第6章 第1話 空の上の話し相手
道は、木々の間を緩く曲がっていた。
草の薄いところへ足を置くと、土に小石が混じっている。ルナは長杖をつき、枝の向こうを見た。
屋根が近づいてきた。
石を積んだ壁に、木の扉がついていた。窓は開いていて、その下に浅い鉢が三つ並んでいる。
扉の前では、男が椅子に座っていた。
膝に本を開いている。
ルナたちの足音に顔を上げると、本へ指を挟んだ。
「こんにちは」
先に声をかけられた。
ルナは足を止め、頭を下げた。
「こんにちは。突然、すみません」
「黒龍が誰かを乗せてくるのは、珍しいですね。ここからでは顔まで見えなかったので、どんなお客さんだろうと思っていました」
男は本を閉じた。
灰色がかった髪を首の後ろで束ねている。袖をまくった腕にも、立ち上がる動きにも、ルナが想像していたほどの年齢は感じられなかった。
「飛んでくる間は、寒くありませんでしたか。下が暖かい日でも、雲の上は冷えますから」
「ユニちゃんが、風を遠ざけてくれたので」
「そうでしたか」
男がユニを見た。
目が合ったまま、少し間があった。
「こんにちは」
ユニが言った。
「ええ、こんにちは」
男は穏やかに返し、ルナへ顔を戻した。
「立ったままでは落ち着きませんね。椅子を持ってきます。お茶も、飲めますか?」
「あの、その前に、一つ聞いてもいいですか?」
男は扉へ伸ばしかけた手を止めた。
「もちろん」
「十二災神の中で、最も古くからいる方が、ここにいらっしゃると聞いたんです」
「それなら、私です」
返事は、すぐだった。
ルナは男を見つめた。
男は少し考え、それから付け足した。
「私より前からいる者に、会ったことはありません。少なくとも、今いる十二の中では、いちばん古いですね」
*
男は家の中から椅子を二脚運んできた。
ルナも一脚を受け取り、木陰へ置いた。
「ありがとうございます。そちらなら、日が傾くまで眩しくありません」
小さな卓へ、茶器が並べられた。
男は湯を注ぎながら、鉢の方へ顔を向けた。
「今日は、あちらの葉を使いました。香りが少し強いので、苦手でしたら水もありますよ」
ルナは差し出された器を受け取った。
湯気の中に、すっとする匂いがあった。
「ありがとうございます」
ユニが隣へ座る。
にゃん吉君は卓の周りを一度回り、ルナの椅子のそばへ下りた。
男はその姿を見て、目元を緩めた。
「あなたも、遠くから来たんですね」
「ワン」
「そうですか」
それで会話が済んだように、男は自分の椅子へ座った。
ルナは器を両手で持ったまま、口を開いた。
「私は、ルナといいます。こちらがユニちゃんで、にゃん吉君です」
「ルナさん、ユニさん、にゃん吉君ですね」
男は一人ずつ顔を見た。
「私のところへは、誰に聞いて?」
「神に見放された島で会った、女性からです。眠りを届けることができると、話していました」
「ああ、あの人でしたか。最近は、こちらへ来ていませんね。元気そうでしたか?」
「はい」
答えてから、ルナは少し迷った。
元気だったかと尋ねられるとは、思っていなかった。
穏やかな声で、永遠に眠らせたことがあると答えた人。
その人を、この男は知っている。
「何か、気になることがありましたか?」
男に尋ねられ、ルナは器へ視線を落とした。
「……怖い人だと、思いました」
「そうですか」
「お話は、聞かせてくれました。ここにいるあなたのことも。でも」
言葉が止まった。
男は急かさなかった。
「誰かを永遠に眠らせたことがあると、聞いたので」
湯気が、二人の間を流れた。
男は器を卓へ置いた。
「話してくれたことに感謝していても、怖さは消えませんね」
ルナは顔を上げた。
男は女性をかばう言葉を続けなかった。
そのまま、ルナの次の言葉を待っていた。
*
「あなたも、何かの役目を持っているんですか?」
「ええ」
男は頷いた。
「私は、この世界の外から来るものに対処しています」
ルナは器を置いた。
「外、ですか?」
「この空の、もっと遠くにある国、という意味ではありませんよ。海を渡った先でもありません。この世界とは違うところから、入ってくるものがあるんです」
ルナは木々の向こうを見た。
青い空が見えていた。
そこに、何か境目があるようには見えなかった。
「それは、魔獣とは違うんですか?」
