第1章 第17話 王宮
王都の門をくぐってから、ルナは何度足を止めそうになったか分からなかった。
広い。
人が多い。
それだけではない。
道の両側には、三階、四階と続く建物が並んでいる。一階には店があり、開け放たれた扉から焼いた肉の匂いが流れてきた。
少し先では、色鮮やかな果物が店先いっぱいに積まれている。
聞いたことのない楽器を鳴らす人。大きな荷物を抱えて走る人。獣の耳を持つ人も、杖を背負った魔術師も、当たり前のように人混みの中を歩いていた。
「……」
見たい。
あっちも。
こっちも。
でも、今は衛兵についていかなければならない。
ルナは通り過ぎていく店を振り返りながら歩いた。
「あとで来られます」
前を歩いていたユニが言った。
「……分かった?」
「はい」
「そんなに見てたかな」
「かなり」
「……そっか」
「ワン」
ルナは少し恥ずかしくなって、前を向いた。
その先、建物の隙間から白い王城が見えていた。
*
王城が近づくにつれて、街の様子は少しずつ変わっていった。
賑やかな店が減り、道幅がさらに広くなる。石畳も綺麗に整えられていた。
そして、目の前にもう一つの門が現れた。
その向こうに、王城がある。
「……ここに入るの?」
「そうだ」
案内していた衛兵が答えた。
「私も一緒でいいんですか?」
「話があるのはユニ殿だが、同行者も一緒に来て構わないと聞いている」
「……」
ルナは自分の服を見る。
旅をしてきた服。靴には、まだ少し土が残っている。
「私、このままで大丈夫かな」
「大丈夫です」
ユニが答えた。
「ユニちゃんは気にならないの?」
「はい」
「……だよね」
門を通る。
広い庭。綺麗に刈り込まれた木々。陽の光を反射する噴水。
その先に、巨大な扉があった。
ルナは無意識に背筋を伸ばした。
*
城の中は、外の王都とはまるで音が違った。
静かだった。
高い天井。磨かれた床。壁には、ルナより大きな絵が飾られている。
歩くたび、靴の音が小さく響く。
ルナは、なるべく周りを見すぎないように歩いた。
でも、気になる。
ちらりと右を見る。
大きな窓。
ちらりと左を見る。
立派な鎧。
「ルナ」
「なに?」
「首が忙しいです」
「見てないよ」
「見てます」
「……ちょっとだけ」
「ワン」
にゃん吉君も、ユニの頭の上から左右を見ていた。
「にゃん吉君も見てるじゃん」
「ワン」
「観光です」
「私もだよ」
「そうでしたか」
少しだけ緊張がほどけた。
そのとき、前を歩いていた衛兵が止まった。
「こちらです」
目の前に大きな扉がある。
衛兵が、扉の横に立つ兵士へ声をかけた。
「ユニ・N・スターチス殿をお連れした」
兵士がユニを見る。
その頭を見る。
「……」
「ワン」
「……確認した」
扉が開いた。
*
中には、一人の老人がいた。
窓際に立ち、背中を向けている。
ルナたちが入ると、老人はゆっくりと振り返った。
白髪。深く刻まれた皺。年齢は高く見える。
けれど、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
老人の目がユニを捉える。
「……貴様が、ユニ・N・スターチスか」
「はい」
「城門では随分と衛兵を困らせたそうじゃな」
「質問に答えました」
「素直に答えんから困ったんじゃろうが」
「そうなんですか?」
「すでに報告は受けておる!」
「早いですね」
「王都じゃぞ!」
老人は一度息を吐いた。
「……マグナス・ヴァルハイトじゃ」
「ユニ・N・スターチスです」
「知っとるわ!」
ルナは笑っていいのか分からなかった。
*
少しして、空気が変わった。
マグナスがユニを見る。
さっきまでとは目が違った。
「十四歳と聞いた」
「はい」
「黒龍の一件は知っておる」
「はい」
「それ以前の報告も読んだ」
「はい」
「それでも儂は、貴様がSランクに相応しいとはまだ認めておらん」
ルナの表情から、少しだけ笑みが消えた。
ユニは変わらない。
「そうですか」
「……それだけか?」
「はい」
「腹が立たんのか」
「特には」
「Sランクに相応しくないと言われておるんじゃぞ」
「はい」
「……」
マグナスがわずかに眉を寄せる。
「貴様にとって、Sランクとは何じゃ」
ユニは少し考えた。
「ランクです」
「それは見れば分かる!」
「そうですか」
マグナスのこめかみが少しだけ動いた。
だが、怒鳴らなかった。
「なら聞き方を変える。貴様は、自分がSランクに相応しいと思っておるか」
ルナはユニを見る。
少しだけ、答えが気になった。
ユニはしばらく黙っていた。
そして。
「分かりません」
そう答えた。
「……何?」
「決めるのは、私ではないので」
「ならば、なぜ特別試験を受ける」
「断る理由がなかったので」
「名誉にも興味がないと?」
「はい」
「……」
マグナスはしばらく何も言わなかった。
そして、一歩ユニへ近づいた。
「ならば」
空気がわずかに揺れた。
「儂が確かめる」
ルナの身体が反射的に強張った。
何かをされたわけではない。
老人は、ただ立っているだけ。
それなのに、さっきまでとはまるで違って見えた。
部屋の中が少し狭くなったような、そんな感覚。
ルナは息をするのを忘れそうになった。
マグナスの周囲に何かがある。
魔力。
そう気づくまでに、少し時間がかかった。
今まで見た魔術師とは、あまりにも違う。
大きい。
ただ、大きいだけではない。
静かだった。
荒れていない。溢れてもいない。
巨大な何かが完全に押さえ込まれている。
そんな感覚だった。
