第1章 第2話 門の向こうから
終礼の鐘が鳴った。
先生が黒板に最後の文字を書き終えるのと、ほとんど同時だった。
「今日はここまで。明日は魔法史の小テストがあるからな。忘れるなよ」
「ええーっ」
教室のあちこちから不満の声が上がる。
「昨日言っただろ」
「聞いてません!」
「聞いてたけど忘れました!」
「それは聞いてないのと同じだ」
先生が呆れたように笑い、教室にも笑い声が広がった。
ルナも小さく笑いながら、机の上に広げていた教科書を鞄へしまう。
「ルナ」
顔を上げると、ニーナが机の横に立っていた。
「今日、一緒に帰ろ」
「うん」
「よし」
「どこか寄るの?」
「パン屋」
「また?」
「またって何よ」
「この前も行ったじゃん」
「今日は新しい焼き菓子が出たの」
「……この前も同じこと言ってなかった?」
「昨日は昨日。今日は今日」
「同じお店なのに?」
「細かいことは気にしないの」
ニーナは胸を張った。
「絶対おいしいから。ルナも食べようよ」
「私は見るだけでいいかな」
「だめ。二人で食べた方がおいしいんだから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
ニーナが笑う。
ルナもつられて笑った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
*
校門を出ると、夕食の支度をする匂いが商店から流れてきた。通りには、学校帰りの子供たちが行き交っている。
ニーナは隣を歩きながら、今日の魔法実習の話を始めた。
「ねえ、ルナ。今日の魔法実習さ」
「うん?」
「また何も出なかったでしょ」
「……見てたの?」
「隣の席だもん」
「忘れてよ」
「嫌」
「なんで?」
「だって、ルナ、すごく悔しそうな顔してたから」
「してないよ」
「してた」
「してないって」
「してたってば」
ニーナが笑う。
ルナは少しだけ頬を膨らませた。
「……いつかは使えるようになるかもしれないじゃん」
「うん。そうだよ」
ニーナは、あっさりと頷いた。
「……」
「何?」
「ニーナって、たまにすごくあっさり信じるよね」
「だって、ルナだもん」
「それ、理由になってないよ」
「私にはなるの」
ニーナが笑う。
ルナも笑った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
その時だった。
――ゴォン。
二人の足が止まった。
遠くから、低い音が響いてくる。町の喧騒が、一瞬だけ途切れた。
「今の……何?」
ニーナが南門の方を見る。
もう一度、鐘が鳴った。
今度は、はっきりと聞こえた。
警鐘。
町に危険が迫った時に鳴らされる鐘だ。
「……嫌な音」
ニーナが呟く。
南門の方から、守衛たちの怒鳴り声が飛んできた。
「南門に異常! 門から離れろ!」
「近くの者は家の中へ入れ! 子供を連れて、早く!」
店先にいた人々が振り返る。母親は子供の手を引き、商人は慌てて荷車を道の端へ寄せた。
「ルナ」
ニーナが腕を掴んだ。
「帰ろう」
「うん」
二人が走り出そうとした時、地面の底から響くような音がした。
南門の方で、空気が歪んでいる。
何もなかった空間に黒い亀裂が走り、一本、また一本と増えていく。
「隊長!」
守衛の一人が叫んだ。
「結界は!?」
「健在です!」
「破られていないのか?」
「はい! 異常ありません!」
守衛隊長が黒い亀裂を睨む。
町を覆う結界は、いつもと変わらず淡い光を放っていた。
それなのに、その内側で亀裂が広がっていく。
「ゲート……?」
ニーナの声が震えた。
裂け目はさらに大きくなり、やがて巨大な門のような黒い空間へ変わった。
その向こうから、低い唸り声が聞こえる。
「……何かいる」
ルナは答えられなかった。
