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願いを魔法に  作者: 由吉
六章

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第6章 第12話 看板の残る宿

 手帳に写した宿の名前は、通りの案内板にはなかった。


 ルナは角の店で尋ねた。


 魚を並べていた女性が、濡れた手を前掛けで拭く。


「それなら、二本向こうだよ。青い扉のところ」


「まだ、あるんですね」


「あるよ。看板は下ろしてるけどね」


 教えられた通りへ入ると、木箱を抱えた人とすれ違った。


 青い扉は開いていた。


 その脇に、横長の板が立てかけられている。端の塗料は剥がれ、文字の溝に砂が入り込んでいた。


 ルナは手帳と見比べた。


 同じ名前だった。


「あの。泊まれますか?」


 中へ声をかけると、卓を拭いていた女性が振り返った。


「二人?」


「はい。あと、この子も」


 にゃん吉君がルナの肩の横から顔を出した。


 女性は少し目を丸くしたあと、布巾を置いた。


「部屋はあるよ。散らかしていて、悪いね」


 壁際には、食器を詰めた籠が並んでいた。椅子が二脚、脚を上にして卓へ載せられている。


「お休みするところだったんですか?」


「私がね」


 奥から、別の声がした。


 白髪の女性が、小さな鍋を両手で運んできた。先ほどの女性と、目元がよく似ている。


「明日からは、この子の宿になるんだよ」


「前から、ほとんど私がやってたでしょう」


「だから、もう任せられるんじゃないか」


 白髪の女性は鍋を台へ置き、腰に手を当てた。


 娘の方が、ルナへ向き直った。


「母が荷物を片づけていてね。夕食は煮込みだけになるけど、それでもよければ」


「はい。お願いします」


 ユニが隣で頷いた。


 ルナは、長杖を持ち替えて中へ入った。


     *


 部屋へ荷物を置いて下りると、食堂の椅子は元へ戻されていた。


 窓際の卓に、器が二つ並んでいる。


 煮込みには、白い魚と、薄く切った根菜が入っていた。匙で触れると、魚の身がほぐれた。


 ルナはひと口食べた。


 温かさが喉を通り、駅から歩いて冷えた身体へ広がった。


「おいしいです」


「それはよかった」


 白髪の女性は、近くの椅子へ座った。


 膝には、畳みかけの布が載っている。


「その名前、どこで聞いたんだい?」


「古い記録で読んだんです。ここに泊まった人が、北の岬へ行ったと書いていて」


 ルナは手帳を開き、写した名前と日付を見せた。


 女性は身を寄せた。


「これは、私が嫁いでくる前だね。夫の父親が、やっていた頃だ」


「そんなに前から」


「建物は、一度直してるよ。昔は二階の部屋も、もっと狭かった」


 女性は天井へ目を向けた。


「泊まった人のことまでは、分からないねえ」


「はい」


 ルナは手帳へ目を戻した。


 紙の中にあった宿の名前が、今は自分の食べている煮込みと、椅子と、青い扉につながっていた。


「北の岬には、今も行けますか?」


「上の道は通れるよ。ただ、先まで行くなら、朝から出た方がいい。途中に店はないから」


 厨房から娘が顔を出した。


「下へ入るつもり?」


「下?」


「岩壁の階段。ダンジョンへ行く人は、あそこを使うの」


 ルナは匙を止めた。


 海へ下りるのではなく、岬の先へ進む。


 記録にあった言葉が浮かんだ。


「岬に、ダンジョンがあるんですか?」


「ええ。私は入口までしか行ったことがないけど」


 娘は厨房から出てきた。


「上から海を見て帰る人もいるから、どちらかと思って」


「まだ、決めていません。まず、岬を見たいんです」


「それなら、途中の分かれ道で海側へ。石を積んだ古い小屋が見えたら、その先よ」


 ルナは頷いた。


 すぐに次の質問をしようとして、器へ目を落とした。


 煮込みからは、まだ湯気が上がっていた。


「……食べ終わってから、道を教えてもらってもいいですか?」


「もちろん」


 娘は空いた籠を抱え直した。


「冷めないうちに、どうぞ」


     *


 夕食のあと、ルナは器を台へ運んだ。


 厨房では、娘が鍋の中を見ていた。


「母さん。明日の分は、もう刻まなくていいからね」


「少しだけだよ」


「明日は出かけるんでしょう」


 白髪の女性の前には、洗った根菜が二つ置かれていた。


 女性はしばらくそれを見たあと、包丁を台へ置いた。


「そうだったね」


 ルナは器を置き、女性を見た。


「どこかへ、行くんですか?」


「妹のところ。海から離れた町なんだ」


 女性は手を拭いた。


「庭があるから、好きなものを植えていいって。まだ、何を植えるかも決めてないけどね」


「帰ってきてもいいんだから」


 娘が言った。


「分かってるよ」


「部屋は、空けておくから」


「お客さんが来たら、使いなさい」


 娘は返事をせず、鍋の蓋を閉めた。


 ルナは、二人の間に置かれた根菜を見た。


 翌朝になれば、ここに立つ人が一人減る。


 けれど、宿は明日も開くのだ。


 外で、木の擦れる音がした。


 娘が顔を上げる。


「あ、看板」


 扉の前へ出ると、通りの男性が、下ろしてあった板を持ち上げていた。


