第6章 第2話 争わずに生きるために
「私が泉を訪ねたのは、生まれてから、まだ間もない頃でした」
男はそう話し始めた。
ルナは手帳へ目を落としかけ、顔を上げた。
「生まれて、すぐにですか?」
「ええ。ただ、人の赤ん坊と同じように考えると、少し違ってしまいますね。私は、そのときには歩くことも、話すこともできました」
男は自分の手へ目を向けた。
「自分に役目があることも、分かっていました。けれど、なぜその役目を持って生まれたのかまでは、知りませんでした」
「それを、泉へ聞きに行ったんですか?」
「私が理由を聞いた相手は、泉の岸にいた人です。その人が、自分の願いについて話してくれました」
ルナは筆記具を持ち直した。
男にも、自分のことが分からず、誰かに尋ねたことがあった。
「どんな場所だったんですか?」
「私が見たときは、静かな場所でした。水際へ下りると、その人は岸に座っていました。私が近づいても、しばらく水を見ていましたね」
男は卓の上の器へ触れた。
「ようやくこちらを向いて、私の話を聞いてくれました。それから、自分が泉で何を願ったのかを話したんです」
「何を、願ったんでしょうか」
「争いのない世界を」
ルナの手が止まった。
短い言葉だった。
けれど、そのまま書いてよいのか、少し迷った。
「……世界を、変えようとしたんですか?」
「その人が求めていたのは、もう誰かから奪わずに生きていける暮らしでした」
*
「その頃は、食べ物を巡って争う土地が多かったそうです」
男は続けた。
「畑が実らなければ、隣の土地へ取りに行く。取られた側も、食べるものがなくなる。次の年に種をまくための穀物まで奪われれば、争いが終わっても、暮らしは戻りません」
ルナは港の倉庫を思い出した。
積まれた袋を、何人もで船へ運んでいた。
あの中身が届かなければ、困る人たちがいる。
「食べ物を、運んでくれる人はいなかったんですか?」
「いたでしょう。ただ、道が戦場になっていれば、荷車は通れません。売るだけの余裕がある土地でも、相手が敵だとなれば、渡さないこともあります」
男は少し言葉を切った。
「その人の話では、守るために戦い始めたはずなのに、帰る場所がなくなっていたそうです」
ルナは顔を上げた。
黒く変わった壁が頭に浮かんだ。
道の両側に残っていた建物。部屋の中に置かれたままの器。
あの島の戦いが、今聞いている時代のものなのかは分からなかった。
ただ、帰る場所がなくなる、という言葉には、思い浮かぶ景色があった。
「その人も、戦っていたんですか?」
「ええ。奪われた側であると同時に、奪った側でもあったと話していました」
ルナは、まだ何も書いていなかった。
男は続きを急がず、茶をひと口飲んだ。
「だから、次に勝つことを願ったのではありません。勝たなければ食べられない暮らしを、終わらせたかったんでしょう」
「それで、争いのない世界を……」
「はい」
ルナはようやく、手帳へその言葉を書いた。
書いてから、男を見た。
「泉は、どうやってかなえたんですか?」
*
「十二災神という役目が生まれたのは、その願いによってです」
ルナは男を見つめた。
「あなたも、そのときに?」
「はい。私は、その役目を持って生まれました」
椅子を運び、茶を入れてくれた人。
その人が生まれた理由は、誰かが争いをなくしたいと願ったことだった。
「十二災神の役目は、その願いとどうつながるんですか?」
「十二災神は、変わった世界を保つ役目を担っています。私たちがいるだけで、人が争わなくなるわけではありません」
男は庭へ目を向けた。
鉢の葉が、風に揺れていた。
「人々が暮らしを続けるために、この世界の力が巡るように。その流れが滞ったり、一方へ偏りすぎたりしないように。それぞれが、異なる役目を担っています」
「マナのことですか?」
「はい」
ルナは前の頁を開いた。
この世界は、マナで満ちています。
島で聞いた言葉を指で押さえ、男へ見せた。
「その女性も、こう言っていました」
男は身を寄せ、文字を読んだ。
「ええ。あなたが旅をしてきた世界は、マナに満ちています。そして、人々はその力を暮らしに使っています」
ルナは頷いた。
明かりのついた部屋。
魔法で水を出す人。
魔石を使う道具と、それを作る工房。
男が続けた。
「魔法で水を確保できれば、雨を待つだけでは育てられなかった場所でも、作物を育てられます。ただ、水をどこへ引き、何を育て、どう分けるかは、人々が考えなければなりません」
「畑や道具まで、願っただけでできたわけではないんですね」
