第1章 第12話 黒いマナ
セレナへ戻ったルナは、まっすぐ荷物を預かった商店へ向かった。
店の前には、二回目に運ぶ予定の荷物が残されている。
「一回目の荷物は、農園に届けました」
「ああ、ありがとう。だが、残りは明日でいい」
店主は西の方角を気にしながら答えた。
「森から魔物が逃げ出しているらしい。農園にも一便は届いているし、今は外へ出ないほうがいい」
「分かりました。ギルドにも報告してきます」
ルナは残された荷物を確認してから、冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの中は、昨日よりも騒がしくなっていた。
西側森林に関係する依頼はすべて停止され、調査へ向かった冒険者たちとの連絡を待っている。受付嬢へ荷物運びが延期になったことを伝えると、依頼書へ事情が書き加えられた。
「依頼主の了承があるので、今日はここまでで大丈夫です。報告ありがとうございます」
「はい」
「それと、西門の周辺で住民の誘導が始まっています。戦闘ではありませんが、手を貸してもらえますか?」
ルナは長杖を握り直した。
「はい。やります」
ユニとにゃん吉君も一緒に、ルナは西門へ向かった。
西門の前には、昨日より多くの冒険者が集まっていた。
「また来たぞ!」
衛兵の声が飛ぶ。
森から、次々と生き物たちが飛び出してくる。
角ウサギ。森狼。青い羽を持つ鳥型の魔物。地面を這う、大きな鱗の爬虫類。木々の間を跳ねる、人ほどもある巨大な虫。
その中には、ルナが名前すら知らない六本脚の魔物もいた。
地を走るものも、空を飛ぶものも、どれもセレナへ向かってはいなかった。
ただ一つ。
森から遠ざかろうとしていた。
「怖かったんだ……」
ルナが呟くと、隣でユニが静かに答えた。
「はい」
やがて、西門の閉鎖が告げられた。
衛兵たちが門へ向かう人々を止め、周辺の住民へ声をかけ始める。ギルドからも、西側森林に関係する依頼の停止が改めて伝えられ、Cランク以上の冒険者を対象に街道周辺の警戒依頼が出された。
町の西側が、少しずつ昨日までとは違う場所になっていく。
ルナはユニを見る。
「ユニちゃんは、まだ行かないの?」
「はい」
「どうして?」
「何から逃げているのか、まだ分かりません」
森で何が起きているのか。それも、まだ分からない。
そのとき。
「森の調査に行った連中が戻ったぞ!」
声が上がった。
朝、ギルドの調査依頼を受けて森へ向かった冒険者たちだった。大きな傷はない。しかし、その顔は固まっていた。
「……おかしい」
一人の冒険者が、森を振り返りながら呟く。
「生き物がほとんどいない。魔物だけじゃない。獣も鳥もだ」
周囲が静かになる。
「奥へ行くほど、何もいなくなる。それに……木が黒くなってる。葉も、幹も、草までだ」
「黒く?」
「ああ。空気も変だった。理由は分からない。でも……あそこに長くいたくない」
ルナは森を見る。
「……ユニちゃん」
返事がない。
ユニは、じっと森を見つめていた。その頭の上で、にゃん吉君も同じ方向を見ている。
「にゃ」
「……にゃ?」
ルナが瞬きをする。
いつもの「ワン」ではなかった。
「聞こえましたか?」
「にゃ」
ユニが一歩を踏み出す。
さっきまで動かなかった足が、迷いなく西門へ向かう。
「行ってきます」
「私も――」
ルナは言葉を止めた。
長杖を握り、森を見る。
そして、ゆっくりと手の力を抜いた。
「……行ってらっしゃい」
「はい」
「帰ってきたら、教えてね」
「はい」
「今回は『質問によります』じゃないんだ」
「まだ質問されていませんから」
「……そうだったね」
「にゃ」
ルナは少しだけ笑った。
「にゃん吉君も、気をつけてね」
「にゃ」
衛兵が脇の通用扉を開く。
ルナは、森へ向かうユニたちの背中を見送った。
その後ろから、受付嬢の声が聞こえる。
「ルナさん、こちらを手伝ってもらえますか!」
西門近くにいた住民たちを、東側へ誘導している。
ルナは振り返った。
「はい!」
長杖を握り直し、今度は町の方へ走った。
*
森へ足を踏み入れると、異変はすぐに形を取っていた。
一本の木。幹の一部が黒く変色し、その先の葉は枯れ落ちている。
奥へ進むほど黒は濃くなり、鳥の声も、虫の音も聞こえなくなった。
空気そのものが重い。
臭いでもない。冷気でもない。
ただそこにいるだけで、逃げなければならない。そんな感覚だけが、胸の奥から湧いてくる。
やがて、森が開けた。