「違います。この世界で生まれたものなら、こちらの成り立ちに沿って考えられます。けれど、外から来た相手に、同じことが当てはまるとは限りません」
男は膝の上で手を重ねた。
「言葉が通じることもあります。まったく通じないこともあります。姿が見えるとも限りませんし、向こうが私たちを生き物として扱うかどうかも、会うまでは分かりません」
声は静かだった。
ルナは、さっき椅子を運んでいた手を見た。
「その相手と、戦うんですか?」
「この世界を害するなら」
「外から来たものとは、全部?」
「いいえ」
男は首を振った。
「来たというだけで、戦う理由にはなりません。話ができる相手なら、何をしに来たのか聞きます。行き違いで済むなら、その方がいいですから」
男が、ユニへ目を向けた。
「あなたは、ルナさんと旅を?」
「はい」
「楽しいですか?」
「はい。楽しいですよ」
男は微笑んだ。
「それは、何よりです」
ルナは二人の顔を見た。
なぜ、今それを尋ねたのだろう。
聞こうとしたとき、ユニがこちらを向いた。
「ルナは?」
「え?」
「旅は、楽しいですか?」
ルナは瞬きをした。
黒龍の背から見た海を思い出した。
雲が開けたときの青い空も、ロークたちの船が帰ってきた朝も。
「うん」
答えると、ユニが頷いた。
「怖いことも、あるけどね」
「はい」
男は二人のやり取りを聞いていた。
ルナは器を持ち上げ、少し冷めたお茶を飲んだ。
*
「それで、私に聞きたいことは何でしょう」
男が尋ねた。
「先ほどは、私の仕事の話が長くなってしまいましたね。久しぶりに人と話すと、つい説明を足したくなってしまうんです。途中でも、聞きたいことがあったら止めてください」
「はい」
ルナは収納バッグから手帳を取り出した。
開いた頁には、天空の島のことが書かれていた。
今、その島にいる。
ルナは指を離し、男を見た。
「願いの泉を、探しています」
男の視線が手帳へ下りた。
「泉ですか」
「ご存じですか?」
「ええ。知っています」
ルナは膝をそろえ、少し前へ身を寄せた。
「行ったことも、あるんでしょうか」
「あります」
返事を聞いて、胸が速くなった。
場所を知っている人に、ようやく会えたのかもしれない。
「どこにあるか、教えてもらえますか?」
男はルナを見た。
「その前に、何を願いたいのか聞いても?」
「魔法を使えるように、なりたいんです」
口にした途端、喉が少し詰まった。
何度も、人に話してきた。
それでも、泉へ行ったことがあるという人を前にすると、同じ言葉がうまく続かなかった。
「私、魔法が使えないんです。練習しても、教えてもらっても、一度も」
男は黙って聞いていた。
ルナは手帳の端を押さえた。
「旅に出てから、いろんな魔法を見ました。大きなものも、小さなものも」
明かりをともす手。
水を出す手。
自分にはできないことを、何でもないようにする人たち。
「すごいなって、思います。見られてよかったとも思うんです」
声が小さくなった。
「でも、見ていると、私も使ってみたくなります」
ルナは顔を上げた。
「今も、使いたいです」
男はゆっくり頷いた。
「どんな魔法を、使ってみたいですか?」
ルナは少し考えた。
旅で見た魔法は、いくつもあった。
けれど、自分が使うところを思い浮かべると、最初に浮かぶのは、小さな光だった。
「灯りを、つけてみたいです」
ルナは掌を上にした。
「こんなふうに、手の上に。小さくてもいいので」
木の葉の隙間から、掌へ光が落ちていた。
「自分で、ともしてみたいんですね」
「はい」
もっと別の願いはないのかとは、聞かれなかった。
魔法が使えなくても困らないとは、言われなかった。
ルナはゆっくり手を下ろした。
少しだけ、息がしやすくなった。
「泉なら、私の願いも、かなうでしょうか」
「必ずかなうと、ここで約束することはできません」
ルナの指が止まった。
「けれど、泉について私が知っていることは、話せます。あなたがそこへ行くかどうかを考えられるように」
ルナは開いた手帳を見た。
天空の島の下には、まだ空いているところがあった。
そこへ何を書くことになるのか、分からなかった。
ルナは筆記具を取り出した。
「聞かせてください」
男は頷き、椅子へ座り直した。
「では、私が泉を訪ねたときの話から、始めましょう」