怖い。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
黒いゲートから、一匹の魔獣が飛び出した。
「魔獣だ!」
守衛たちが一斉に槍を構える。
続いて二匹、三匹。さらにその後ろから、次々と魔獣が姿を現した。
「隊列を崩すな! ここで食い止める!」
隊長の声が飛ぶ。
地面を蹴った魔獣の爪を、槍の穂先が弾いた。激しい金属音が響き、別の守衛が横から槍を突き出す。
炎の魔法が地面を走り、魔獣が飛び退いた。
けれど、数が多い。
守衛たちだけでは、すべてを止めきれない。
「ルナ、こっち!」
二人は逃げる人々の流れに押されるように走った。
「きゃっ!」
ニーナの足がもつれ、地面へ膝をつく。
「ニーナ!」
「大丈夫……」
「立てる?」
「うん……!」
ルナがニーナの腕を取り、立ち上がらせる。
その時、近くから低い唸り声が聞こえた。
一匹の魔獣が、こちらへ向かっている。
けれど、その進路の先にいたのはルナたちではなかった。
小さな男の子が、一人で立ち尽くしている。
「おかあさん……」
母親とはぐれたのだろう。
「危ない!」
叫ぶのと同時に、ルナの足が動いた。
間に合うはずがない。
魔法も使えない。
それでも、立ち尽くしたままではいられなかった。
「そこの子、動け!」
守衛の声も届かない。
男の子は動けなかった。
魔獣が地面を蹴り、跳びかかる。
その瞬間、青い服がルナの視界へ滑り込んだ。
「……え?」
白銀の髪。
小さな背中。
ユニが、男の子の前に立っていた。
振り下ろされた魔獣の腕を、ユニが掴む。
魔獣は牙を剥き、低く唸った。
ユニは、その目を静かに見つめている。
「この子は、あなたの敵ではありません」
魔獣が腕を引こうとする。
けれど、ユニの手は動かない。
「怖いんですね」
魔獣の身体が、わずかに震えた。
「ここに来たかったわけではないのでしょう?」
ユニはゲートへ目を向け、それから魔獣へ視線を戻した。
「帰れるなら、帰った方がいいです」
ユニが手を離す。
魔獣はしばらくその場に立ち、ユニを見つめていた。
やがて唸り声を収めると、身を翻してゲートへ走り出した。
「……帰った」
ニーナが呟く。
「うん」
魔獣が黒い空間の向こうへ消える。
その直後、ゲートの縁が大きく揺らいだ。
ユニが触れたわけでも、何かをしたようにも見えない。
ゲートは、ひとりでに狭まり始めた。
出口が失われることを察したのか、戦っていた魔獣たちが次々と動きを止める。
一匹がゲートへ戻る。
続いて、もう一匹。
やがてほかの魔獣たちも守衛から離れ、閉じ始めたゲートへ駆け込んでいった。
守衛たちは追わなかった。
「攻撃するな!」
隊長が叫ぶ。
「戻る奴は行かせろ!」
最後の魔獣がゲートへ消えようとした時、低い咆哮が町に響いた。
ほかの個体より、ふた回りは大きな魔獣が残っている。
「大きい……」
ニーナが呟く。
大魔獣は、閉じていくゲートを見た。
けれど、そちらへは向かわない。
「あなたは、帰らないんですか?」
その視線が、ユニの背後にいる男の子と、逃げ遅れた人々へ移る。
「……そうですか」
大魔獣が身体を低くした。
「まずい!」
守衛隊長が槍を構える。
大魔獣は地面を蹴り、ユニの向こうにいる人々へ突進した。
ユニは動かない。
ただ、頭の上にいたにゃん吉君が、ゆっくりと身体を起こした。
小さな片腕が上がる。
「ワン」
大魔獣の動きが止まった。
次の瞬間には、その姿はもうなかった。
地面に、一つの魔石だけが残されていた。
「……」
ルナは足を止めたまま、それを見つめた。
魔石は知っている。
町で使われている魔道具にも、魔石の力が使われている。
それでも、ついさっきまで動いていた魔獣が消え、その場所に石だけが残る光景を見るのは初めてだった。
背後で、ゲートが揺らいだ。
