを必要としている人たちがいる。
そして、ここへ来ると決めたのは私だった。
私は目を開く。
「行こう」
最初の一歩は、まだ明るい場所に落ちた。
次の一歩は、暗闇の中だった。
*
少し進むと、外の光はほとんど届かなくなった。
代わりに、壁へ取り付けられた魔道灯が一定の間隔で通路を照らしている。でも、灯りと灯りの間には暗い場所が残っていた。
私は手に持った魔道灯を前へ向ける。白い光が、細く通路を照らした。
「もっと真っ暗だと思ってた」
「管理されていますから」
「そっか」
足元には、削られた岩の道が続いている。
天井から落ちる水の音。自分たちの足音。時々、遠くから何かを叩く音も聞こえる。
ほかの冒険者がいる。そう分かっているのに、姿が見えないだけでずっと遠くに感じた。
「ワン」
にゃん吉くんがユニちゃんの頭から飛び降り、そのままふわりと浮かんで、私の頭の上に乗った。
「にゃん吉くん?」
「ワン」
にゃん吉くんの身体が淡く光り始める。
白く柔らかい光が広がり、私の足元から左右の壁までを照らした。
「光った……」
「ワン」
「こんなこともできるの?」
「ワン」
少しだけ得意そうに聞こえた。
手に持った魔道灯は前の暗闇を照らし、にゃん吉くんの光は私の周りを照らしている。
さっきまで見えにくかった足元も、これならよく見える。
「ありがとう、にゃん吉くん」
「ワン」
頭の上で、丸い身体が少しだけ揺れた。
私は壁を見る。矢印の形をした青い線が、西へ続く通路を示していた。
「あっちだね」
「はい」
青い印に沿って歩き出す。
魔道灯で前を照らし、にゃん吉くんの光で足元と壁を見る。
灰色の岩。濡れた地面。天井から伸びた細いひび。
外とは、何もかも違って見えた。
通路の端にある岩へ魔道灯を向ける。
灰色の岩。
その表面が、少しだけ動いた。
「……え?」
立ち止まり、もう一度光を向ける。
岩だと思っていたものが、ゆっくり形を変えた。
丸く柔らかい身体。暗い色をした何かが、壁から剥がれるように地面へ落ちた。
べちゃり。
湿った音が通路に響く。
「スライム……?」
外で見たものより、ずっと色が暗い。
周りが明るくなっていても、動かなければ岩と見分けられなかった。
スライムがゆっくりこちらを向く。その身体の中で、小さな何かが光った。
私は魔道灯を握り直した。
スライムはすぐには動かなかった。身体を低く広げ、私たちの様子を見ている。
たぶん、向こうも同じだ。
「どうしよう」
答えを求めるように、ユニちゃんを見る。
ユニちゃんはスライムを見たまま言った。
「ルナは、どうしたいですか?」
やっぱり、決めるのは私だ。
依頼は魔石を採ること。スライムを倒すことではない。
「通れそう?」
「通ろうと思えば」
通路は狭い。でも、反対側の壁へ寄れば、通れるだけの隙間はある。
「刺激しなければ大丈夫かな」
「分かりません」
「分からないんだ」
「まだ何もしていませんから」
確かに、スライムはそこにいるだけだ。
私はまぶしくないように魔道灯を少し下げ、ゆっくり反対側の壁へ寄った。
スライムの身体が揺れる。
足を止める。
動かない。
また一歩。
スライムも動かない。
「……通れそう」
小さな声で言う。
返事はなかった。ユニちゃんも黙って私の後ろをついてくる。
あと少し。
スライムの横を通り過ぎる。
そう思った時。
「ルナ」
ユニちゃんの声がした。
スライムの身体が急に縮んだ。
「え?」
次の瞬間、地面を跳ねる。
暗い塊が、私の足元へ飛んできた。
私は後ろへ下がる。
着地したスライムが、さっきまで私の足があった場所で広がった。
「危な……」
もう一度、スライムの身体が縮む。
私は魔道灯を向けたまま、さらに距離を取った。
スライムが跳ぶ。
今度は、どこへ来るか見えた。
横へ避ける。
スライムは壁にぶつかり、べちゃりと音を立てて落ちた。
「速くはない……」
跳ぶ前に身体が縮む。飛ぶ方向もまっすぐだ。
