第1章 第3話 十五歳になったら
家に着く頃には、空はもう夕暮れに染まっていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
母が台所から顔を出す。そして、ルナの後ろにいるユニを見て目を丸くした。
「……あら。その子は、昨日話していた?」
「うん。ユニちゃん」
ユニがぺこりと頭を下げる。
「ユニです」
「父さんから聞いたわ。今日は大変だったそうね」
母はユニの頭の上へ目を向けた。そこには、白くて丸いにゃん吉君が乗っている。
「その子は?」
「にゃん吉君です」
「ワン」
「猫……?」
「にゃん吉君です」
「犬なのかしら?」
「にゃん吉君です」
「ワン」
母が笑った。
「そう。じゃあ、にゃん吉君もよろしくね」
にゃん吉君が胸を張る。
「ワン」
「なんか偉そう」
「どやです」
「どうしてユニちゃんが得意そうなの?」
「私のにゃん吉君です」
父は二人のやり取りを聞きながら、小さく息を吐いた。
「その話はあとだ。今日はこの子を泊めてもいいか、母さんにも相談しないとな」
「何か事情があるの?」
「家も、今夜行く場所も決まっていないらしい」
母はユニを見た。
「一人で旅をしているの?」
「ひとりではありません」
「ワン」
「……そうだったわね」
母は少し考えてから頷いた。
「分かりました。今日はうちに泊まっていって。明日、守衛所で事情を確認しましょう」
「ありがとうございます」
「お腹も空いたでしょう。夕食まで、ゆっくりしていてね」
「はい」
*
「ユニちゃん、お風呂はどうする?」
「入ります」
「着替えは私のを貸そうか?」
「大丈夫です」
ユニが何もない空間へ手を伸ばした。
「……?」
その手が空間の中へ消える。少しして、ユニは今着ているものとよく似た服を取り出した。
「どこから出したの?」
「荷物です」
「荷物?」
「別のところにあります」
「……便利だね」
「はい」
にゃん吉君も当然のようにユニの後をついていく。
「にゃん吉君も入るの?」
「ワン」
「入るみたいです」
「聞いて分かるの?」
「分かります」
ルナには分からなかった。
*
風呂から上がると、家の中には夕食の匂いが広がっていた。
ルナが席につく。向かいにはユニ。その頭の上には、湯気で少し膨らんだように見えるにゃん吉君がいる。
「いただきます」
「いただきます」
「ワン」
ユニが料理を一口食べる。その目が、ほんの少しだけ大きくなった。
「おいしいです」
「本当?」
母が嬉しそうに笑う。
「まだあるから、遠慮しないでね」
「はい」
「ユニちゃんは、旅をしている時は何を食べてるの?」
「その時にあるものです」
「パンとか?」
「はい」
「木の実とか?」
「はい」
「魚も?」
「はい」
「……何でも食べるんだ」
「食べられるものなら」
父が笑う。
「逞しいな」
「普通です」
「それを普通と言うのか?」
ルナは思わず笑った。
食事が少し落ち着いた頃、父がユニを見る。
「さっきの魔獣について聞いてもいいか?」
「はい」
「最初に帰っていった魔獣は、どうして止めなかった?」
「帰りたそうだったからです」
「それだけか?」
「はい」
「最後の大きな魔獣は?」
「帰る気がありませんでした」
「だから止めたのか?」
「人を襲おうとしたので」
ユニはそれだけ答え、また食事を始めた。
ルナは南門で見た魔獣を思い出す。牙を剥き、爪を振り下ろそうとしていた。それでも、ユニに腕を掴まれた時、その身体は震えていた。
「魔獣って、みんな悪いの?」
ユニは首を横へ振った。
「分かりません」
「分からないの?」
「はい」
「それでも、帰りたそうだって分かったの?」
「見れば分かります」
「私には分からなかったよ」
「そうですか」
それ以上、ユニは説明しなかった。
魔獣が何を考えていたのか。本当に怖がっていたのか。ルナには分からない。ただ、あの魔獣が自分からゲートへ戻ったことだけは確かだった。
*
食事を終えると、ユニは母と一緒に食器を運び始めた。
「ユニちゃんは座っていていいのよ」
「手伝います」
「お客さんでしょう?」
「ご飯を食べました。タダ飯は駄目です」
母が笑う。
「それなら、一枚だけお願いしようかしら」
「はい」
ユニが皿を運ぶ。その後を、にゃん吉君もついていく。
「にゃん吉君も手伝うの?」
「ワン」
「見守っています」
「それは手伝ってるのかな」
「ワン」
昨日まで知らなかったユニとにゃん吉君が、今は家の中にいる。不思議だった。けれど、嫌ではなかった。
*
片付けが終わったあと、父が窓の外を見た。
「問題は、あのゲートだな」
ルナが顔を上げる。
