第6章 第6話 絵に残された場所
岸に沿う隙間は、岩の張り出したところで途切れた。
ルナは足を止めた。
右手には湖がある。左の斜面には木の根が絡み、その下へ岩がせり出していた。
水際をのぞくと、石の底が急に見えなくなっている。
濡れた岩には、靴を置けそうな出っ張りがあった。けれど、その次に足を掛ける場所はなかった。
「ここは、歩けないね」
ルナは顔を上げた。
岩の向こうには、また小石の岸が続いていた。
「ユニちゃん。あそこまで、運んでもらえる?」
「はい」
ユニの手が身体を支えた。
足が地面を離れる。
湖の上へ出ると、ルナは思わず杖を抱え直した。水面に映った二人の姿が、波で細かく揺れている。
にゃん吉君が、その上を先に渡っていった。
向こう岸へ下りると、ルナは振り返った。
岩は、近くで見るより大きかった。斜面の上まで回ろうとすれば、ずいぶん登らなければならなかっただろう。
「ありがとう」
手帳に、岸の途切れたところを描き足した。
昔の記録には、この岩のことは書かれていなかった。
*
その日は、西の岸で夜を越した。
暗くなる前に、少し高い平らな場所を見つけた。敷物を広げ、水と食べ物を取り出す頃には、向かいの山の影が湖へ伸びていた。
北の森は、まだ岸の向こうに見えていた。
翌朝、ルナは湖に沿って歩き始めた。
岸の曲がり方に合わせて進むうちに、右手にあった水面が、少しずつ後ろへ回った。
振り返ると、越えてきた二つの峰が湖の向こうに並んでいた。
「北まで来たんだね」
ここから見る山は、男の絵とは形が違った。
尖った峰の後ろに、昨日は見えなかった岩肌が重なっている。
ルナはしばらく眺めてから、森へ向き直った。
水際には低い草が生え、その先から木々が続いていた。
道らしいものは見えない。
ルナは岸に沿って、木の間を見ていった。
やがて、地面が緩く下がったところを見つけた。両側の斜面に挟まれ、奥へ細長く続いている。
底には落ち葉と石がたまっていた。
手帳の、浅い谷を描いた頁を開く。
「ここかもしれない」
谷の入口に立って振り返った。
湖が木々の間に見える。岸には、上の割れた大きな岩があった。
ルナはその形と、湖へ戻る向きを書いた。
それから、森へ足を踏み入れた。
*
木々の下は涼しかった。
湖の波の音が遠ざかり、靴の下で葉の砕ける音が大きくなる。
ルナは谷の底を歩きながら、左手の斜面を見ていた。
白い岩。
男が教えてくれた目印は、その先にあるはずだった。
根の間から石が出ている場所はあったが、どれも小さかった。
しばらく進むと、谷が二つに分かれた。
右は緩やかに曲がり、左は木立の奥へまっすぐ延びている。
ルナは手帳を開いた。
描いた線には、分かれ道がなかった。
「……どっちだろう」
右を見て、左を見る。
どちらも、浅い谷だった。
左の奥に、白いものがのぞいていた。
ルナは数歩進み、枝の間から見上げた。
斜面に岩が出ている。
「あれかな」
近づくにつれ、見える範囲が広がった。
白い岩は細く、上へ長く伸びていた。男の絵では、もっと横へ広がっていたはずだった。
ルナは立ち止まった。
絵を描く向きによって、違って見えることもある。
けれど、それだけで同じだと思ってよいのだろうか。
少し横へ動いて見ても、岩の幅は変わらなかった。
「こっちには、白い岩がある。でも、形は違うね」
隣のユニへ手帳を傾けた。
「もう一つの方も、見てからにしたい」
「はい」
来たところまで戻った。
分かれ目から振り返り、今歩いた左の谷を確かめる。
手帳に短い線を足してから、右へ入った。
こちらは少し先で、倒れた幹が谷をふさいでいた。
