第5章 第25話 雲の向こうに
谷が、足元へ沈んでいった。
黒龍が翼を動かすたび、背中から身体へ力が伝わってくる。ルナは鱗へ両手を添え、前へ身を寄せた。
岩肌が近づいたかと思うと、その上を越えた。
木々の先が、すぐ下を流れていく。
「わっ……」
身体が傾いた。
腰を支えるユニの手に、思わず触れた。
「大丈夫です」
「うん」
分かっていても、肩に力が入った。
ルナは前を向いたまま、少しずつ息を吐いた。
尾根の上に、小さな黒龍がいた。
こちらを追うように首を動かし、翼を広げている。
ルナは片手を上げた。
すぐに離れてしまうと思った。
けれど、子供は岩を蹴り、空へ出てきた。
「あっ」
親の横へ並ぶには、何度も翼を動かさなければならないらしかった。少し後ろから、懸命についてくる。
「ユニちゃん。来たよ」
「はい」
小さな黒龍が顔を向けた。
目が合った気がして、ルナはもう一度手を振った。
親が低く鳴いた。
子供も短く鳴き返し、翼を傾けた。大きく回りながら、離れていく。
黒い姿が尾根へ下りるまで、ルナは見ていた。
「待っててね。帰りも、お願いしてるから」
声が届いたかどうかは分からなかった。
山は、もう後ろへ遠ざかり始めていた。
*
街が見えた。
道の両側に屋根が並び、その間に小さな広場があった。さっきまで歩いていた道も、どこかにあるはずだった。
「あれ、駅かな」
ルナは目を細めた。
建物の脇から、細い線が街の外へ伸びている。
その先には畑が続き、川が光っていた。
列車の窓から見ていたものが、今は一度に見えた。
黒龍の翼が、ゆっくり上下した。
翼の端では、風が大きく鳴っている。それでも、ルナの髪は頬に触れる程度にしか揺れなかった。
「ユニちゃん、風、遠ざけてくれてる?」
「はい」
「ありがとう。目を開けていられる」
ルナは背筋を少し伸ばした。
にゃん吉君が二人のそばで丸くなっていた。黒い鱗の上で、白い身体が小さく揺れている。
「にゃん吉君も、見てみたら?」
顔が上がった。
けれど、周りを一度見ただけで、また丸くなった。
「……いつも浮いてるから、珍しくないのかな」
「ワン」
ルナは笑った。
その拍子に、握りしめていた指が少し緩んだ。
空を飛ぶのは、初めてではなかった。
島へ渡ったときは、ユニに抱えられ、雨と風の向こうを見ていた。
今は、遠くまで見えた。
山の陰に隠れていた川が、もう一度現れる。小さな町を通り、緩く曲がりながら、明るい方へ続いていく。
やがて、その先に海が広がった。
*
海岸を越えると、地面の色が途切れた。
下には、青い水面が続いていた。
沖を進む船が一隻あった。
帆は小さく、甲板の上にいる人までは見えない。船の後ろへ伸びる白い跡だけが、長く残っていた。
あそこから、こちらは見えるのだろうか。
ルナは船を目で追った。
黒龍の影に気づいて、誰かが空を見上げているかもしれない。
そこに人が乗っているとは、思わないかもしれない。
「ロークさんたちに、話したいな」
「黒龍に会えたことですか?」
「うん。乗せてもらったことも」
ルナは鱗へ置いた手を見た。
手紙に書くなら、どこから話せばよいのだろう。
大きかった、と書くだけでは、あの谷へ下りてきたときの感じは伝わりそうになかった。
「姉さんにも、書かないと」
姉が教えてくれた黒龍に会った。
子供は無事に育っていた。
その親に、今は空を運んでもらっている。
書きたいことが、また増えた。
ルナは収納バッグへ目を落とし、それから海へ視線を戻した。
手帳を出すのは、下りてからにしようと思った。
今は、この景色を見ていたかった。
黒龍は海の上を進んだ。
陸は次第に薄くなり、やがて振り返っても見分けられなくなった。
行く先には雲があった。
近づくほどに大きくなり、下から見ていた平たい形ではなくなっていく。明るいところと、青みを帯びた深いところが重なっていた。
「上がるぞ」
黒龍の声がした。
ルナは前へ向き直った。
「はい」
首の向こうに、空が増えた。