そこに、一頭の大鹿がいた。
四本の脚は太く、枝のように広がる角には苔や蔦が絡みついている。長い時間を、この森で生きてきたことが分かる。
その身体のあちこちが、黒く侵食されていた。
それでも、大鹿は逃げていない。
じっと、森の奥を見つめている。
その周囲に漂う淡い光から、小さな精霊が姿を現した。
「……来てくれた」
「あなたが呼びましたか?」
「うん。この子と一緒に」
ユニは大鹿を見る。
「あなたも、逃げられましたよね」
大鹿は答えない。
ただ静かに、森の奥を見つめている。
「この子が最後まで残っていたの」
精霊がぽつりと言った。
「みんなが逃げるまで、ここにいたの」
ユニは大鹿を見上げる。
「そうですか」
それだけ答えた。
精霊が、黒くなった地面を見る。
「最初は、こんなに黒くなかったの」
小さな声だった。
「何もいないのに怖くなるの。逃げたくなるの。黒いところが広がるたび、みんながもっと怖がって……」
「怖がったことが、悪いわけではありません」
精霊が顔を上げる。
ユニは黒くなった地面を見ていた。
「怖いものは、怖いです」
「……うん」
ユニの頭の上から、にゃん吉君がふわりと浮かび上がった。
「にゃ」
地面には降りない。空中で止まり、しばらく何もない地面を見つめている。
そして、小さな手を伸ばした。
空間へ、ひょいと手を差し入れる。
水面をすくうように、手を返した。
黒いものが、音もなく地面を透過して現れた。
液体にも、煙にも見える。
地下へ広がっていた黒が、細い糸を引くように、ゆっくりと一か所へ集まってくる。
木々から。草から。地面から。
森に広がっていた黒が、にゃん吉君の手元へ集まっていく。
精霊が息を呑む。
にゃん吉君は、集まった黒をしばらく見つめた。
そして、片手を伸ばす。
ぷに。
小さな肉球が、黒に触れた。
音もない。光もない。
黒い塊は、ただ、そこから消えた。
精霊が何度も瞬きをする。
「……どこにいったの?」
「にゃん吉君のところです」
「どこ?」
「分かりません」
にゃん吉君は何事もなかったように、ユニの頭の上へ戻った。
「にゃ」
*
その頃、西門の近くでは、まだ住民の誘導が続いていた。
「こちらです!」
ルナが声を上げる。
「西側から離れてください! 荷物はあとでも大丈夫です!」
受付嬢と一緒に、小さな子どもを連れた母親、足の遅い老人、店を閉めて出てきた人たちを、少しずつ東側へ案内していく。
そのとき、低い唸り声が聞こえた。
一匹の角ウサギが、物陰から飛び出してきた。
小柄な魔物。目を見開き、全身の毛を逆立てている。
周囲にいた冒険者たちが、剣や槍へ手を伸ばした。
「待ってください」
ルナの声が通った。
冒険者たちが振り返る。
怖い。
長杖を持つ手が、少しだけ震える。
それでも、ルナは角ウサギを見た。
耳は固く後ろへ伏せられている。呼吸は激しく、何度も背後の森を振り返っている。
ルナは握っていた長杖を、ゆっくりと下ろした。
構えを解き、自分の足元から脇へ数歩退く。
「こっち、開けてください」
「何?」
「道です」
ルナは角ウサギから目を離さない。
「道を開けてください」
衛兵と冒険者たちが、少しずつ左右へ分かれる。
道が開く。
角ウサギは荒い呼吸のまま、しばらく動かなかった。
やがて、目の前に伸びた道を見る。
そして、飛び出した。
誰にも襲いかからず、誰にも目を向けず、開かれた道をひたすら走っていく。
誰も追わなかった。
ルナは、遠ざかっていく小さな背中を見送った。
それから、ひとつ深く息を吐いた。
*
黒いものが消えても、黒くなった木々はすぐには元へ戻らなかった。
枯れた葉も、傷んだ草も、そのままだった。
それでも、森を覆っていた重苦しさは消えている。
風が吹く。
久しぶりに、葉が揺れる音がした。
大鹿が、ゆっくりと顔を上げる。
低く、長い声を響かせた。
しばらくして、遠くから小さな声が返ってきた。
一つ。
また一つ。
精霊が、その音を聞いている。
「……帰ってくるかな」
「分かりません」
「そっか」
ユニも森を見る。
元に戻ったわけではない。黒くなった木々も、枯れた草も残っている。
それでも、風は吹いている。
遠くから、もう一度、小さな鳴き声が聞こえた。
「帰りますか、にゃん吉君」
頭の上で、にゃん吉君が少しだけ顔を上げた。
「にゃ〜……」
一拍。
「ワン?」
ユニは少しだけ上を見る。
「どちらですか?」
「ワン」
「そうですか」
ユニは森をあとにした。




