第6章 第4話 古い山の向こう
「私が訪ねた場所への道筋なら、お教えできます」
男は答えた。
ルナは筆記具を持ち直した。
「ただ、ずいぶん昔のことです。今の道や町の名前を使って説明するには、地図を見た方がよいですね」
男は立ち上がり、家の中へ入った。
ルナは開いた手帳を見た。
泉へ向かうための頁だった。
場所を聞ける。
そう思うと、筆記具を握る指に力が入った。
男は一冊の本と、畳んだ地図を持って戻ってきた。
茶器を端へ寄せ、卓の上に地図を広げる。折り目の重なるところは、別の紙で裏から補われていた。
「これは、あとになって手に入れたものです。私が泉を訪ねた頃には、ここに描かれた町の多くはありませんでした」
指が、山の並ぶところへ置かれた。
「この山並みです。あなたたちは、どこから黒龍に乗ってきましたか?」
ルナは地図をのぞき込んだ。
王都を見つけ、そこから道をたどる。
「この街から、谷へ行きました」
「では、ここからですね」
男の指が二つの場所を行き来した。
同じ大陸の、内陸だった。
ルナは街と山の間に描かれた道を見た。線は途中で分かれ、いくつかの町をつないでいる。
どれを通ればよいのか、まだ分からなかった。
*
男が本を開いた。
文字の間に、小さな絵がいくつも描かれていた。山の形、岸に並ぶ石、枝の張り出した木。頁の端には、あとから書き足したらしい細い字もあった。
「こちらは、私の記録です」
開かれた頁には、二つの峰が描かれていた。
一方は先が尖り、もう一方は、頂の辺りが少し平らになっている。
「南から見ると、この形に見えました。私は、その間の峠を越えています」
ルナは山の形を手帳へ写した。
「越えた先に、泉があるんですか?」
「まず、湖があります。峠を下りると、その南側へ出ました。私は西の岸を回り、北の森へ入りました」
「湖を、右に見ながら進むんですね」
「ええ」
ルナは山の向こうに湖を描き、岸に沿って線を引いた。
男が次の頁を開く。
「森に入ってからは、浅い谷をたどりました。左手の斜面に、白い岩が出ているところがあります」
絵の中では、木々の間から岩の上の部分がのぞいていた。
「その先で、谷が少し広がります。泉は、そこのくぼ地にありました」
ルナは線の先へ、小さな丸を描いた。
山。湖。北の森。
一つずつ書いてから、顔を上げる。
「前に聞いた言い伝えにも、山が出てきたんです。古い山の向こうに、願いの泉があるって」
「そうですか」
「森の奥にある、と書いた本もありました」
男は、ルナの描いた道筋を見た。
「その話がこの場所を指しているのかは、まだ分かりませんね」
「……はい」
似ているからといって、同じ場所だとは限らない。
ルナは言い伝えのことを、道筋の下へ分けて書いた。
男の本へ目を戻すと、谷の途中に、細長いものが描かれていた。
「これは、何ですか?」
「この字は……倒れた木、ですね」
男は本を少し近づけ、目を細めた。
「今もあるとは思わないでください。木を目印にしてしまったのは、私の描き方がよくありませんでした」
「そのときは、分かりやすかったんですね」
「よく分かるつもりでした」
男が笑った。
ルナも少し笑い、写しかけた木のところで筆記具を止めた。
残っているものも、なくなっているものもある。
今も通れるかは、現地で確かめなければならなかった。
*
泉の絵は、その次の頁にあった。
木々に囲まれたくぼ地。
中央に水面があり、岸には大小の石が並んでいた。奥には岩が重なり、その上から枝が伸びている。
「泉から戻ったあとに描きました」
ルナは絵を見つめた。
森の中の、小さな泉だった。
子供の頃から何度も開いた本を思い出した。
本の隅にも、小さな泉の挿絵があった。指でなぞりながら、自分もそこへ行けたらと思っていた。
細かな形までは、もう思い出せなかった。
ルナは、目の前の絵へ顔を近づけた。
「これを、実際に見たんですね」
「ええ。私が訪ねたときの姿です」
「願った人も、ここに?」
