第1章 第14話 地図の青
街道を外れてから、人とすれ違うことがほとんどなくなった。
道は少しずつ細くなり、両側には背の高い木々が続いている。枝葉の隙間から落ちる日の光が、歩くたびに足元を流れていった。
「こっちで合ってるよね」
ルナは地図を開く。
「はい」
「よかった」
地図を畳み、また歩き出す。
王都へ向かう街道から外れて、もう随分歩いた。自分で決めたこととはいえ、荷物を背負って歩き続ければ、やっぱり疲れる。
「湖って、まだ?」
「まだです」
「あとどれくらい?」
「歩けば着きます」
「それは知ってるよ」
「そうですか」
「そうなの」
「ワン」
頭の上から聞こえた声に、ルナは少し笑った。
「にゃん吉君は楽そうでいいなぁ」
「ワン」
「否定しないんだ」
「ワン」
ルナたちは、木々の間を歩いていった。
*
しばらくして、ルナは足を止めた。
「……ん?」
風が少し変わった。
木々の間を抜けてきた風が、頬に触れる。さっきまでより少しだけ冷たく、どこか湿っている。
ルナは顔を上げた。
木々の向こう。遠くに、青いものが見えた。
「……あ」
足が自然と速くなる。
一歩。また一歩。
木々の間を抜ける。
視界を塞いでいた枝葉が途切れ、空が一気に広くなった。
そして。
ルナは立ち止まった。
*
目の前いっぱいに、水が広がっていた。
「……わぁ」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
向こう岸は遠い。湖を囲む山々が、薄い青の向こうに霞んでいる。
空には大きな白い雲が浮かび、同じ雲が湖の中にも浮かんでいた。
風が渡るたび、水面に細かな波が生まれる。映っていた空と雲が、ゆっくりと形を崩していく。
陽の光が波の一つ一つに触れ、細かな光となって遠くまで続いていた。
岸辺には、白や灰色の丸い石が並んでいる。透き通った浅瀬の底では、細い水草が流れに合わせて揺れていた。
少し離れた水面には、何羽もの水鳥が浮かんでいる。
一羽が飛び立った。
続いて、もう一羽。
羽が水面をかすめるたび、細い波紋が広がっていく。
聞こえるのは、風の音。鳥の声。そして、小さな波が岸へ届く音。
ルナは、ただ立っていた。
地図では、青く塗られていただけだった。
そこに風が吹いている。
鳥が飛んでいる。
水が揺れている。
ずっと遠くまで、景色が続いている。
「……すごい」
やっと、それだけが口から出た。
「はい」
隣でユニが答えた。
ルナは湖を見たまま、少し笑った。
*
岸辺まで降りる。
近くで見ると、水は思っていた以上に澄んでいた。浅瀬の底にある小石が、揺れる水越しにはっきり見える。
ルナはしゃがみ込み、手を伸ばした。
指先が水に触れる。
「冷たっ」
思わず手を引っ込める。
ユニも隣にしゃがみ、水へ指先を入れた。
「冷たいです」
「でしょ?」
「はい」
ルナは笑った。
なぜだか、それだけのことが楽しかった。
「にゃん吉君も触る?」
「ワン」
「触る?」
「ワン」
「触らない?」
「ワン」
「……どっち?」
「ワン」
「分かんないなぁ」
もう一度、今度はゆっくりと手を水へ入れた。
冷たい。
でも、今度はすぐには引っ込めなかった。
指の間を水が流れていく。
両手ですくうと、手のひらの中に空の青まで一緒に入ったように見えた。
けれど、指を開けば全部湖へ戻っていった。
*
ルナたちは湖のそばを歩いた。
急ぐ理由はなかった。
ルナは何度も立ち止まった。丸い石を拾ったり、水辺に残された鳥の足跡を見つけたり、浅瀬を泳ぐ小さな魚の影を追ったりした。
風が強く吹けば、水面の色が変わる。雲が陽を隠せば、さっきまで光っていた場所が静かに青へ戻っていく。
同じところを見ているはずなのに、少し目を離すだけで湖は違う顔を見せた。
「あ」
ルナがしゃがむ。
一つだけ、薄い青色をした石があった。
拾い上げて陽にかざすと、少しだけ光を通した。
「綺麗」
「はい」
「持っていこうかな」
手のひらの上で、ころりと転がす。
旅の思い出に、鞄へ入れてしまおうかと思った。
けれど、ルナはもう一度湖を見た。
そして、石を元の場所へ戻した。
「やっぱり、いいや」
「はい」
「……聞かないの?」
「何をですか?」
「なんで戻したのか」
「聞いてほしいですか?」
「ううん」
「では、聞きません」
「……そっか」
ルナは立ち上がった。
青い石は元いた場所で、浅い水に濡れて光っていた。
*
夕方。
同じ湖なのに、昼とはまるで違って見えた。
空が少しずつ橙色に染まっていく。遠くの山も湖も、その色を静かに受けていた。
昼間、青く光っていた水面には、夕日の道が伸びている。
風が弱くなり、波も昼より穏やかになった。遠くから、水鳥たちの声が聞こえる。
ルナは岸辺に座り、膝を抱えて湖を見ていた。
隣にはユニ。その頭の上には、いつものようににゃん吉君がいる。
「……昼と全然違うね」
「はい」
「同じ湖なのに」
「はい」
ルナはしばらく黙っていた。
ここへ来るために、王都へ向かう道を外れた。歩く時間も増えた。疲れた。明日から、また歩かなければならない。
それでも、遠回りしたとは思わなかった。
村にいた頃。
本を開けば、知らない土地の名前があった。地図を開けば、知らない場所が描かれていた。
遠くにあるものを、ただ眺めていた。
でも、今は違う。
自分で歩いて、ここまで来た。
ルナは湖へ視線を戻す。
夕日に照らされた水面は、遠くへ行くほど空との境目が曖昧になっていた。
どこまでが湖で、どこからが空なのか。
少しだけ分からなくなる。
「……来てよかった」
「はい」
ユニはそれだけ答えた。
「ワン」
ルナは笑う。
「にゃん吉君も?」
「ワン」
「そっか」
夕日が少しずつ山の向こうへ沈んでいく。
ルナたちの前で、湖は橙色から薄い紫へ、そしてゆっくりと夜の青へ変わっていった。
*
翌朝。
湖には薄い霧が浮かんでいた。
昨日の青とも、夕暮れの橙とも違う。朝の光の中で、水面が静かに揺れている。
ルナは荷物を背負い、最後にもう一度だけ振り返った。
地図の中では、ただ青く塗られていただけの場所。
でも、もうルナにとっては違う。
水の冷たさを知っている。
風の音を知っている。
夕日に染まる色を知っている。
「行こう」
「はい」
「ワン」
ルナたちは歩き出した。
ルナは、もう振り返らなかった。




