第1章 第1話 気付いた時には、そこにいた
魔法が使えない。
それは、この世界で生きるルナのそばに、ずっとあった欠落だった。
朝の鐘が鳴る。
まだ眠りの残る町へ、澄んだ音がゆっくりと広がっていく。
ルナは窓を開けた。ひんやりとした風が頬を撫で、白いカーテンがふわりと膨らむ。
眼下には、いつもと変わらない町の景色があった。
石畳の通りを荷馬車が進み、パン屋の前では焼きたてのパンが並べられている。少し離れた通りでは、冒険者らしい男たちがギルドへ向かっていた。
いつもと変わらない朝だった。
ルナは窓辺から離れ、机の上に置かれた教科書へ目を向けた。
魔法史、基礎魔法、算術、地理。
学校で学ぶことは、魔法だけではない。
だから、学校へ行きたくないと思ったことはなかった。
ただ。
魔法の授業だけは、少し苦手だった。
「……行こ」
制服の襟を整える。
鏡の中にいるのは、どこにでもいる少女だ。
魔法が使えない。
それ以外に、特別なところはない。
けれど、本を開いている時だけは、少し違った。
ページの向こうには、ルナの知らない世界がある。
王都より遠い国。見たことのない海。雪に閉ざされた山。名前も知らない町。そこで暮らす、会ったことのない人たち。
そんな話を読むたび、胸の奥が少しだけ騒いだ。
いつか、自分の目で見てみたい。
魔法が使えなくても。
特別な力がなくても。
自分の足で、町の外を歩いてみたい。
「ルナ、朝ごはんよ」
扉の向こうから母の声がした。
「今行く!」
ルナは慌てて部屋を出た。
*
「それでは、今日は基礎魔法の実習を行います」
教師の声とともに、生徒たちが杖を手に取った。
「焦らなくて構いません。魔力をゆっくりと手のひらへ集めてください」
教室のあちこちに、小さな魔法が生まれる。
赤い火、淡い水、そよ風。机の上からは、小さな石がふわりと浮かび上がった。
隣で灯った火の熱が、ルナの頬へ届く。机の上を通り抜けた風が、髪を揺らした。
ルナも杖を握った。
目を閉じ、息を吸う。
ゆっくりと吐きながら、教えられた通りに魔力を集める。
何度も繰り返してきた。
それでも。
手のひらにも、杖の先にも、何の変化もない。
「……また駄目か」
目を開ける。
周りには、まだ小さな魔法の光が残っていた。
「まあ、いつも通りじゃん」
隣の席から声がした。
からかっているわけではない。
もう、誰も驚かなくなっていた。
「うん。いつも通り」
ルナは苦笑する。
悔しくないと言えば、嘘になる。
自分も火を灯してみたい。
風を起こしてみたい。
目の前で誰かの魔法が生まれるたび、ほんの少し羨ましくなる。
けれど、できないことを考え続けても、魔法が生まれるわけではない。
ルナは杖を置き、教科書を開いた。
今の自分にできることをする。
それが、いつものことだった。
*
放課後。
家へ帰ると、居間の机に一通の手紙が置かれていた。
「……お姉ちゃんから?」
封筒には、王都の紋章が押されている。
ルナは椅子に腰掛け、封を開いた。
姉からの手紙は、いつも少し長い。
王都での仕事、最近見つけた店、町では買えないお菓子。
最後には決まって、ちゃんと食べているか、学校で無理をしていないかと書かれている。
「ほんと、心配性なんだから」
笑いながら読み進めていたルナの手が、途中で止まった。
王都の近くで、大きな騒ぎがあったらしい。
黒龍。
親の黒龍が巣を離れている間に、何者かが幼い黒龍を連れ去った。
戻ってきた黒龍は、子供を探して暴れ続けた。別の国からも騎士や上級魔法使いが派遣されたが、止めることはできなかったという。
そして、黒龍が王都近くまで迫った時。
一人の少女が現れた。
青い服。
白銀の髪。
エメラルドグリーンの瞳。
少女は、誰にも見つけられなかった幼い黒龍を捜し出し、親のもとへ連れていった。
黒龍は少女を警戒した。
けれど、幼い黒龍が鳴いた。
自分を助けてくれたのは、その少女だと伝えるように。
黒龍は少女を襲わなかった。
ただ一度、頭を垂れ、子供とともに去っていった。
手紙の最後には、姉らしい一言が添えられていた。
――王都には、変わった子がいるものね。
「……すごい」
ルナは手紙を見つめた。
黒龍を倒したわけではない。
奪われた子供を見つけて、親へ返した。
それだけで、誰にも止められなかった事件を終わらせた。
どんな人なのだろう。
きっと、とても強い人だ。
そして、自分の知らない場所を歩いている。
ルナは窓の外へ目を向けた。