海が遠くなる。
ルナはユニの手に触れ、白い雲が近づいてくるのを見つめた。
*
翼の先が消えた。
続いて、黒龍の頭も白くかすんだ。
周りが見えなくなり、ルナはすぐ後ろを振り返った。
ユニはそこにいた。
「これ、雲の中?」
「はい」
手を伸ばした。
白いものをつかめる気がしたけれど、指の間には何も残らなかった。
それなのに、少し先にあるはずの翼も見えない。
ルナは手を戻した。
黒龍は迷わず進んでいた。
背の動きと、翼が空気を打つ音が続いている。
やがて、前の方が明るくなった。
薄い白が流れ、黒龍の頭が現れた。
次の瞬間、空が開けた。
「……わあ」
ルナは顔を上げた。
青かった。
その下を、雲がどこまでも埋めていた。
丸く盛り上がったところも、低く沈んだところもある。谷から見上げていた雲の上に、今、自分がいた。
黒龍が翼を広げたまま滑るように進んだ。
ルナは左右へ顔を向けた。
海も陸も見えなかった。
「雲って、上にもこんな景色があるんだね」
返事を待たず、また前を見た。
白い広がりの向こうに、暗いものがあった。
初めは、雲の影だと思った。
けれど、近づいても形が崩れなかった。
雲が流れる。
その奥から、岩が現れた。
*
ルナは瞬きをした。
岩肌が、空の途中で途切れていた。
下には何もなかった。
細く尖ったところも、張り出したところもある。その下を白い雲が通り過ぎ、向こうの青空が見えた。
視線を上げると、岩の縁に緑があった。
木だった。
何本もの木が、空の上に根を下ろしていた。
「島……」
声に出してから、もう一度、その下を見た。
海に浮いているのではなかった。
山の頂だけが雲から出ているのでもなかった。
岩の底まで、見えていた。
「あれが、そうだ」
黒龍が言った。
ルナは頷こうとして、ただ見つめた。
天空に浮かぶ島。
手帳に何度も書いた言葉が、目の前にあった。
黒龍は島の縁に沿って進んだ。
岩の割れ目から草が伸びていた。上へ回り込むと、木立の間に開けた場所が見えた。
その奥には、小さな建物の屋根があった。
「あそこに、いるんですか?」
「訪ねてみるといい」
ルナは屋根を見つめた。
最古の十二災神。
どんな姿をしているのかも、どんな声で話すのかも知らない。
眠りを届ける女性の、静かな返事が頭をよぎった。
ルナは膝の上で手を重ねた。
聞きたいことはあった。
願いの泉のこと。
自分が魔法を使えないこと。
答えを聞くのが、少し怖くもあった。
「ルナ」
ユニに呼ばれ、振り返った。
「もう、下りますよ」
「うん」
ルナは前へ向き直った。
ここまで来たのだ。
自分の言葉で、尋ねたかった。
*
翼が大きく開いた。
草が倒れ、木々の枝が揺れた。
足が地面に触れると、黒龍の背が一度沈んだ。ルナは鱗へ手を添え、揺れが収まるのを待った。
翼が畳まれる。
風の音が小さくなった。
にゃん吉君が顔を上げ、草の上へ浮かんでいった。
「着いたぞ」
「ありがとうございます」
ルナは頭を下げた。
ずっと座っていたせいか、脚が固まっていた。少し動かしてから、地面までの高さを確かめる。
「ユニちゃん、下りるのもお願い」
「はい」
支えられて、背から離れた。
近づいてくる草を見ながら、ルナは足を伸ばした。
靴の底が土に触れた。
膝を伸ばし、自分の足で立つ。
草の匂いがした。
近くの木で、葉が擦れ合っていた。
ルナは足元を見た。
海も、雲も、今は見えない。
けれど、この土の下には空がある。
そっと片足へ体重をかけた。地面はしっかりと身体を支えていた。
「本当に、着いたんだね」
「はい」
ユニが隣に立った。
ルナは収納バッグから長杖を取り出した。
石突きを下ろすと、小さな石に当たって音がした。
木立の間から、先ほど見えた屋根がのぞいていた。その方へ、草の薄い道が続いている。
にゃん吉君が振り返った。
ルナはユニを見上げた。
「行こう」
頷く顔を見てから、前を向いた。
長杖を持ち直し、ルナは天空の島に、最初の一歩を踏み出した。