「ゲートって、前にも出たことがあるの?」
「ああ。町の外なら、それほど珍しいものじゃない。場所によっては、ゲートを監視するために冒険者が置かれている」
「じゃあ、今日のゲートも普通だったの?」
「ゲートそのものはな」
父の表情が険しくなる。
「だが、町の中に現れたのは普通じゃない」
「結界の内側に?」
「そうだ。結界は壊されていなかった。それなのに、内側へ突然現れた」
母も不安そうに父を見る。
「原因は分かっていないの?」
「今のところはな。明日、守衛所へ行けば何か聞けるかもしれない」
ゲートは消えた。魔獣も、もう町にはいない。けれど、なぜゲートが現れたのかは何も分かっていなかった。
「……怖かった?」
母が静かに聞いた。
ルナは少し迷ってから頷いた。
「うん」
「そうよね」
「私、何もできなかった」
母は何も言わず、ルナの手をそっと握った。
*
夜。
ルナの部屋には、来客用の布団が敷かれていた。にゃん吉君はその上で丸くなっている。
ユニは窓辺に座り、外を見ていた。
「ユニちゃんは、これからどこへ行くの?」
「世界樹です」
「……世界樹?」
「はい」
ルナは机に置いていた本を手に取った。世界樹について書かれた本だ。
ページを開くと、空を突き抜けるほど巨大な樹の絵が現れる。
「この世界樹?」
「はい」
「本当にあるの?」
「あります」
「どうして知ってるの?」
ユニは少しだけ考えた。
「知っています」
「答えになってないよ」
「そうですか?」
「うん」
ルナはページをめくった。
「世界樹の先には、願いの泉があるって書いてあるの」
「はい」
「泉が人の願いを聞いて、叶えてくれるって」
ルナは自分の手を見る。
「私、魔法が使えないんだ」
「そうですか」
「みんなが使えるような簡単な魔法も、私は使えない。何度練習しても、何も起きない」
ユニは黙って聞いていた。
「だから、願いの泉が本当にあるなら、そこでお願いしてみたい」
「何をですか?」
「私にも魔法が使えるようになりますようにって」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
ずっと思っていた。いつか魔法を使ってみたい。火を灯し、水を動かし、風を起こしてみたい。
「ルナは、どうしたいですか?」
ユニが聞いた。
「私?」
「はい」
ルナは本に描かれた世界樹を見る。
今日、魔獣が現れた。怖かった。自分には何もできなかった。町の外へ出れば、もっと危険なことがあるかもしれない。それでも、本の中にしかなかった世界を自分の目で見てみたい。
「私も、世界樹へ行きたい」
ユニは何も言わず、ルナを見ている。
「願いの泉が本当にあるのか、自分で確かめたい。それで……」
ルナは少しだけ迷った。
「ユニちゃんと一緒に行ってもいい?」
「はい」
「本当に?」
「私も世界樹へ向かいます」
「すごく遠いんだよね?」
「遠いです」
「何年かかるか分からないかもしれない」
「はい」
「危ないこともあるかもしれない」
「あります」
「そこは大丈夫って言ってくれないんだ」
「危険はありますから」
ルナは苦笑した。
「正直だね」
「はい」
「ワン」
にゃん吉君が布団へ潜り込んだ。
世界樹へ行きたい。そう口にしただけで、まだ何も決まってはいない。それでも、ルナの胸の中には、昨日までなかった道が生まれていた。
*
翌朝。
ルナは父、ユニ、にゃん吉君と一緒に守衛所へ向かった。
南門の周辺には、魔獣が残した爪痕がまだ残っている。割れた石畳を直す人や、壊れた荷車を運ぶ人の姿もあった。
守衛所では、昨日の隊長が待っていた。
「来たか」
「娘と、この子のことを確認したくてな」
「ああ。昨日の件は聞いている」
隊長はユニを見る。
「名前は?」
「ユニです」
「出身は?」
「遠いところです」
「どこだ?」
「かなり遠いところです」
「……そうか」
隊長は追及を諦めたようだった。
「少なくとも、昨日の騒ぎを起こした者ではない。それは確認できている。町の中で問題を起こした記録もない」
父が頷く。
「なら、しばらく家で預かっても問題ないか?」
「今のところ、この子を引き留める理由はない」
隊長は机の上へ、一つの箱を置いた。
「それから、これは昨日の魔獣が残した魔石だ」
箱の中には、大きな魔石が入っていた。
「記録と確認は済んでいる。規則では、魔獣を倒した者に所有権がある。君たちのものだ」
ユニが受け取る。
「ありがとうございます」
「かなり大きい。持ち歩くなら気をつけろ」
「はい」
父が魔石を見て息を吐く。
「これは……ずいぶん高そうだな」
「正確な価値は、ギルドで鑑定してもらわないと分からない。少なくとも、そのまま子供に持ち歩かせるような物ではない」
