第6章 第5話 湖へ続く道
谷へ下りる途中で、短い鳴き声が聞こえた。
ルナは黒龍の背から顔を上げた。
岩棚の端に、小さな黒い姿があった。翼を広げ、こちらへ向かって首を伸ばしている。
「待ってたんだね」
黒龍が低く応じた。
地面へ足がつくと、子供が岩棚を駆け下りてきた。途中で翼を使い、最後の段差を越える。
ルナたちが下りるより先に、親の前脚へ鼻先を寄せた。
大きな頭が下がり、小さな頭へ触れた。
ルナは、ユニに支えてもらいながら地面へ下りた。
靴の下に石がある。
長杖をつくと、ようやく戻ってきた気がした。
「ありがとうございました。行きも、帰りも」
黒龍がこちらを見た。
「会えたのだろう」
「はい。泉を見たことのある人でした」
子供が親の脚の間から顔を出した。
ルナはそちらへ少し笑ってから、続けた。
「探しに行く場所を、教えてもらえました」
「そうか」
黒龍は、隣のユニへ目を向けた。
「この子を帰してくれたこと、忘れてはいない」
「はい」
ユニは、子供の黒龍を見ていた。
子供もユニを見上げ、鼻を動かした。
にゃん吉君が近づくと、その鼻先が持ち上がる。
「ワン」
白い身体が少し上へ逃げた。
子供は首を伸ばしたが、届かないと分かると、親のそばへ戻った。
「行こう、にゃん吉君」
ルナが呼ぶと、頭上へ戻ってきた。
谷を離れる前に、もう一度振り返った。
子供が、親の伏せた前脚へ登ろうとしていた。
大きな黒龍は動かず、その様子を見ていた。
*
街へ戻ったときには、通りの店に灯りがつき始めていた。
宿で部屋を取り、荷物を置いてから、ルナは手帳を開いた。
山の絵の横に、男から聞いた道筋が並んでいる。
宿の食堂へ下りても、何度かその頁を見た。
運ばれてきた皿を前に、ユニがルナを呼んだ。
「冷めますよ」
「あ、うん」
手帳を閉じ、匙を取った。
温かい汁を飲むと、急にお腹が空いていることに気づいた。
その夜は、新しいことを書き足さずに眠った。
翌朝、ルナはギルドで地図を広げてもらった。
受付の男性は、手帳の山と地図を見比べた。
「この湖なら、山の南側の集落までは馬車で行ける。湖へ抜ける峠道は、歩きだな」
「今も、通れますか?」
「先月、薬草を採りに行った者がいる。少なくとも、そのときは通れたそうだ」
男性は地図の細い線を指でたどった。
「ただ、こっちの道は使われなくなっている。途中で斜面が崩れてな。集落からは、川沿いに上がる道を聞くといい」
ルナは手帳を開き直した。
天空の島で写した地図では、二つの道の区別がつかなかった。
「湖の北側にも、道はあるんでしょうか?」
「そこまでは分からん。採集に行った者も、南の岸から戻ってきている」
「分かりました。ありがとうございます」
ルナは、湖までの線と、その先の線を分けた。
聞いた人が実際に歩いたのは、南の岸まで。
北の森は、まだ古い記録だけだった。
ギルドを出ると、食料を買い足した。
店の前で収納バッグの中を確かめ、帰りに食べる分も入れてから留め具を閉じる。
乗合馬車の停まる場所へ向かう途中、ルナはユニを見上げた。
「まずは、湖まで行こう」
「はい」
「そこから先は、着いてから見たい」
ユニが頷いた。
*
二日間、馬車を乗り継いだ。
街の屋根が遠ざかり、道の両側に畑や林が増えていった。
途中から同じ荷台へ乗った女性は、足元の籠を何度も押さえていた。
車輪が石を踏むたび、籠の中で小さな鉢が触れ合った。
「苗ですか?」
ルナが尋ねると、女性は掛けていた布を少しめくった。
細い茎に、丸い葉がついていた。
「娘に頼まれてね。向こうでは、なかなか手に入らないんだよ」
「食べられるものですか?」
「葉を煮込みに入れるんだ。入れすぎると、これの味ばかりになるけどね」
馬車が傾いた。
女性の膝から、布が滑り落ちる。
ルナは足元へ落ちる前に拾った。
「ありがとうございます。もう少しなんだけど、それが長くて」
女性は布を掛け直した。