分かれば避けられる。
でも、暗闇の中で気づくのが遅れたら。
私は周りを見る。左には壁。右には少し広い場所がある。
スライムが、また身体を縮めた。
「こっち」
私は右へ走る。
スライムが跳ね、さっきまでいた場所を通り過ぎて反対側の壁にぶつかった。
その間に、私たちは先へ進む。
振り返る。
スライムは追ってこなかった。元いた岩の近くへ戻り、また壁に張りつこうとしている。
「……逃げられた」
「はい」
「倒さなくてもいいんだよね?」
「依頼は魔石の採取です」
「そっか」
戦わなかった。
倒せなかったのか、倒さなかったのか。今はまだ、自分でもよく分からない。
でも、誰も怪我をしていない。
私は息を吐く。
「これでいい」
自分に言う。
ユニちゃんは何も答えず、少し先で待っていた。
*
青い印に沿って、さらに奥へ進む。
さっきまでより、壁をよく見るようになった。
岩に見えるもの。影に見えるもの。少しでも形が違えば、一度足を止める。
「慎重になりました」
「なるよ」
「さっきまで、下しか見ていませんでした」
「今は全部見てるよ」
「後ろは?」
「にゃん吉くん」
「ワン」
にゃん吉くんが、私の頭の上で後ろを向く。
今度は、あくびをしていない。
「ちゃんと見てる……」
「ワン」
少し誇らしそうだった。
通路の先が急に広くなる。
壁にはいくつもの掘った跡が残り、地面にも小さな岩が積もっていた。
「ここが採取区域かな」
青い印の下に文字が刻まれている。
『第一採取区域』
「着いた」
思わず声が大きくなった。
その声が岩の壁に跳ね返る。
着いた。着いた。
小さくなりながら、奥へ消えていく。
私は慌てて口を押さえた。
「……静かにしないと」
奥に何がいるか、まだ分からない。次からは気をつけよう。
魔道灯を壁へ向ける。
灰色の岩。黒い筋。その中に、小さな光が混じっている。
「これが魔石?」
近づこうとしたところで、受付の女の人の言葉を思い出した。
魔石を見つけても、すぐに触らないでください。
伸ばしかけた手を止める。
「ユニちゃん」
「はい」
「あれ、採っても大丈夫?」
ユニちゃんが壁を見る。少しだけ視線を動かした。
「一番下にあるものなら、大丈夫です」
「上のは?」
「今取ると、周りも落ちます」
見ただけで分かるらしい。
私は壁の一番下を見る。親指の先ほどの石が、岩の間から淡く光っていた。
鞄から採取用の小さな道具を取り出す。
石の周りへ差し込み、少しずつ岩を削る。
カッ。カッ。
音が静かな空間に響く。
焦らない。無理に動かさない。教えてもらった通りに、少しずつ。
やがて魔石が岩から外れ、手のひらに落ちた。
淡い光が指の間を照らす。
「採れた……」
小さい。
街で見た箱いっぱいの魔石と比べれば、本当に小さい。
それでも、初めて自分で採った魔石だった。
「ユニちゃん、見て」
「見ています」
「採れたよ」
「はい」
「ワン」
にゃん吉くんが、私の頭の上から身を乗り出す。
私は魔石を持ち上げた。
「これが、街で使われるんだよね」
「使える大きさなら」
「……使えないこともあるの?」
「あります」
急に、手の中の光が頼りなく見えた。
「でも、持って帰らないと分からないよね」
「はい」
私は魔石を鞄の中の小さな袋へ入れた。
一つ。
まだ一つだけ。
壁には、ほかにも光が見える。
「次も探そう」
そう言って立ち上がった時だった。
カツン。
奥の通路から、何かが岩に当たる音がした。
私は動きを止める。
「今の、何?」
返事はなかった。
ユニちゃんは音がした方を見ている。にゃん吉くんも、頭の上でそちらを向いた。
カツン。
もう一度。
さっきより近い。
私は魔道灯を向ける。
光の届かない通路。その手前の地面に、小さな足跡が残っていた。
裸足に似ている。でも、人のものよりずっと小さい。
管理所で聞いた名前が頭に浮かぶ。
「……ゴブリン?」
暗闇の奥で、何かが動いた。




