第5章 第16話 優しい世界
女性は、ルナの問いを静かに聞いていた。
岩の向こうでは、召喚されたばかりの魔獣が草を探していた。
「危険を受け入れなければならないのか、ですか」
女性は小さく首を傾けた。
「受け入れるかどうかを決めるのは、人々自身ですよ」
「……でも、知らないうちに魔獣を送られたら、選べないと思います」
「そうですね」
女性は頷いた。
「では、ルナさん。一つお聞きしてもよろしいですか?」
「……はい」
「町や村の外には、魔獣がいますよね」
ルナは頷いた。
「森には危険な獣がいて、空には大きな龍もいます。人より強い生き物は、いくらでもいるでしょう」
「はい」
「では、そのすべてに、人が暮らしているから町や村へ来ないでください、とお願いするのですか?」
ルナは少し考えた。
女性は、穏やかな声で続ける。
「森を歩けば、魔獣に出会うことがあります。海へ出れば、船より大きな生き物に出会うかもしれません」
ルナは、これまで知った危険を思い出した。
森で出会った魔獣。
姉の手紙で読んだ黒龍。
死海の周囲に渦巻く嵐。
どこへ行っても、危険がまったくない場所などなかった。
「……それは、分かります」
ルナは顔を上げた。
「でも、もともとそこにいる生き物と、あなたたちが人の町へ送り出す魔獣は違います」
「はい。違いますね」
女性はあっさりと認めた。
「私たちは、魔獣を召喚し、各地へ送り出しています。そこは自然に生まれた危険とは違うところです」
「だったら……」
「ですが、ルナさん」
女性はルナを見つめた。
「この世界は、人間だけのためにあるのでしょうか?」
ルナは女性の言葉を聞いた。
人間だけが、この世界で暮らしているわけではない。
それは、ルナも知っている。
「人が住んでいる場所には危険を近づけず、人がいない場所だけに魔獣を送り出す。それが、人間にとって望ましいことなのは分かります」
女性は、岩の向こうの魔獣へ目を向けた。
「けれど、世界のすべてを、人間にとって都合のよい形にすることが、正しいのでしょうか?」
「……そんなことは」
「人間が、この世界の中心にいるとお考えですか?」
穏やかな問いだった。
責めるような口調ではない。
ルナは首を振った。
「……思っていません。でも、行き先を決められるなら、そこで暮らす人のことも考えてほしいんです」
女性はルナを見つめた。
「それは、人間にとって大切な願いなのでしょうね」
「人間だけじゃありません」
ルナは答えた。
「魔獣だって、行き先を決められないんですよね」
女性は少しだけ目を細めた。
「そうですね」
「だったら、どこへ送るのかは、大切なことだと思うんです」
女性は静かに頷いた。
「ですが、私たちが優先するのは、世界全体の循環です。人間の暮らしだけを基準に、送り先を決めることはできません」
ルナは口を閉じた。
女性の考えは分かった。
けれど、それが町へ魔獣を送り出してよい理由になるとは、まだ思えなかった。
*
ルナは、先ほど召喚された魔獣が歩いていった方を見た。
「……あの子は、生まれたばかりなんですよね」
「はい」
「それでも、いつかどこかへ送られて、倒されるかもしれない。それも、世界のために必要なことなんですか?」
女性は頷いた。
「はい。濁りを清めるためには、討伐されることが必要です」
「……そうですか」
ルナは目を伏せた。
魔獣を倒すことで、濁りが浄化される。
魔石が残り、人々の暮らしを支える。
その説明は聞いた。
けれど、目の前で草を食べていた魔獣を思い出すと、簡単には割り切れなかった。
「ルナさんは、魔獣のことも心配なんですね」
「……はい」
ルナは頷いた。
「町で人を襲うのは怖いです。でも、この島では、何もしてこなかったから」
女性は少し目を細めた。
「魔獣が人を襲えば、人を心配する。魔獣が討伐されると知れば、今度は魔獣を心配する」
ルナは顔を上げた。
「……おかしいですか?」
「いいえ」
女性は首を振った。
「優しい考え方だと思いますよ」
頭上で、にゃん吉君が小さく鳴いた。
「ワン」
けれど、女性は続けた。
「ただ、その優しさだけでは、世界の濁りを清められません」
「……はい」
「魔獣を討伐しなければ、マナの循環は滞ります。放っておけば、ほかの魔獣が暴走する危険もあります」
女性は掌を開いた。
先ほどの光が、小さく浮かぶ。
灰色の筋が、その内側でゆっくりと動いていた。