「金具は替えたよ。今なら掛けられる」


「ありがとうございます。そっち、持ちます」


 娘が外へ出た。


 ルナも扉へ手を掛けた。板を通す間、閉まらないように押さえる。


 看板の裏には、新しい木が添えられていた。


 表の文字は、そのままだった。


「名前は、変えないんですか?」


 ルナが尋ねると、娘は板を見上げた。


「変えようかとも思ったんだけどね」


 男性が踏み台へ上がり、金具に板を掛ける。


「この名前で戻ってくる人もいるから」


 娘は少し離れて、傾きを見た。


「右を、もう少しだけ」


 看板が動いた。


 白髪の女性も、扉のそばまで来ていた。


「これでいいかい」


 男性が尋ねる。


 娘が頷いた。


「はい。これで」


 ルナは手を離した。


 青い扉の上に、手帳と同じ名前が戻っていた。


     *


 部屋へ戻ると、ユニが窓を少し開けた。


 潮の匂いと、下の通りで話す声が入ってくる。


 ルナは寝台の端へ座った。


「宿がなくなったのかと思った」


「ありましたね」


「うん。明日からも、あるんだね」


 にゃん吉君が足元を通り、畳んだ毛布の上へ身体を丸めた。


 ルナは収納バッグから紙を一枚出した。


 姉へ手紙を書こうと思った。


 天空の島へ行ったこと。


 黒龍の背から、雲を見たこと。


 泉だと思って訪ねた場所には、水がなかったこと。


 書き始めると、紙の上がすぐに埋まっていった。


 十二災神と話したことは、途中で手が止まった。


 親切にしてもらった。


 怖いとも思った。


 どちらも本当だった。短く書こうとすると、片方が抜けてしまいそうだった。


 ルナは少し考え、続きを書いた。


 会った人の考えを、まだ受け入れられないこと。


 それでも、教えてもらったことを頼りに旅をしていること。


 最後に、今日見た小さな灯りのことを書いた。


 私も使ってみたいと思いました。


 書いてから、もう一行足した。


 今度会ったら、話したいことがたくさんあります。


「ユニちゃん。明日、出してから行ってもいい?」


「はい」


 ルナは紙を読み返し、折り畳んだ。


 窓の外で、看板が小さく鳴った。


     *


 翌朝、食堂へ下りると、白髪の女性は旅の服を着ていた。


 足元には、小さな鞄が一つあった。


 厨房から娘が出てくる。


「食べてからで、間に合うでしょう」


「もう食べたよ」


「それ、昨日の残りじゃない」


「おいしかったよ」


 娘は何か言いかけて、やめた。


 代わりに、包みを一つ差し出した。


「途中で食べて」


 女性は受け取り、鞄へ入れた。


 ルナたちの朝食が運ばれてきた。


 昨日とは違う、丸いパンと、豆の入った温かい汁だった。


 食べている間に、迎えの馬車が通りへ止まった。


 女性が立ち上がる。


 娘は先に鞄を持ち、外へ出た。


 ルナも扉のところまで見送りに行った。


「泊めていただいて、ありがとうございました」


「こちらこそ。岬は風が強いから、気をつけるんだよ」


「はい」


 女性は馬車の段へ足を掛けた。


 乗り込む前に、振り返る。


「戸棚の上の——」


「分かってる」


 娘が答えた。


 女性は口を閉じた。


 それから、少し笑った。


「行ってくるよ」


「うん。着いたら、手紙を」


 馬車が動き始めた。


 女性の手が窓から見えた。娘も手を上げ、角を曲がるまで、その場に立っていた。


 やがて姿が見えなくなると、娘は腕を下ろした。


 宿へ向き直り、扉を大きく開ける。


「さて。お弁当も、いるんだったね」


「はい。お願いします」


 ルナは中へ戻った。


 厨房では、まだ鍋から湯気が上がっていた。


     *


 手紙を出し、昼の包みを収納バッグへしまって、ルナたちは北へ向かった。


 町外れで振り返ると、宿のある通りは、もう屋根に隠れていた。


 朝の馬車は、反対の方へ行った。


 庭に何を植えるのか、あの女性は決めただろうか。


 ルナは少し考え、前へ向き直った。


 道は海沿いの斜面へ続いていた。


 登るにつれて、港の船が小さくなる。荷を下ろす人も、屋根の間を歩く人も、やがて見分けられなくなった。


 風が服の裾を引いた。


 ルナは帽子を押さえ、ユニへ顔を向けた。


「ダンジョンがあるって、記録には書いてなかったね」


「そうですね」


「岬の上を見たら、入口も見てみたい」


 ユニが頷いた。


 道の先に、石を積んだ小屋が見えてきた。


 屋根の半分は崩れていた。その脇で、道が二つに分かれている。


 海側の道には、土の上へ平たい石が埋められていた。


 ルナはそちらへ進んだ。


 数歩先で、風の音に別の音が混じった。


 硬いものが、石へ触れる音。


 斜面の下から、人の声がした。


 ルナは足を止めた。


 道の端まで近づくと、岩壁に沿って下りる階段が見えた。


 その下から、荷を背負った二人が上がってくる。


 後ろの一人が、先を歩く人へ手を伸ばした。


 ルナは長杖を脇へ寄せ、二人が上がれるように道を空けた。

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