「ええ。今ある道具や街まで、泉から現れたわけではありませんよ」
男は微笑んだ。
「使い方を考えた人がいます。作って、失敗して、直した人もいます。誰かに教えたり、遠くへ運んだりした人もいる。あなたが見てきた暮らしには、その後の人々の仕事が重なっています」
ルナは、工房で道具を見せてもらったときのことを思い出した。
使えるようになったものを、嬉しく思った。
その道具にも、作った人がいた。
「泉が、何もかも用意したわけじゃないんですね」
「ええ。けれど、人々が生きていくために使える力と、それを支える仕組みは、大きく変わりました」
男は器を置いた。
「誰かの持ち物を奪うほかにも、生きる道を作れるようになったんです」
*
ルナは書きかけの頁を見た。
争いのない世界。
その下へ書こうとして、手を止めた。
「それなら、願いは……」
「かなった、と言い切っていいのか。そう聞きたいですか?」
「はい。今も、争いはありますよね」
「あります」
男は頷いた。
「私は、願いによって世界が変わったことを知っています。ですが、その人が思い描いた暮らしが、すべて実現したとは言えません」
ルナは顔を上げた。
「食べ物が足りるようになれば、争わなくなると思ったんですか?」
「少なくとも、食べるために奪わなければならない人は減らせる。そう考えていたのでしょう」
「それでも、ほかの理由で争う人はいるんですね」
「ええ。もっと欲しいと思うことも、相手を許せないこともある。分けられるだけのものがあっても、分けるとは限りません」
ルナは黙った。
食べ物があることと、それを誰かへ渡すことは、同じではなかった。
「泉は、人の気持ちまでは変えなかったんですか?」
「人が皆、同じことを望むようにはなりませんでした」
男は静かに答えた。
「なぜそのような形になったのか、泉が何をどう受け取ったのか。そのすべてを、私が知っているわけではありません。私が話せるのは、聞いた願いと、その後に見てきた世界のことです」
ルナは、手帳の文字を見直した。
願えば、その言葉のとおりになる。
そんなふうに、どこかで思っていた。
魔法を使えるようになりたいと願えば、掌に灯りが生まれる。
その先を、考えていなかった。
「私が泉へ行っても、どうなるかは、分からないんですね」
「ここで、あなたに約束できることではありません」
男の声は変わらなかった。
ルナは掌を見た。
少し前に、この手で灯りをともしてみたいと話した。
その気持ちは、消えていなかった。
けれど、泉へ着けばそれでいいとは、もう思えなかった。
隣で、ユニが器を卓へ置いた。
ルナは一度そちらを見て、また手帳へ目を戻した。
泉で願った人も、望んだものをすべて得られたわけではない。
それでも、その願いによって変わった世界を、自分は歩いてきたのだ。
*
「その人は、変わった世界を見られたんですか?」
「少しは。私が会ったときには、まだ、その先がどうなるのか分からないことばかりでした」
「喜んでいましたか?」
男はしばらく考えた。
「私に、何度も尋ねました。これで食べられるようになるだろうか。子供たちが家へ帰れるだろうか、と」
ルナは筆記具を置いた。
願いをかなえた人も、誰かに確かめたかったのだ。
「私は、生まれたばかりでした。先のことを、何でも答えられたわけではありません」
男は自分の手へ目を落とした。
「ですから、私の役目を話しました。この世界を外から害するものが来たときには、対処する。そのために生まれたのだと」
「その人は、何て?」
「頼む、と」
風が吹いた。
手帳の端が持ち上がり、ルナは手で押さえた。
男は卓の隅から平たい石を取り、差し出した。
ルナは礼を言い、頁の上へ置いた。
争わずに、生きていけるように。
その願いから、目の前の人が生まれた。
島で会った二人の役目も、その願いにつながっている。
ルナは、男と女性の言葉を思い出した。
魔獣を外へ送り出すこと。
人の数を減らすこと。
それを、穏やかに話していた声。
手帳をめくり、島で書いたところを開いた。
「一つ、分からないことがあります」
「何でしょう」
ルナは顔を上げた。
「人が奪い合わずに、生きていけるように。そのための願いから、十二災神の役目が生まれたんですよね」
「はい」
「島で会った人たちは、人の数を減らすことも話していました」
男はルナを見ていた。
ルナは、頁から手を離した。
「人が生きていくための役目なのに、どうして人を減らすんですか?」




