第1章 第20話 測れない少女
森へ入ると、空気が変わった。
王都から続いていた街道の音は、もう聞こえない。代わりに葉が揺れる音、鳥の声、どこか遠くで水が流れる音がする。
「……」
ユニは、ゆっくりと辺りを見回した。
背の高い木々。その隙間から、細い光が地面まで届いている。
「綺麗ですね」
「そうですね」
エレナが答える。
「でも、あまり上ばかり見ていると転びますよ」
「はい」
「それと」
「?」
「薬草を探しに来たんですからね」
「そうでした」
「忘れてたんですか?」
「少し」
「……」
「ワン」
ユニたちは、森の中を進んでいく。
しばらくして、ユニが足を止めた。
「エレナさん」
「はい?」
「リュカ草って、どれですか?」
「……知らないんでしたね」
「はい」
エレナは、近くに生えていた草の前へしゃがんだ。
「ちょうどありますよ」
「これですか?」
「これは違います」
「……」
「こっちです」
その隣に生えている、細長い葉を持つ背の低い草を指す。
「葉の裏を見てください」
ユニもその場にしゃがみ、葉を一枚、そっと裏返した。
「白いです」
「そこが特徴です。表は普通の緑色ですが、裏側だけ白っぽいでしょう?」
「はい」
「似た草もありますから、色だけじゃなくて葉の形も見てください」
「なるほど」
ユニは、じっと草を見る。
「……」
「……」
エレナも待つ。
「覚えました」
「もう?」
「はい」
「本当に?」
ユニが、少し離れた場所を指した。
「あれもです」
エレナが見る。
「……そうですね」
「あっちにもあります」
「はい」
「その木の向こうにも」
「……」
エレナは少し遠くを見る。
確かにある。
「目、いいですね」
「はい」
「そういう問題なのかな……」
「ワン」
ユニたちは採取を始める。
根ごと抜かないように、必要な部分だけ。一つ、二つ。ユニは、教えられた通りに摘んでいく。
「これで一束ですか?」
「もう少しですね」
「分かりました」
にゃん吉君も、その隣で地面を見ている。
「……」
「にゃん吉君も探してるんですか?」
「ワン」
「見つけたら教えてくださいね」
「ワン」
エレナは少し笑った。
昨日、王宮で初めて会った時とは、ずいぶん印象が違う。
Sランク昇格特別試験の候補者。黒龍の一件。マグナスの試験。
そんな言葉ばかりを聞いていたから、もっと近寄りがたい人物なのかと思っていた。
実際は、知らない薬草を見て、しゃがみ込んでいる。見た目だけなら、まだ幼さの残る少女だ。
「……」
ただ、今朝のことを思い出す。
馬車で二日かかる距離。それを、半日もかけずに走ってきた。しかも、自分に合わせて速度を落としながら。
「エレナさん」
「はい?」
「ありました」
ユニが、リュカ草を見せる。
「これで十束です」
「……早いですね」
「いっぱいありました」
「そうですね」
ユニは、集めたリュカ草をまとめる。根や葉を傷めないように整えてから、何もない空間へ手を伸ばした。
十束のリュカ草が、その中へ消えていく。
「これで大丈夫です」
「はい。依頼は達成ですね」
「帰りますか?」
「そうしましょうか」
森の奥へ行く必要はない。これなら、何事もなく王都へ戻れる。
エレナは少しだけ安心した。
その時だった。
「……」
ユニが顔を上げた。
「どうしました?」
返事がない。森の奥を見ている。
「ユニさん?」
「何かいます」
エレナの表情が変わった。
「どこです?」
「あっちです」
ユニが指す。
木々の向こう。何も見えない。
エレナは意識を集中させた。
「……」
魔力を広げ、周囲を探る。
数秒。
そして。
「――!」
いた。
かなり離れている。それでも分かる。
大きい。
「ユニさん」
「はい」
「こちらへ」
エレナが、ユニの前へ出た。
「依頼書にあった魔獣かもしれません」
「そうですか」
「驚かないんですね」
「いましたので」
「……」
