第5章 第20話 道を横切るもの
建物の間を抜けると、石畳は草の下へ消えた。
ルナは長杖の先で草を分けた。平たい石が二枚、同じ向きに並んでいる。その先にも、土に埋もれた角が見えた。
「こっちにも、道が続いてたんだね」
木々の間には、人が並んで歩けるほどの隙間があった。
張り出した枝をくぐり、先へ進む。潮の匂いが薄れ、湿った土の匂いがした。
ルナは一度、後ろを振り返った。
女性の姿はもうない。崩れた建物が、木の間に少し見えるだけだった。
「ルナ?」
「ううん。行こう」
顔を戻したとき、前方の茂みが大きく揺れた。
灰色の背中が横切った。
ルナは立ち止まり、長杖を握り直した。
その後ろにも、もう一つ。
枝を押し分けて、角のある頭が現れた。
*
角は頭の両側へ張り出し、先だけが上を向いていた。分厚い首の後ろには、硬そうな突起が並んでいる。
背はルナの頭より高かった。
魔獣は鼻を低くして道へ出ると、反対側の草を食べ始めた。
その脇を、ひと回り小さな二頭が通り抜ける。さらに奥から、大きなものが続いた。
「ユニちゃん、少し戻ろう」
「はい」
ルナは群れから目を離さず、太い木のそばまで下がった。
重い足が土を踏む音が、次々と近づいては遠ざかる。
道の右側は緩い斜面になっていた。その下に草地が広がり、魔獣たちはそこへ下りているらしかった。
「通り過ぎるまで、待ってみようか」
五頭、六頭。
数えかけたところで、また奥の枝が揺れた。
まだいる。
小さな一頭が道の途中で立ち止まり、鼻を上げた。
ルナたちの方を向いている。
ルナは息を詰めた。
すぐ後ろから来た大きな魔獣が、その脇へ鼻先を押しつけた。小さな方は足を踏み替え、斜面を下っていった。
ルナはゆっくり息を吐いた。
草地では、灰色の背中がいくつも並んでいた。首を下げ、少し進んでは、また草を食べている。食べた跡だけ、地面がまだらに見えていた。
町の近くの草も、こうして短くなったのだろうか。
木の陰から見ている間にも、新しい魔獣が道へ出てきた。
最後の一頭を待つには、まだかかりそうだった。
ルナは左手の斜面を見た。木の根が段のように露出し、その上から光が差している。
「こっちから、上へ回ってみたい」
ユニが頷くのを見て、ルナは斜面へ杖をついた。
*
落ち葉の下で、石が動いた。
ルナは足を戻し、露出した根の手前へ置き直した。下からは、まだ群れの足音が聞こえる。
「ここ、石が動くよ」
「はい」
後ろのユニへ伝え、一歩ずつ登った。
頭上では、にゃん吉君が枝の隙間をすいすいと進んでいる。
「にゃん吉君は、楽そうだね」
「ワン」
返事をされて、少し笑った。
最後の段差で、ルナは上へ杖を寝かせた。根に手を掛け、片膝をついて身体を持ち上げる。
立ち上がると、風が頬に当たった。
「……わあ」
草地は、木の間から見たよりずっと広かった。
群れが長い列になって、森から出てきている。遠くの魔獣は草に身体が隠れ、角と背中だけが動いていた。
その向こうには、また森がある。
低い山の奥へ、青みがかった稜線が幾重にも続いていた。いちばん遠い山には雲がかかり、その先は見えない。
左右を見渡しても、反対側の海はなかった。
「こんなに、奥があるんだ」
ルナは来た方を振り返った。
崩れた町の壁が、木々の間にわずかに見える。その向こうで海が光っていた。
浜から町へ上がり、森を歩き、また町へ戻った。ずいぶん歩いたつもりでいた。
それでも、目の前の山の一つにも届いていなかった。
低い音が響いた。
ルナは草地へ顔を戻した。
魔獣たちが、一斉に頭を上げていた。
草をくわえたまま、動きを止めているものもいる。小さなものが大きな身体の間へ入り、群れの端がゆっくり内側へ寄った。
森の奥で、木が揺れた。
その間を、黒いものが動いている。
初めは岩のように見えた。
けれど、枝の向こうから太い脚が現れ、その上に、黒い剛毛に覆われた肩が続いた。
ルナは杖を引き寄せた。
さっきまで大きいと思っていた灰色の魔獣より、さらに大きい。盛り上がった肩が低い枝を押し上げ、分厚い胴が幹の間を埋めていた。
枝が折れた。