ルナが無意識に一歩下がりそうになる。
そのとき、ユニがルナの少し前へ出た。
ほんの半歩。
それだけだった。
マグナスの目がわずかに動く。
そして初めて、ユニを探った。
「……?」
眉が寄る。
もう一度。
「……なんじゃ、これは」
マグナスの顔から苛立ちが消えた。
代わりに、魔術師の顔になった。
「魔力が……」
ある。
ない。
そのどちらでもない。
分からない。
目の前にいる。声も聞こえる。姿も見える。
なのに、魔術師として何一つ掴めない。
「……なるほど」
マグナスが呟く。
「ガルドの奴が、ああ言うわけじゃ」
「ガルド?」
ユニが首を傾げる。
「貴様の推薦人になってもよいと言っておる馬鹿じゃ」
「そうなんですか」
「驚かんのか」
「なんと!」
「それはもうよい!」
「はい」
マグナスは大きく息を吐いた。
だが、目だけはユニから離れていなかった。
*
「一週間後」
マグナスが言った。
「王都の中央闘技場へ来い」
「闘技場?」
「そこで、貴様がSランクに相応しいか確かめる」
ルナが思わず口を開いた。
「戦うってことですか?」
マグナスがルナを見る。
「ああ」
「でも……」
ルナは老人を見る。
さっき感じた魔力を思い出す。
ユニが強いことは知っている。
それでも、この老人も普通ではない。
「これは喧嘩ではない」
マグナスが言った。
「貴様を十三人目として認められるか、誰もが納得できる形で確かめる。そのための特別試験じゃ」
「試験……」
「儂も、かつてSランクだった」
ルナの目が少し大きくなる。
「え?」
「知らんかったか」
「……はい」
「そうか」
マグナスはもう一度ユニを見る。
「だからこそ、Sの名を軽くするつもりはない」
ユニは黙って聞いている。
「逃げるなら今のうちじゃぞ」
「逃げません」
即答だった。
「ほう」
「逃げる理由がないので」
「……怖くないのか?」
「何がですか?」
「……」
「……」
沈黙。
ユニが両手を頬へ添えた。
「きゃー」
棒読みだった。
「……ふざけおって」
「ふざけてません」
「なお悪いわ!」
「ワン」
ルナは俯いた。
笑わないようにするのが少し大変だった。
「……もうよい。一週間後じゃ」
「はい」
「逃げるなよ」
「はい」
マグナスは額に手を当てた。
*
「……ところで」
マグナスの視線が、ユニからその隣へ移った。
ルナだった。
「娘」
「は、はい!」
突然呼ばれ、ルナの背筋が伸びる。
マグナスはルナの姿を見た。
旅の汚れが残る服。土のついた靴。
王都へ着いてから、まだ休んでもいないのだろう。
「長旅だったのか」
「はい」
「今日、王都へ着いたばかりじゃな?」
「はい」
マグナスが小さく息を吐いた。
「……そうか」
先ほどまでより、少しだけ声が柔らかくなる。
「着いたばかりのところを呼びつけて悪かったな」
「え……」
ルナは少し驚いた。
「一週間後と決めたのは儂じゃ。それまで王都に留まってもらうことになる」
マグナスは近くに控えていた兵士を見る。
「二人が泊まれる部屋を手配しておけ。食事も付けてやれ」
「承知しました」
「えっ、でも……」
「気にするな」
マグナスはルナを見る。
「こちらの都合で一週間も足止めするんじゃ。そのくらいは出させろ」
「……ありがとうございます」
ルナは頭を下げた。
「うむ」
「ありがとうございます」
ユニもぺこりと頭を下げる。
マグナスが少しだけ目を細めた。
「……貴様は随分と平然としておるな」
「アワアワです」
「どこがじゃ!」
「心です」
「見えんわ!」
「はい」
「もうええ!」
「ワン」
ルナはまた少し笑った。
*
今度こそ、話は終わった。
ルナたちが扉へ向かう。
そのときだった。
「ワン」
にゃん吉君が、ユニの頭からふわりと降りた。
「……なんじゃ?」
マグナスの前まで行き、小さな前足を差し出す。
その上に、黒いものが浮かんでいた。
マグナスの目が鋭くなる。
「……これは」
一目で分かった。
「セレナで確認された、黒いマナか」
「はい」
ユニが答えた。
「にゃん吉君が回収しました」
「回収した……?」
「はい」
マグナスは黒いマナへ目を落とす。
報告は、すでに届いている。
森の生き物たちが一斉に逃げ出したこと。
木々や草が黒く変色したこと。
地下へ黒いマナが広がっていたこと。
そして、発生した原因は分かっていないこと。
王都でも、調査を続けるべきものとして扱われていた。
「これを、どうやって持ち帰った」
「にゃん吉君が」
「ワン」
「……」
マグナスがにゃん吉君を見る。
にゃん吉君は黒いマナを差し出したまま、もう一度鳴いた。
「ワン」
「……儂にか?」
「よかったら、だそうです」
「…………」
マグナスはしばらく黒いマナを見つめた。
そして慎重に受け取る。
「……もらっておこう」
「ワン」
にゃん吉君はそれで満足したらしい。
ふわりと浮かび、いつもの場所へ戻った。
ユニの頭の上。
「では」
「はい」
ユニが扉へ向かう。
ルナもそのあとに続いた。
扉が閉まる。
「……」
部屋に残ったマグナスは、手元を見る。
黒いマナ。
セレナから届いた報告書では何度も読んだ。
だが、現物が今、自分の手にある。
それを、あの白い生き物は、まるで旅先で拾ったものでも渡すように置いていった。
「……なるほど」
マグナスは閉じた扉を見る。
そして、もう一度手の中の黒いマナへ目を落とした。
「面白い」
その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。