夕暮れの空が広がっている。
「……私も、いつか」
口に出した途端、少しだけ恥ずかしくなった。
「ルナ?」
母が居間へ入ってくる。
「お姉ちゃんから?」
「うん。王都で黒龍が暴れたんだって」
「黒龍……?」
母の表情が曇る。
「怖い話ね」
「でも、助けた人がいるみたい」
「そう」
母はそれ以上、何も言わなかった。
ルナは手紙を畳む。
引き出しへしまう前に、もう一度だけ、その少女のことが書かれた部分を見た。
青い服。
白銀の髪。
エメラルドグリーンの瞳。
なぜか、その姿が心に残った。
*
翌日の放課後。
空は茜色に染まっていた。
ルナは町の中心を抜け、川沿いの道を歩いていた。
家へ帰るには、橋を渡る。
いつもの帰り道だった。
橋が見えてくる。
ルナは何気なく前を向き――足を止めた。
「……え?」
橋の欄干に、少女が座っていた。
いつからいたのだろう。
橋へ近づく途中では、確かに誰も見えなかった。
それなのに少女は、まるでずっとそこにいたかのように、川を眺めている。
青い服。
見慣れない旅装束。
夕陽を受けて淡く輝く、白銀の髪。
そして、その頭の上には。
「……猫?」
白くて、丸い生き物が乗っていた。
猫のようにも見えるが、猫にしては妙に丸い。
ルナはしばらく立ち尽くしていた。
旅人だろうか。
けれど、自分とそれほど年が離れているようには見えない。一人で旅をするには、幼すぎる気がした。
一歩、近づく。
少女が顔を上げた。
白銀の髪が、夕暮れの風にさらりと揺れる。
エメラルドグリーンの瞳が、ルナを捉えた。
「……」
ルナは立ち止まった。
少女は何も言わない。
ただ、少しだけ首を傾げる。
頭の上の白い生き物も、それに合わせて、ぽてっと揺れた。
「……こんにちは」
先に声をかけたのは、ルナだった。
「こんにちは」
少女が答える。
穏やかな声だった。
「あの……旅の人?」
「そうですね」
「やっぱり」
「でも、旅の人ではないかもしれません」
「……どっちなの?」
少女は真剣に考え始めた。
やがて、小さく首を傾げる。
「分かりません」
「分からないんだ……」
ルナは思わず笑った。
少女は笑わず、不思議そうにルナを見ている。
「この町には初めて来たの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「前に来たことがあるかもしれません」
「覚えてないの?」
「はい」
少女は欄干からゆっくりと降り、青い服の裾を指先で整えた。
その時。
頭の上の白い生き物が、ずるりと傾いた。
「あ」
落ちる。
そう思った時には、少女の手が伸びていた。
ぽすん。
白い生き物が、その手の中へ収まる。
「ワン」
「……え?」
少女は何事もなかったように、白い生き物を頭の上へ戻した。
「にゃん吉君です」
「……猫?」
「にゃん吉君です」
「でも今、犬みたいに……」
「ワン」
白い生き物が、もう一度鳴いた。
ルナは黙った。
「……犬なの?」
「分かりません」
「また?」
少女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
本当に、少しだけ。
「ねえ」
「はい」
「名前は?」
少女は一拍置いて答えた。
「ユニです」
「ユニちゃん」
「はい」
「私はルナ」
なぜ名乗ろうと思ったのか、自分でも分からなかった。
けれど、嫌な感じはしない。
ユニは小さく頷いた。
「ルナ」
「うん」
「いい名前ですね」
「……そう?」
「はい」
夕暮れの風が、二人の間を吹き抜ける。
川面が揺れ、町の向こうでは、一つ、また一つと明かりが灯り始めていた。
ルナは目の前の少女を見る。
青い服。
白銀の髪。
エメラルドグリーンの瞳。
昨日の手紙に書かれていた少女と、よく似ている。
胸の奥に、小さな疑問が浮かんだ。
けれど、すぐに消えた。
王都で黒龍の事件を終わらせたSランク冒険者が、こんな町の橋に、一人で座っているはずがない。
それに、目の前の少女はどう見ても幼かった。
「ユニちゃんは、どこから来たの?」
「遠いところです」
「どのくらい?」
「けっこう遠いです」
「それじゃ分からないよ」
「そうですか?」
「うん」
ユニは少し考えた。
「では、もっと遠いところです」
「余計に分からなくなった……」
ルナが笑う。
ユニも、ほんの少しだけ笑った。
橋へ向かう途中には、確かに誰もいなかった。
それなのに。
気付いた時には。
ユニは、もうそこにいた。