「分かった。俺が預かる」
父は魔石の入った箱を受け取った。
「ゲートのことは、まだ調べている」
隊長が続けた。
「結界に異常はなかった。なぜ町の中へ現れたのかも、今は分からない」
「また現れる可能性は?」
「それも分からない。しばらくは警戒を続ける。何か分かれば町の者にも知らせる」
事件は終わった。けれど、何もかも解決したわけではなかった。
*
学校では、昨日の騒ぎの話でもちきりだった。
「白い髪の小さな女の子が、魔獣を消したんだって」
「違うよ。その子の頭にいた、白くて丸いのがやったらしいよ」
「頭にいたって、何が?」
「分かんない。犬みたいに鳴いたって」
「何それ」
話を聞くたび、出来事が少しずつ変わっている。
ルナは訂正しようとして、やめた。どこから説明すればいいのか、自分にも分からなかった。
「ルナ」
ニーナが椅子を引いて、隣へ座る。
「昨日、大丈夫だった?」
「うん。ニーナは?」
「まだ膝が少し痛い」
「ちゃんと手当てしてもらった?」
「したよ」
ニーナは自分の膝を見てから、小さく息を吐いた。
「怖かったね」
「うん」
「もう、あんなのは嫌だな」
「私も」
二人はしばらく黙っていた。
「町が落ち着いたら、パン屋に行こうね」
ルナが言った。
ニーナが顔を上げる。
「うん。約束だから」
「今度は忘れないよ」
「本当に?」
「本当」
今度は、ルナから言った。
*
夕食のあと、ユニが父の前へ魔石の箱を置いた。
「これ、宿代です」
「……全部か?」
「はい」
「多すぎる」
「そうですか? じゃあ、おつりください」
「そういう問題じゃない」
父が頭を抱えた。
「これはギルドで換金する。必要な分だけ宿代として受け取って、残りはお前の旅費として預かる。それでいいな?」
「分かりました」
ユニはあっさり頷いた。
母がユニを見る。
「守衛所で問題がないと確認できたのなら、すぐに出ていかなくてもいいのよ」
「いいんですか?」
「ええ。これからどうするのか決まるまで、うちにいなさい」
「ありがとうございます」
「ワン」
にゃん吉君が胸を張る。
「にゃん吉君もよ」
「ワン」
*
その日の夕食後。
家族が居間に集まり、お茶を飲んでいた。
ルナは何度か口を開きかけて、やめた。それに気づいた母が首を傾げる。
「どうしたの?」
「……話したいことがあるの」
「なに?」
ルナは父と母を交互に見た。
「私、十五歳になったら冒険者登録をして、旅に出たい」
母の手が止まる。父もルナを見る。
「世界樹へ行って、願いの泉を確かめたいの」
「魔法を使えるようになりたいから?」
「うん」
ルナは頷いた。
「昨日、魔獣が出た時、何もできなかった。怖かったし、外の世界には、もっと危険なことがあるかもしれないって分かった」
「それでも行きたいの?」
「……行きたい」
母はすぐには答えなかった。
「今は、行っていいとは言えないわ」
「うん」
「昨日のことがあったばかりだもの。あなたが旅へ出るなんて、すぐに賛成できない」
「分かってる」
「でも、あなたが本気なのかどうかも、何も聞かずに駄目とは言いたくない」
母はルナを見つめた。
「十五歳の誕生日まで、あと半年あるでしょう?」
「うん」
「その間に準備をして、私たちも一緒に考えましょう」
「準備?」
「旅に何が必要なのか。どれくらい歩けるのか。危険な時に、どうやって自分を守るのか」
父も頷く。
「世界樹までの道も調べないとな。どこを通るのか、どこで休むのか、何日分の食料を持つのか。考えることは山ほどある」
「うん」
「半年後、それでも行きたいと思っているなら、もう一度話そう」
母の言葉に、ルナは頷いた。
「分かった」
旅立ちを許されたわけではない。反対されたわけでもない。これからの半年で、自分が本当に旅へ出られるのかを確かめる。
「ユニちゃんは?」
父が尋ねる。
「はい」
「ルナが世界樹へ行くことになったら、一緒に行くのか?」
「はい」
「遠い旅になるぞ」
「知っています」
「危険もある」
「あります」
「大丈夫なのか?」
「できることはします」
父はしばらくユニを見てから頷いた。
「そうか」
ユニは、ルナの代わりに大丈夫だとは言わなかった。ルナならできるとも言わなかった。ただ、一緒に行くと答えた。
*
その夜。
ルナは机へ向かい、白い紙を一枚広げた。
旅に必要なもの。調べなければならないこと。今の自分にできないこと。
考えても、すぐには何も浮かばない。それでも、最初に一つだけ書いた。
世界樹までの道。
十五歳の誕生日まで、あと半年。
旅立てるのかを確かめる時間が、始まった。




