第2章 第6話 必要なもの
受付の女の人が、机の下から一枚の紙を取り出した。
「西部第七ダンジョンまでは、街の西門から歩いて一時間ほどです」
「一時間……」
思っていたより近い。もっと遠くにあるものだと思っていた。
「入口には管理所があります。こちらの依頼書と冒険者証を提示してください」
女の人が、掲示板から外した依頼書に印を押す。
「採取が許可されているのは、地下第一層の指定区域までです。それより先へは入らないでください」
「第一層……」
その言葉だけで、急にダンジョンが本物になった気がした。
掲示板に貼られていた紙。列車の中で聞いた名前。それが今、地下へ続く場所として目の前にある。
「中は暗いですか?」
「入口付近には魔道灯があります。ただ、場所によっては光が届きません。灯りは必ず持っていってください」
「持っています」
旅に出る前、村で何度も使い方を練習した。鞄の中にある小さな灯りを思い浮かべる。
「水と食料は?」
「あります」
「傷薬と包帯」
「あります」
「予備の灯り」
「……一つだけです」
女の人は少し考えてから、ユニちゃんを見る。
「ユニさんは?」
「持っていません」
「持ってないの!?」
「暗くても見えます」
「そういう問題なの?」
「そういう問題です」
「ワン」
たぶん、にゃん吉くんも持っていない。
女の人が小さく息を吐いた。
「予備はもう一つ用意してください。ダンジョンの中で灯りを失うと、戻ることも難しくなります」
「分かりました」
私は頷く。まだ何も増えていないのに、少しだけ鞄が重くなった気がした。
「それから、魔石を見つけても、すぐに触らないでください」
「え?」
「壁や地面から無理に取り出すと、周囲が崩れることがあります。採取できる魔石かどうか、責任者に確認してから行ってください」
私はユニちゃんを見る。ユニちゃんも私を見る。
「分かりますか?」
「分かります」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん!?」
受付の女の人の手が止まった。
「大丈夫です。見れば分かります」
「今の間は何だったの?」
「ルナがどんな顔をするか見ていました」
「こんな顔になるよ!」
「そうですか」
「ワン」
にゃん吉くんまで、楽しそうに鳴いた。私だけ遊ばれている気がする。
「……続けてもよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします」
私は姿勢を正した。女の人の表情が少しだけ厳しくなる。
「最後に、一番大切なことです」
食堂や掲示板の前から聞こえていた声が、少し遠くなった気がした。
「ダンジョンの中で異変を感じた場合、依頼より帰還を優先してください」
「異変……」
「魔獣が指定区域まで現れることもあります。壁が崩れることも、道が変わることもあります」
女の人は、私たちをまっすぐ見た。
「採取した魔石は失っても構いません。誰も欠けずに戻ってきてください」
私はすぐに返事をしようとした。でも、声が出るまでに少しだけ時間がかかった。
「……はい」
昨日まで、ただ行ってみたいと思っていた場所。そこには本当に危険がある。
隣を見る。
ユニちゃんは何も言わなかった。大丈夫とも、必ず守るとも言わず、ただ私の返事を聞いていた。
*
ギルドを出た私たちは、予備の灯りを買うために道具屋へ向かった。
「ここかな」
扉の横に、ランタンの形をした看板が下がっている。
中へ入ると、壁一面に見たことのない道具が並んでいた。縄、水筒、小さな鍋、折り畳まれた布。何に使うのか分からないものまである。
「ダンジョンって、こんなに持っていく物があるの?」
「行く場所によります」
「第一層だけなら?」
「今ある物で足ります」
「本当に?」
「受付の人にも確認してもらいました」
「あ、そっか」
足りないと言われたのは、予備の灯りだけだ。
ユニちゃんが何もない空間へ手を伸ばす。その手が見えなくなり、戻ってきた時には小さな水筒を持っていた。
何度見ても、どうなっているのか分からない。
「ユニちゃんの荷物は、全部そこに入ってるんだよね」
「はい」
「でも、灯りはないの?」
「ありません」
「なんでも入ってるわけじゃないんだ」
「入れていない物は出ません」
「それはそうだけど」
「ワン」
にゃん吉くんが当然のように頷いた。
私は棚に並んでいる灯りを見る。大きな物、小さな物、取っ手が付いた物、魔石が入っている物。
「どれがいいんだろう」
「今持っている物と、同じ種類がいいと思います」
「どうして?」
「使い方を知っているからです」
「あ……」
新しい物のほうが便利そうに見えていた。でも、暗い場所で使えなければ意味がない。
私は鞄から灯りを取り出し、同じ形のものを探した。
「あった」
手のひらに収まる、小さな魔道灯。値札を見る。
「……高い」
列車に乗る前、王都でいくつか依頼を受けておいてよかった。
少し迷ってから、魔道灯を手に取る。
「これにする」
「はい」
払った分は、魔石を採れれば依頼の報酬で戻ってくる。
採れれば。
私はその言葉を、頭の中で繰り返した。
「ルナ」
「なに?」
「依頼を達成できなくても、お金はまた稼げます」
一瞬、何のことか分からなかった。それから、手に持った魔道灯を見る。
「……顔に出てた?」
「出ていました」
「また?」
「はい」
「ワン」
二人に見られながら、私は魔道灯を鞄へ入れた。
今度は、さっきより少しだけ軽く感じた。
*
街の西門を抜けると、建物の間を吹いていた風が急に広くなった。
道は、遠くに見える岩山へ向かって続いている。あのどこかに、西部第七ダンジョンがある。
「本当に一時間で着くのかな」
「受付の人が言っていました」
「分かってるけど、遠く見えるね」
「遠くを見ると遠く見えます」
「近くを見たら?」
「近く見えます」
「そういうことじゃないよ」
「ワン」
私は歩き出す。街の音が、少しずつ背中の向こうへ遠ざかっていく。
さっき買った魔道灯が、歩くたびに鞄の中で小さく揺れた。
*
歩き始めてから、一時間ほど経った。
「見えてきました」
ユニちゃんが前を指す。
岩山の下に、小さな建物があった。その隣には、大きく開いた洞窟の入口。奥へ続く暗闇が、遠くからでも見えた。
「あれが……」
足が止まりそうになる。
でも、止まる前に一歩出た。
掲示板に貼られていた紙。列車の中で聞いた名前。昨日まで、行ってみたいと思っていただけの場所。
それが今、私の目の前にある。
「西部第七ダンジョン」
名前を口にすると、胸の奥が少しだけ重くなった。
怖くないわけじゃない。
それでも、ここへ来ると決めたのは私だ。
私は鞄の紐を握り直す。中に入れた魔道灯が、小さく揺れた。
「行こう」
「はい」
「ワン」
私たちは、ダンジョンの入口へ向かって歩き出した。