意味が分からない。だが、今はそれどころではない。
「森を出ます。戦う必要はありません」
「はい」
素直な返事。
エレナは少しだけ安心する。
ユニたちが来た道へ戻ろうとした、その瞬間。
森の奥から、鳥たちが一斉に飛び立った。
「……!」
地面が、わずかに震える。
何かがこちらへ近づいている。
エレナが杖を取り出した。
「来ます」
ユニがエレナを見る。
「戦うんですか?」
「向こうが見逃してくれれば、その必要はありません」
「そうですね」
「ただ――」
木々の向こうに、大きな影が一瞬だけ見えた。
「そのつもりは、なさそうです」
エレナが杖を構える。
「ユニさん。下がっていてください」
「分かりました」
ユニは、素直に数歩下がった。
「ワン」
にゃん吉君も、その隣にいる。
「……」
エレナは前だけを見る。
王宮魔術師として、マグナスの側で仕事を任されている。監視役として選ばれたのも、ただの偶然ではない。
近づいてくる気配を正確に捉える。
距離。
大きさ。
魔力。
まだ対処できる。
「――来る」
木々の間から、大きな影が飛び出した。
地面が揺れる。
現れたのは、四本の太い脚を持つ巨大な魔獣だった。
身体を覆っているのは毛ではない。古い木の幹のような、分厚い樹皮。頭から伸びた二本の角にも、蔦のようなものが絡みついている。
「グルルル……」
低い唸り声が、森の中に響いた。
「樹甲獣……」
エレナが呟く。
依頼書に書かれていた危険な魔獣。おそらく、これだ。
「ユニさん」
「はい」
「そのまま下がっていてください」
「分かりました」
樹甲獣が地面を蹴った。巨体が一気に加速する。
エレナは動かない。杖を構えたまま待つ。
距離が縮まる。
十歩。
五歩。
「――止まりなさい」
杖の先が淡く光った。
次の瞬間、地面からいくつもの土の壁が突き上がった。樹甲獣の進路を塞ぐ。
だが。
「グオオッ!」
止まらない。
一枚、二枚。巨体で壁を砕いていく。
それを見ても、エレナの表情は変わらなかった。
「やはり、硬いですね」
杖を小さく振る。
風が集まる。
目には見えない、細く鋭い風。それが樹甲獣の足元を走った。
「――!」
巨体が傾く。前脚が地面から離れた。
倒したのではない。足元の土だけを一瞬で削り取り、体勢を崩したのだ。
「今です」
エレナが杖を地面へ向ける。
土が動く。
今度は壁ではない。
太い岩の杭が斜めに突き上がり、樹甲獣の身体を横から弾き飛ばす。
轟音。
巨体が地面を転がった。
「……」
ユニは黙って見ている。
「ワン」
にゃん吉君も見ている。
樹甲獣が、ゆっくり立ち上がる。樹皮のような装甲には、ひびが入っていた。
「グルル……」
まだ戦うつもりらしい。
「……仕方ありませんね」
エレナが杖を持ち直した。
空気が変わる。
ユニの白銀の髪が、わずかに揺れた。
「――風牢」
風が樹甲獣の周囲を囲む。逃げ道を塞ぎ、巨体を押さえ込む。
「グオオオッ!」
暴れる。だが、動けない。
エレナが杖を横へ振った。
風が一気に強くなる。
樹甲獣の巨体が地面から浮いた。
そして、森の奥へ投げ飛ばされた。
木々の向こうから、大きな音が響く。
「……」
しばらく静寂が続いた。
エレナは魔力を広げる。
「逃げていきますね」
追わない。倒す必要もない。
依頼は魔獣討伐ではない。
「これで大丈夫です」
杖を下ろし、振り返る。
「お待たせしました」
「……」
ユニがエレナを見ていた。
「ユニさん?」
「すごいですね」
「え?」
「強いです」
「……ありがとうございます」
エレナは少しだけ困った顔をした。
「ですが、王宮ではこの程度で驚かれませんよ」
「そうなんですか?」
「少なくとも、マグナス様の近くにいれば」
「なるほど」
「それに私は、あなたの監視役ですから」
「はい」
「これくらいはできないと務まりません」
「……」
ユニが少し首を傾げた。
「どうしました?」