黒い空間に細かな亀裂が走り、端から光の粒となって崩れていく。
やがてゲートは、跡形もなく消えた。
静寂が訪れる。
守衛隊長は、魔石とゲートの消えた場所を交互に見た。
「……終わったのか」
誰も答えられなかった。
やがて隊長が槍を下ろす。
「全員、怪我人を確認しろ。それから魔石を回収する」
その声を合図に、守衛たちが動き始めた。
*
町には、魔獣が残した爪痕が残っていた。
傷ついた人が運ばれ、守衛たちは壊れた荷車や店先を調べている。
ニーナも、擦りむいた膝を救護の人に手当てしてもらっていた。
「ルナ」
「うん?」
「私はもう大丈夫だから」
「でも……」
「救護の人が家まで送ってくれるって」
「本当に?」
「本当」
ニーナが笑う。
「だから、ルナも帰って」
「うん」
「町が落ち着いたら、パン屋に行こうね」
「うん」
「約束だから」
「忘れないよ」
ニーナは救護の人に支えられながら立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
町の奥へ歩いていくニーナの背中を、ルナは見送った。
「ルナ!」
聞き慣れた声がする。
「パパ!」
父が息を切らして駆けてきた。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
父はルナの肩を掴んで顔を覗き込み、腕や足にも怪我がないことを確かめた。
「……よかった」
大きく息を吐いた父の手が、わずかに震えている。
「パパ」
「ん?」
「怖かった?」
父は一瞬黙り、それから苦笑した。
「怖かったよ。お前に何かあったらと思ったら、そりゃ怖い」
父はルナの頭を撫でる。
「父親だからって、何でも平気なわけじゃない」
「……うん」
「でも、無事ならそれでいい」
ルナは父の服を握った。
「ごめんね」
「謝るな」
優しい声だった。
「帰ろう」
「うん」
父が顔を上げ、ルナの後ろに立つユニを見る。
「……あの子は?」
「ユニちゃん」
「昨日話してた子?」
「うん」
父はユニへ向き直った。
「君は、一人で旅をしているのか?」
ユニは少しだけ考えた。
「ひとりではないです」
父の視線が、ユニの頭の上へ向く。
「……そうか」
「ワン」
「なるほど」
父は真面目な顔で頷いた。
ルナは思わず笑う。
「パパ、分かったの?」
「何となくな」
「絶対分かってないでしょ」
「分かってる」
父はユニへ尋ねる。
「家は?」
「ありません」
父の表情が止まった。
「今夜は、どうするつもりだったんだ?」
「まだ決めていません」
「本当なら、守衛に事情を聞いてもらうところだが……」
父は南門を見る。
守衛たちは、怪我人の確認と壊れた町の対応に追われていた。
「まずは、うちへ来るか。今夜のことは母さんとも相談しよう。明日、町が落ち着いたら、一緒に守衛所へ行けばいい」
ユニが瞬きをする。
「いいんですか?」
「ああ。こんなことがあった後だ。子供を一人で歩かせるわけにはいかない」
ユニは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「にゃん吉君も一緒でいいですか?」
「もちろん」
「ワン!」
「ただし」
父がにゃん吉君を見る。
「家の中を壊すなよ」
「大丈夫です」
ユニが答える。
「ワン!」
「……お前もだからな」
「ワン!」
ルナが吹き出した。
父も、つられるように笑った。
今日の恐怖が消えたわけではない。
それでも、今は家へ帰ることができる。
「帰ろう」
「はい」
「ワン」
ルナと父が歩き出し、その隣をユニが歩く。にゃん吉君は、ユニの頭の上へ戻っていた。
その日、ルナの家に、白銀の髪をした少女と、犬のような声で鳴く白くて丸い何かがやって来た。
ユニと、にゃん吉君だった。




