第1章 第16話 王都
いつからだろう。
すれ違う荷馬車の数が増えていた。
大きな木箱をいくつも積んだもの。布をかけた荷台から、野菜の葉が覗いているもの。何人もの旅人を乗せたもの。
車輪が土を踏む音が、途切れず聞こえてくる。
湖をあとにしてから、ルナたちは王都へ続く街道を歩いていた。
道も少しずつ変わっている。
最初は二人並んで歩けば十分だった道幅が、今では向かいから来た荷馬車とすれ違っても余裕がある。地面も固く踏みならされ、深い轍が何本も続いていた。
そして何より、人が増えた。
「……」
ルナは、すれ違う人たちをつい目で追ってしまう。
大きな荷物を背負った商人。剣を腰に下げた冒険者。杖を持った旅人。見たことのない服を着た人。
聞き慣れない言葉で話している人たちもいた。
その中に、頭から獣の耳を生やした女性がいた。
「……!」
思わず、ルナの視線がその耳へ向く。
女性は旅装をしていた。腰には短い剣。背中には小さな荷物。
そして、その隣を歩いているものを見て、ルナはもう一度目を見開いた。
四本脚の大きな生き物だった。
黒い毛に覆われた身体は、ルナの腰ほどの高さまである。
一瞬、魔物だと思った。
けれど、首には革の首輪が巻かれている。女性の少し後ろを、静かについて歩いていた。
見ていると、女性と目が合った。
「あっ」
見すぎた。
ルナが慌てて視線を逸らそうとすると、女性は気にした様子もなく小さく笑った。
ルナも、少し遅れて頭を下げる。
女性と生き物は、そのまますれ違っていった。
ルナは少しだけ振り返った。
遠ざかっていく二つの背中。
周りを歩く人たちは、誰も気にしていない。
それが、ここでは普通なのだ。
知らない人がいる。
知らない生き物がいる。
知らない言葉が聞こえる。
自分が知らなかったものが、当たり前のように同じ道を歩いている。
ルナは前を向いた。
なんだか、少しだけ胸が高鳴った。
まだ、王都にすら着いていないのに。
*
街道は、やがて緩やかな坂へ差しかかった。
前を歩いていた人たちが、一人、また一人と坂の向こうへ姿を消していく。
ルナたちも、そのあとを歩いた。
一歩。
また一歩。
坂を上っていく。
風が少し強くなった。髪が頬にかかり、ルナは手で押さえる。
そして、坂を上りきった。
「……あ」
足が止まった。
遠く、街道の先に巨大なものが見えた。
最初は、山の一部かと思った。
けれど、違う。
石で造られた壁が、地面を横切るようにどこまでも続いている。
高い城壁。
その向こうから、いくつもの塔や屋根が覗いていた。
さらに奥には、ひときわ高い建物がある。
白い壁。
いくつもの尖塔。
風を受け、高い場所で旗が揺れている。
王城。
その城壁へ向かって、何本もの道が集まっていた。
人が歩いている。
馬が走っている。
荷馬車が列を作っている。
遠くからでは、一人一人の姿が小さく見えるほどだった。
「……あれ」
ルナは、ようやく声を出した。
「あれ、全部?」
「はい」
「全部……王都?」
「はい」
ユニが答える。
それだけだった。
ルナはしばらく動けなかった。
大きい。
そう思った。
でも、その言葉だけでは足りない気がした。
王都という名前は、ずっと前から知っていた。
本にも載っていた。学校でも習った。地図にも大きく書かれている。
そして、姉から届く手紙にも、何度も王都のことが書かれていた。
仕事のこと。
街で見つけた店のこと。
美味しかったお菓子のこと。
忙しかった日のこと。
ルナは手紙を読むたび、頭の中で王都を想像していた。
でも、こんな景色ではなかった。
想像できていなかったのだ。
あの壁の向こうで、姉は毎朝起きて、仕事へ行って、ご飯を食べて、眠って。