枝の少ないところを越え、曲がり角へ出る。
左の斜面に、白い岩があった。
ルナは足を止めた。
近いところには苔が広がっている。けれど、上の縁は白く、その途中が浅くへこんでいた。
手帳の絵を見る。
男が描いた岩にも、同じ辺りにくぼみがあった。
ルナは谷の底を少し戻った。
枝の重なりが変わり、岩の全体が見えた。
「ユニちゃん」
声が少し大きくなった。
「ここからだと、似てる」
紙を持ち上げた。
岩の横へ張り出す部分と、上のくぼみ。
手帳へ写すときには、ただ曲がった線だと思っていた。その線が、斜面の上にあった。
ルナは男の言葉を読み返した。
白い岩の先で、谷が少し広がる。
顔を上げる。
谷は、木々の向こうへ続いていた。
*
白い岩を過ぎると、足元の石が減った。
両側に近かった斜面が離れ、木々の間が明るくなる。
ルナは歩く速さを落とした。
泉の絵を見たときから、何度も考えていた。
水面が見えたら、どうするのだろう。
すぐに駆け寄るのかもしれない。何も言えずに立っているのかもしれない。
長杖を握る手に、力が入った。
にゃん吉君が枝の下を抜けた。
その向こうに、低く開けた場所があった。
ルナも枝をよけて進んだ。
地面が、緩やかにくぼんでいた。
周りを木々が囲み、奥には大きな岩が重なっている。
ルナは立ち止まった。
水面はなかった。
くぼ地には落ち葉が積もり、その間から細い草が伸びていた。
風が吹くと、草の先が揺れた。
「……ここ?」
ルナは手帳を開いた。
泉の絵と、目の前を見比べる。
奥の岩は、上の一つが斜めになっていた。絵の中にも、傾いた岩が描かれている。
その下の、小さな岩が並ぶところも似ていた。
枝の形は違った。
水際に描かれていた石は、落ち葉に隠れているのか、同じものを見つけられなかった。
ルナはくぼ地の縁を歩いた。
横から見たら、水があるかもしれない。
岩の陰に、隠れているのかもしれない。
けれど、回り込んでも、見えるのは土と草だった。
男が指を置いた辺りで、足が止まった。
願った人が座っていたという場所。
ルナは絵へ目を落とした。
そこにも今は、木から落ちた細い枝が重なっていた。
*
ルナは近くの石へ腰を下ろした。
歩いている間は暑かったのに、止まると、袖の中へ風が入ってきた。
ユニは隣に立っていた。
「泉が、なくなったのかな」
口にしてから、ルナは手帳を見た。
山の向こうに湖があった。
北の森に谷があり、左の斜面には、絵に似た白い岩があった。
その先には、くぼ地もあった。
けれど、自分は昔の泉を見ていない。
「……まだ、そうとは分からないね」
ルナは言い直した。
「似た場所を見つけただけかもしれないし」
収納バッグから水筒を取り出した。
ひと口飲んで、膝の上の手帳へ目を戻す。
ここまで来れば、水が見えると思っていた。
何を願うかは、見つけてから考えてもいい。
そう決めたばかりだった。
ルナは水筒をしまった。
空いているところへ、今のくぼ地を描く。
岩の傾きと、草のある場所。
水面の線は引かなかった。
男の絵の横に並べると、その違いが、思っていたより大きく見えた。
にゃん吉君が、ルナの膝の近くへ下りてきた。
「もう少し、見てみたい」
ルナは顔を上げた。
「ユニちゃん。あの岩の向こうも、一緒に来てくれる?」
「はい」
手帳をしまい、立ち上がった。
奥の岩の間には、人が一人通れそうな隙間があった。入口に落ち葉がたまり、その先はここからでは見えなかった。
ルナは長杖の先で、足元を確かめた。
絵を描いた男は、ここから何を見たのだろう。
その絵にないところを、今度は自分が見る番だった。