次に大きく揺れたとき、ルナは籠の縁へ手を添えた。
女性が下りる場所には、子供を抱いた若い人が待っていた。
苗の籠を見て、すぐに笑った。
馬車が動き出してからも、ルナはしばらく振り返っていた。
「育つといいね」
隣でユニが頷いた。
その日の夕方、山の麓の集落へ着いた。
泊めてもらった家の窓からは、山が大きく見えた。
ルナは手帳を開いた。
尖った峰と、頂の平らな峰。
絵を持ち上げ、窓の外と並べてみる。
「ユニちゃん。あれだと思う」
ユニが隣へ来た。
雲が流れ、隠れていた山の肩が見えた。
ルナは手帳を下ろした。
地図の上で指した場所に、自分が来ていた。
*
朝、家の主人に道を尋ねた。
「川のそばを上がって、石積みのところで左だ。古い道へ入らないようにな」
「上にも、水はありますか?」
「途中に流れはあるが、飲む分は持っていきなさい。峠を越えれば湖だ。戻るなら、暗くなる前に下りてくるんだよ」
ルナは水を確かめ、礼を言った。
川沿いの道は、初めのうちは歩きやすかった。
畑の脇を抜け、最後の家を過ぎると、道幅が狭くなる。
荷車の跡が消え、土には靴の跡が残っていた。
石積みのところで、道が分かれた。
まっすぐ続く方は草に覆われ、奥で木が一本、斜めに倒れている。
ルナは立ち止まって手帳を開いた。
昔の地図では、こちらの方が短かった。
「左だね」
手帳をしまい、川から離れる道へ入った。
木々の間を折り返しながら上がる。
しばらくすると、川の音が下の方へ遠ざかった。
立ち止まって水を飲むたび、葉の隙間に見える景色が変わっていた。集落の屋根は見えなくなり、向こうの斜面が近くなる。
にゃん吉君が先の曲がり角で振り返った。
「待って。今、行くから」
「ワン」
ルナは水筒をしまった。
登りが終わったと思ったところから、もう一度坂が続いた。
息を整えながら足を進める。
ようやく木の背が低くなり、風が通った。
道の先が、明るかった。
ルナは最後の坂を登った。
湖が見えた。
山の間に、細長い水面が広がっている。
風の通るところだけ色が変わり、岸に近い場所には、空と木々が映っていた。
「……あった」
ルナは長杖をついたまま、立っていた。
地図に描かれた形とは、少し違って見えた。
手帳ではひと続きに描いた岸が、実際には何度も入り込んでいる。西側には岩の張り出したところがあり、その先で木々が水際まで迫っていた。
北の森は、湖の向こうにあった。
遠くからでは、浅い谷も白い岩も見分けられなかった。
*
峠から下る道には、濡れた落ち葉が重なっていた。
ルナは杖で足元を確かめながら進んだ。
枝の間に水面が見えるたび、近づいているのが分かった。
最後の木立を抜けると、足元が小石に変わった。
小さな波が、岸へ寄せていた。
ルナは水際の少し手前にしゃがんだ。
透き通った水の底で、細い影が動いた。
小魚だった。
石の陰から出てきて、ルナが身を寄せると、すぐに深い方へ逃げた。
「いるね」
にゃん吉君が、水面の上へ下りてきた。
白い姿が映り、波で崩れた。
ルナは笑って立ち上がった。
南の岸には、腰を下ろせるほどの石があった。そこで少し休み、食べ物を分けた。
手帳を開き、峠から見た湖を描き足す。
昔の絵の横に、今日見た岸の曲がり方を書いた。
山を越えれば湖がある。
その一つは、自分の目で確かめられた。
ルナは北を見た。
願いの泉は、まだ見えない。
けれど、次に進む岸は分かった。
「今日は、西側を少し歩いてみたい」
ユニへ手帳を見せる。
「通れなくなっていたら、ここへ戻ろう。暗くなる前に、休める場所も決めたいし」
「分かりました」
食べ終えると、ルナは立ち上がった。
湖を右手に見ながら歩く。
岸辺の湿った土には、靴底の跡が残っていた。その跡は、少し先で森の方へ続いていた。
ルナはその先を見た。
木々の間へ入る道と、湖に沿う細い隙間。
手帳をもう一度確かめ、湖の方へ足を向けた。
小石が靴の下で鳴った。
右手には、水面が続いていた。