「監視できてますか?」
「……」
エレナが止まった。
「……それを本人が聞きます?」
「気になりました」
「……」
朝、王都を出た。
馬車なら二日。それを半日もかけずに移動した。しかも、ユニは自分に合わせて速度を落としていた。
「……今のところは」
「そうですか」
「今のところ、です」
「分かりました」
「ワン」
なぜ、監視されている本人が満足そうなのだろう。
「それより」
エレナはユニを見る。
「さっきの魔獣。いつ気づいたんですか?」
「?」
「私より先に気づいていましたよね」
「はい」
「どのくらい離れていた時です?」
「分かりません」
「……索敵魔法ですか?」
「違います」
「では、何か別の魔法?」
「使ってません」
「……」
エレナの目が少し細くなる。
「魔力を探った?」
「いいえ」
「音?」
「いいえ」
「では、どうやって?」
ユニは森の奥を見る。
「いたので」
「……」
また、それだ。
「いたから分かった?」
「はい」
「……」
エレナは何かを言おうとして、やめた。
分からない。
昨日から、ずっとそうだ。
エレナは、もう一度ユニを見る。
「ユニさん」
「はい?」
「少しだけ、いいですか?」
「はい」
「あなたの魔力を探っても?」
「どうぞ」
「……いいんですか?」
「はい」
あまりにもあっさりしていた。
エレナは少し戸惑いながら、意識を集中する。
目の前にいる白銀の髪の少女。そこへ慎重に、魔力感知を向ける。
「……」
数秒。
「……?」
さらに意識を研ぎ澄ませる。
それでも分からない。
魔力は誰もが持っている。多い者もいれば、少ない者もいる。熟練した魔術師なら、相手が持つ魔力のおおよその大きさを感じ取ることもできる。
エレナなら、なおさらだった。
けれど、ユニだけは違う。
少ない。そういうことではない。
大きすぎて測れない。そう感じるわけでもない。
隠しているようにも思えない。
ただ、分からない。
目の前にいるのに、何を基準に測ればいいのかすら掴めなかった。
「……どうなってるの」
思わず声に出た。
「分かりませんでした?」
「……はい」
「そうですか」
「そうですか、じゃないですよ」
「?」
エレナは、もう一度ユニを見る。
「王都へ戻ったら、一度ちゃんと測ってみませんか?」
「魔力をですか?」
「はい。ギルドに測定用の魔道具があります」
「いいですよ」
「……いいんですか?」
「はい」
「気にならないんですか?」
「測ったことないので」
「だから気になるんじゃないですか?」
「そうなんですか?」
「……たぶん」
「ワン」
エレナは小さく息を吐いた。
黒龍の一件。
Sランク昇格特別試験。
黒いマナ。
そして六日後、マグナスがこの少女と向かい合う。
今までは、マグナスが何を確かめたいのか、完全には分かっていなかった。
でも、ほんの少しだけ分かった気がした。
「帰りましょうか」
「はい」
「今からなら――」
言いかけて、エレナは止まった。
普通なら何日かかる。
そんな計算に、もう意味はない。
「……今日中には戻れますよね」
「はい」
「ですよね」
「ワン」
ユニたちは、森の出口へ向かって歩き出した。
*
少し進んだところで、ユニが足を止めた。
「?」
エレナが振り返る。
「どうしました?」
ユニは道の脇を見ていた。
そこには、小さな花が咲いている。
「……」
しゃがむ。
「ユニさん?」
「綺麗です」
小さな、名前も知らない花。
ユニは、しばらく眺めていた。
摘まない。
触らない。
ただ、見る。
「……」
エレナは、そんなユニを見る。
さっきまで、自分の常識では理解できないことばかりだった。
なのに今は、道端の花を見ている。
「行きますか?」
「はい」
ユニが立ち上がる。
「ワン」
ユニたちは、再び歩き始めた。
エレナは、その小さな背中を見ながら、ふと思う。
私は、この子の何を監視しているんだろう。




