第6章 第9話 世界の果てという言葉
「願った本人から、そこで願いがかなったと聞いたからです」
男は答えた。
ルナは、開いた手帳から顔を上げた。
「その人が、教えてくれたんですね」
「はい。その人が語った願いと、私が役目を持って生まれたこと。それが、私の知っている二つの出来事でした」
男は、泉を写した絵へ目を落とした。
「ただ、水を見ただけで、願いをかなえる力があると分かったわけではありません」
ルナは筆記具を持った。
「願っているところを、見たんですか?」
「いいえ。私が会ったのは、そのあとです」
男が生まれたのは、願いによってだった。
ならば、その願いがかなう前を、男が見ていたはずはない。
ルナは頷いた。
泉を見たことがある。
かなった願いを知っている。
その二つの言葉から、自分は、男が何もかも見ていたように思っていた。
「あなたが見たことと、その人から聞いたことが、あったんですね」
「ええ。分けてお話しするべきでした」
男はルナを見た。
「場所をお伝えすれば、探せると思ってしまいました。水のなくなった場所で、あなたが何を頼りにすればよいのかまでは、考えていませんでした」
ルナは手帳へ視線を戻した。
「私も、水があれば分かると思っていました」
自分で描いた、乾いたくぼ地があった。
その隣に、短く書き足した。
男が会ったのは、願ったあとの人。
*
男は立ち上がった。
「少し、お待ちいただけますか。前の記録も持ってきます」
家の中へ入り、しばらくして本と茶器を持って戻った。
ルナは手帳を卓の端へ寄せた。
「お茶も、いいですか」
「はい。ありがとうございます」
器へ注がれた茶は、前に飲んだものより色が薄かった。
ルナがひと口飲むと、男がこちらを見た。
「今度は、どうでしょう」
「これなら、苦くないです」
「それはよかった」
同じ香りがした。
前に話したことを、覚えていてくれたのだと思った。
ルナは器を置いた。
男は本を開き、山と湖の描かれた頁を出した。
そこへ、ルナの手帳を並べる。
谷が二つに分かれていたこと。
初めに見つけた白い岩は、形が違っていたこと。
もう一方の谷では、見る位置を変えると、絵に似た輪郭が現れたこと。
ルナは順に話した。
男は何度か頁を戻しながら聞いていた。
「くぼ地の奥は、このようになっていたのですね」
「はい。上の岩が斜めになっていて、その下にも小さな岩が並んでいました」
男の指が、自分の絵の上を動いた。
「よく似ています。私が見た場所と、同じだと思います」
ルナは息を吐いた。
そこまでの道は、間違っていなかったらしい。
けれど、それで泉が見つかったわけではなかった。
「水が、どこから入っていたかは覚えていますか?」
男は絵を見つめた。
少しして、首を横に振った。
「すみません。そこは、覚えていません」
ルナは頷いた。
手帳の問いは、消さずに残した。
*
「その人は、どうやって泉へ来たんでしょうか」
ルナが尋ねると、男の手が止まった。
「私に話してくれたことはあります。ただ、歩いた道を初めから終わりまで聞いたわけではありません」
「どんなことを?」
男は本の先をめくった。
絵のない頁だった。
細かな字が並び、行の間にも書き足されている。
「家へ帰れる場所を探していたのに、いつの間にか、帰る家のないところまで来てしまった。そう話していました」
ルナは、願った人の話を思い出した。
守るために戦い始め、奪われるだけでなく、奪う側にもなった人。
男は頁の下へ目を移した。
「それから、この言葉を」
指先が、一行で止まった。
「世界の果てまで来た、と」
ルナは筆記具を止めた。
「世界の、果て?」
「はい。その言葉は、書き残してあります」
男が本をこちらへ向けた。
ルナは身を寄せた。
古い字は読みづらかったが、男の指した言葉は、どうにかたどれた。
世界の果て。
ルナは手帳の地図を見た。
山の周りには、まだ土地が続いていた。
湖の向こうにも、森があった。
自分が歩いた場所は、大陸の端ではなかった。
「海の向こうまで行った、ということですか?」
「その言葉だけでは、そうとは言えません」
「でも、あの森は、世界の果てには見えませんでした」
「ええ」
男も地図を見た。
「私は、その人が長い旅をしてきたという意味で受け取っていました。帰る場所もなく、そこまで来たのだと」
ルナは本へ目を戻した。
言葉は、そこに残っていた。
その人が、どういうつもりで言ったのかは、書かれていなかった。
*
ルナは、紙を挟んだ頁を開いた。
「島で会った女の人は、泉について聞いたときに、こう言いました」
書き写した言葉を読んだ。
「この世界は、マナで満ちています。それを忘れないでください」
男は黙って聞いていた。
「私は、水を見つけたときにも、その言葉を思い出しました。ユニちゃんに聞いたら、その水にもマナはあるって」
隣のユニへ目を向ける。
ユニは、卓に置かれた手帳を見ていた。
「でも、それが泉とどうつながるのかは、まだ分かりません」
男は、ルナの書いた一文を読んだ。
「彼女がなぜ、その言葉を選んだのか。私が代わりに決めることはできませんね」
「はい」
ルナは筆記具の先を紙へ置いた。
世界の果てまで来た。
その下に、小さく書く。
願った人の言葉。男が書き残していた。
マナについての言葉とは、線でつながなかった。
今は、並べて見ていたかった。
「願った人は、世界の果てに泉があると、知っていたんでしょうか」
「知って探したのか、たどり着いてそう呼んだのか。そこまでは聞いていません」
ルナは少し考えた。
男は、その人へ、自分が生まれた理由を聞きに行った。
今のルナと、同じことを知りたかったわけではない。
だから、記録に残っていることも違う。
「私、その人が泉へ来るまでに、何を見たのか知りたいです」
男が顔を上げた。
「あなたが覚えていることだけでも、ほかにありませんか?」
*
男は本を手元へ戻した。
すぐには答えなかった。
頁を一枚めくり、また戻す。
ルナは待っていた。
茶の湯気は、もう薄くなっていた。
「その人について、私が直接聞いたことは、ほとんどここに書いてあります」
男は言った。
「ただ、泉について集めた話は、この本だけではありません」
ルナは顔を上げた。
「ほかにも、記録があるんですか?」
「ええ。私よりあとに書かれたものもあります。人に譲っていただいた本や、旅の話を書き留めたものも」
男は家の中へ目を向けた。
「場所の記述が食い違うので、私が歩いた道とは別のものとして置いていました」
ルナは故郷の本を思い出した。
古い山の向こう。
誰も知らない森の奥。
本によって、場所が違っていた。
そのうちの一つを、ようやく自分の足で歩いたのだった。
「それも、読ませてもらえますか?」
「もちろんです。ただ、少し探さなければなりません」
男は立ち上がり、開いた扉へ向かった。
ルナも手帳を持って続いた。
棚には、大きさの違う本が並んでいた。
前に器を運んだときにも見た棚だった。
あのときは、男がここで暮らしていることを感じただけだった。
今は、その背の一つ一つが気になった。
男は下の棚から、紐で束ねた薄い冊子を取り出した。
卓へ運び、紐をほどく。
「ここから見ていきましょう。書いた人も、聞いた相手も違います。全部が同じ泉を指しているとは限りません」
「はい」
ルナは椅子を寄せた。
ユニも隣へ座った。
にゃん吉君が卓の下へ入り、ルナの足元で丸くなる。
最初の冊子を開いた。
ルナはまず、書いた人の名前と、日付を探した。
場所の書かれた行だけを拾っていた頃とは、読むところが違っていた。