時々、自分への手紙を書いていた。
「……お姉ちゃん」
小さく、いつもの呼び方が口から出た。
会える。
そう思うと、急に王都がただの巨大な街ではなくなった。
ルナは自分の靴を見る。
少し汚れている。
村を出たときは、もっと綺麗だった。
この靴で歩いてきた。
村を出て。
街へ行って。
森を歩いた。
怖い思いもした。
知らないものを見た。
湖では、地図の中にしかなかった青を自分の目で見た。
そして今、地図の上にあった王都が目の前にある。
誰かに連れてきてもらったわけじゃない。
自分で、ここまで歩いてきた。
ルナは少しだけ唇を結んだ。
胸の奥にあるものを、うまく言葉にはできなかった。
だから、ただもう一度王都を見た。
「……行こう」
「はい」
「ワン」
ルナは坂を下り始めた。
*
近づくほど、王都は大きくなった。
いや、違う。
最初から、この大きさだった。
自分がようやく、その大きさを感じられる場所まで来ただけだ。
城壁を見上げる。
「……高い」
積み上げられた石が、ずっと上まで続いている。壁の上には、槍を持った兵士の姿があった。
大きな門の前には、いくつもの列ができている。
商人。
旅人。
冒険者。
荷馬車。
先ほどとは別の獣人らしい人の姿もある。その足元では、小さな角の生えた生き物が主人について歩いていた。
人の声。
馬の蹄。
荷車の軋む音。
衛兵の呼び声。
いくつもの音が、一度に耳へ入ってくる。
湖では、風の音を聞いていた。鳥の声を聞いていた。
ここでは、人が作る音が絶えず流れている。
ルナは少し圧倒されながら、列の前を見る。
もうすぐ、自分たちの番だった。
*
「次!」
ルナたちは前へ進んだ。
「身分証を――」
衛兵の声が止まった。
「……ん?」
ルナを見る。
ユニを見る。
その頭の上を見る。
「ワン」
衛兵は手元の紙を確認し、もう一度ユニを見た。
「……お前、ユニ・N・スターチスか?」
「質問によります」
「名前を聞いてるだけだ!」
「それなら、はい」
「最初からそう答えろ!」
ルナの口元が緩む。
衛兵は紙とユニを見比べた。
「白銀の髪」
「はい」
「青い服」
「はい」
「小柄な少女」
「はい」
「頭の上に白い謎の生物」
「ワン」
「名前は、にゃん吉君」
「ワン」
「……間違いないな」
「そうですか」
「お前が認めたんだろ!」
今度は、ルナも小さく笑った。
「王宮から通達を受けている。ユニ・N・スターチスを確認したら、王宮へ知らせろとな」
「そうなんですか?」
「ああ。知らなかったのか?」
「はい」
「……自分のことだぞ」
「今、知りました」
「そりゃ大変!」
「お前のことだよ!」
「ワン」
ルナは、もう我慢できなかった。
*
「まったく……」
衛兵は疲れたように額へ手を当てた。
「とにかく、王宮からあなたに話があるそうだ」
「話?」
「ああ。こちらから案内する」
「分かりました」
「……随分あっさりしてるな」
「行けば分かります」
「まあ、そうだが……」
衛兵が門の向こうへ歩き出す。
「行きます」
「ワン」
ユニとにゃん吉君が、そのあとへ続いた。
ルナは、すぐには動かなかった。
門の向こうには、初めて見る王都の街が広がっている。
たくさんの建物。
行き交う人々。
遠くに見える王城。
そして、このどこかに姉がいる。
本当なら、まず姉に会いに行くつもりだった。
やっと、ここまで来たのだから。
ルナは、ほんの少しだけ名残惜しそうに街の奥を見る。
「……先に、そっちかぁ」
「はい」
ユニが振り返る。
ルナは、もう一度だけ王都の街を見た。
姉は、ここにいる。
「……うん」
小さく頷き、ルナも衛兵のあとを歩き出した。