黒い魔獣は止まらなかった。毛に絡んだ枝を引きずり、ゆっくり森の縁へ出てきた。
前脚が斜面の石を踏んだ。
石が傾き、その下から細かな破片がこぼれた。
ここまで離れていても、爪が石をこする音が届いた。
ルナは無意識に一歩下がった。
黒い魔獣が首を動かした。
群れの方へ、幅広い頭が向く。短い鼻先の下で、牙が白くのぞいた。
灰色の魔獣たちは動かなかった。
ルナも、動けずにいた。
やがて黒い魔獣は顔を戻し、森に沿って歩き始めた。木々の間へ身体が隠れてからも、枝の折れる音がしばらく続いた。
「ユニちゃん、あれ……」
「はい」
隣に、ユニが立っていた。
いつもの声を聞いて、ルナは握り込んでいた指を少し緩めた。
草地では、一頭が再び首を下げた。
けれど、森の方を向いたままのものもいた。
ルナは黒い魔獣が消えた辺りを見た。その先にも、歩いてみたいと思っていた森が続いている。
あの身体が隠れてしまうほど、深い森だった。
「今日は、海の方へ戻ろう」
ユニを見上げる。
「この先に何がいるのか、もう少し分かってからにしたい」
「はい」
ルナは来た方へ向き直った。
町の壁と海の位置を、もう一度確かめた。
*
高まりに沿って戻ると、海へ下りる緩い斜面が見つかった。
ルナは木々の間から町を確かめながら、そこを下った。背後で葉が大きく鳴るたびに、足を止めた。振り返っても、木々の間に魔獣の姿はなかった。
波の音が近づいてきた頃には、日が傾いていた。
森を抜けた先は、上陸した浜から少し離れた海岸だった。
「あっちだね。階段が見える」
見覚えのある場所を指さすと、ようやく肩の力が抜けた。
浜の上手に、乾いた平らな場所があった。
ルナは周りを歩いて確かめた。大きな足跡はなく、森からも離れている。波で濡れた砂利の帯より、十分高いところだった。
「ユニちゃん、今夜はここで休みたい」
「分かりました」
収納バッグを下ろし、敷物を広げる。
端を石で押さえている間に、にゃん吉君が真ん中へ下りてきた。
「まだ準備してるよ」
白い身体は、そのまま丸くなった。
ルナは少し見つめてから、隣へ腰を下ろした。
「……まあ、いいか」
パンを一切れちぎって口に入れると、急に空腹を感じた。
海は穏やかだった。
波が引くたび、濡れた砂利が夕日に光る。ルナはゆっくりかみながら、ときどき森へ目を向けた。
*
暗くなる前に、ルナは手帳を開いた。
草を食べていた群れのことを書く。角の形と肩の突起。小さなものも一緒にいたこと。
黒い魔獣については、見えたところだけを描いた。
太い脚。肩を覆う剛毛。幅広い頭と牙。
身体の後ろ側は、木に隠れていてよく見えなかった。
続いて、町と海岸、今日歩いた道を簡単な線で結んだ。群れを避けて登ったところには、曲がった線を足す。
遠くの山を描こうとして、手が止まった。
稜線がいくつ重なっていたか、もう正確には思い出せない。
ルナは山を一つだけ描き、その先を空けておいた。
「全部は、見られないね」
隣のユニへ手帳を傾ける。
「こんなに広いとは思わなかった」
紙の上では、町と今日の道が近くに収まっている。空いているところの方が、ずっと広かった。
ルナは少し前の頁へ戻った。
この世界は、マナで満ちています。
その下には、天空に浮かぶ島のことが書いてある。
島の奥にも、まだ見たいものはあった。
けれど、泉について尋ねたい相手は、別の場所にいる。
ルナはその一行に指を置いてから、手帳を閉じた。
収納バッグから毛布を取り出し、横になる。
目を閉じかけたとき、女性の声を思い出した。
眠りの中へ入ることができる。
ルナはもう一度、目を開けた。
すぐそばで、にゃん吉君が丸くなっている。その向こうにユニが座っていた。
「ユニちゃん」
「はい」
何を聞こうとしたのか、少し迷った。
それから、毛布を肩へ引き寄せた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、ルナ」
目を閉じた。
砂利を洗う波が、引いては戻ってくる。
しばらくは、その音を聞いていた。
次の波を待っているうちに、ルナは眠っていた。