男は、岸の一か所へ指を置いた。
「この辺りに座っていました」
そこには、人の姿は描かれていなかった。
ルナは、水際の石を見た。
ここに座って、男の話を聞いた人がいる。
これで食べられるようになるだろうか。
子供たちが家へ帰れるだろうか。
そう尋ねた人がいた。
ルナは絵を写した。石の一つ一つまでは描けなかったが、水面と岩、枝の位置を残した。
描き終えると、山の頁へ戻った。
「この峠を越えて、湖の西側を回る。北の森から谷へ入って、白い岩の先ですね」
「ええ。ただ、ここはもう少し西です」
男の指したところへ、ルナは線を引き直した。
確かめ終えてから、紙を押さえていた平たい石を外す。
「ありがとうございます」
手帳を閉じると、ようやく肩の力が抜けた。
*
男が地図を畳む間に、ルナは空いた茶器を寄せた。
「器は、どこへ持っていけばいいですか?」
「中の台へ置いていただけますか」
自分とユニの器を持って、家へ入った。
窓の下に台があり、その横には、水差しと布が置かれていた。
壁沿いの棚には本が並んでいる。大きさも、背の色も違った。小さな炉のそばには薪があり、壁には、畳んだ布が掛けられていた。
ルナは器を置いた。
ここで茶を飲み、本を読んで暮らす人だった。
話している間に、そのことが分からなくなりそうだった。
外へ戻ると、男は椅子を軒下へ寄せていた。
にゃん吉君が卓の下から浮かび上がる。
「行こうか」
「ワン」
ルナは収納バッグを掛け直し、長杖を取った。
男も、黒龍のいるところまで一緒に歩いた。
木立を抜けると、黒い頭が上がった。
「話は済んだか」
「はい。待っていてくださって、ありがとうございます」
ルナは手帳を開いた。
黒龍へ見せようとして、どの高さへ持てばよいのか迷う。
大きな頭が、ゆっくり下がってきた。
「この山を、ご存じですか?」
黒龍は絵へ目を向けた。
「山並みは分かる。湖まで下りたことはないがな」
「まず、来たときの谷までお願いします。街で今の道を聞いて、必要なものをそろえてから向かいたいです」
ルナは手帳を閉じた。
「お子さんも、待っていますし」
「そうだな」
黒龍は、身体を低くした。
*
ルナは男へ向き直った。
「お茶も、ごちそうさまでした」
「次にいらっしゃるときは、もう少し薄くしておきます」
「……少しだけ、お願いします」
男は笑った。
ルナも笑ってから、頭を下げた。
「教えてもらったところへ、行ってみます」
「はい。お気をつけて」
ユニに頼んで、黒龍の背へ上がった。
座る位置を確かめ、長杖を身体に沿わせる。にゃん吉君は、ルナの肩のそばに浮かんでいた。
「ユニちゃん、さっきみたいに支えてくれる?」
「はい」
「風もね」
「分かりました」
黒龍が立ち上がった。
足元が高くなる。
男は少し離れたところへ下がり、こちらを見上げていた。
ルナは片手を上げた。
翼が広がり、草が伏せた。
次の瞬間、身体が持ち上がった。
木々の上へ出ると、家の屋根が見えた。軒下の卓も、庭の薪も、すぐに小さくなった。
ルナは、島が遠ざかるのを見ていた。
会う前には、聞きたいことがたくさんあった。
答えを聞けば、もっと迷わずに進めると思っていた。
けれど今は、教わった道と一緒に、すぐには答えの出ないことも持っていた。
息を吐くと、身体が重かった。
ほとんど座って話していたのに、長く歩いたあとのように疲れている。
ユニの手が、身体を支えていた。
しばらく、その手の近くへ自分の手を置いた。
「ユニちゃん」
「はい」
「泉が見つかったら、すぐに願わなくてもいいよね」
「はい」
ルナは頷いた。
まず、行ってみる。
自分の目で見て、それから考えてもいい。
顔を上げると、雲の切れ目から地上が見えた。
川が細く光り、その向こうに山が連なっている。
ルナは収納バッグの上へ手を置いた。
中には、二つの峰を描いた手帳があった。
泉へ続く道には、まだ一歩も立っていない。
けれど今は、探しに行く山の形を知っていた。