「一匹を守ることが、ほかの多くの命を危険にさらす場合もあるんです」
ルナは光を見つめた。
何かを守ろうとすれば、別の何かに影響が出る。
ただ魔獣を送り出さなければいい、とは言えない。
「……でも」
ルナは顔を上げた。
「危険を減らす方法を、考えることはできますよね」
女性は光を消した。
「もちろんです」
「全部の魔獣を止められなくても、町の人に知らせたり、逃げる場所を作ったり」
ルナは言葉を探した。
「そうすれば、助かる人もいると思うんです」
「そうでしょうね」
女性は頷いた。
「だから、人々は町を守る方法を考えてきたのでしょう」
「……はい」
「そうした工夫も、この世界の一部ですよ」
ルナは女性を見た。
世界の仕組みそのものは変わらない。
けれど、その中で人が何をするかまで、決められているわけではない。
ルナは自分の長杖へ目を落とした。
魔法は使えない。
それでも、これまでの旅で、自分にできることは少しずつ見つけてきた。
「……だったら、私も考えたいです」
女性は静かに微笑んだ。
「ええ。人がどう備え、何を守るかは、人が選べます」
そして、穏やかな声で続けた。
「この世界は優しい……ただ、甘くはない。そうでしょう?」
ルナはすぐには頷かなかった。
考えることができるのは、確かだった。
けれど、考える間もなく危険に遭う人だっている。
そのことを、忘れたくなかった。
*
「ルナさんは、あの町を見たんですよね」
女性が尋ねた。
「……はい」
「どんな町でしたか?」
ルナは少し考えた。
ゲートの向こうに見えたのは、石畳と建物の壁。
屋根がいくつも並び、その間を人が歩いていた。
「遠くまでは見えませんでした。でも、人が暮らしている町でした」
「そうですか」
女性は頷いた。
「では、この島で見た町は、どうでしたか?」
ルナは顔を上げた。
「……この島の?」
「はい。浜から石段を上った先です」
ルナは、古い町の景色を思い出した。
石畳。
道の端の溝。
欠けた器。
黒く変わった壁。
「……誰も住んでいませんでした」
「そうですね」
「でも、昔は人が暮らしていたんですよね」
「はい」
女性は森の向こうへ目を向けた。
「この島にも、たくさんの人々が暮らしていた時代がありました」
ルナは手帳を取り出した。
石段から続く道。
崩れた建物。
両側が黒く傷んだ壁。
描き留めた図を開く。
「あの……」
「はい?」
「この壁なんですけど」
ルナは手帳を女性へ向けた。
「道の両側にある建物が、どちらも道に面したところを強く壊されていたんです」
女性は手帳を覗き込んだ。
「裏側は、そこまで傷んでいませんでした」
ルナは印をつけた場所を指した。
「私は、何か大きな魔法でも使われたのかなって思ったんです」
「……なるほど」
「この島で、昔、何かあったんですか?」
女性は、しばらく手帳を見つめていた。
それから、静かに頷いた。
「はい。大きな争いがありました」
ルナは息を止めた。
「……争い?」
「この島が、今の姿になるよりも前のことです」
女性は顔を上げた。
「多くの人が暮らしていた時代に、大きな戦いが起きました」
ルナは手帳を見下ろした。
道を挟んで向き合う、二つの印。
争いがあったのかもしれない。
そう考えて書き残した場所だった。
「じゃあ、あの壁は……」
「その戦いで傷ついた場所も、あるのでしょうね。ただ、すべての傷が同じ理由でできたとは限りません」
ルナは頷いた。
まだ、分かっていないことは多い。
それでも、この島で大きな戦いがあったことは分かった。
「……魔獣が襲ってきたんですか?」
女性は首を振った。
「魔獣だけが、争いの原因になるわけではありませんよ」
ルナは顔を上げた。
「人間同士でも、争うことはあります」
女性の声は、静かだった。
「この島でも、人々が互いに戦った時代がありました」
ルナは、欠けた器を思い出した。
あの器を使っていた人たち。
食事を作り、誰かを待っていた人たち。
その暮らしが、戦いによって変わってしまったのだろうか。
「……どうして、争ったんですか?」
「理由は、一つではありませんでした」
女性は答えた。
「何を守りたいのか。何を手に入れたいのか。その考えが違えば、人は争うこともあります」
ルナは黙った。
魔獣がいなくなれば、すべての危険がなくなる。
そんな単純な話ではなかった。
けれど。
「……それでも、争わずに済む方法はなかったんでしょうか」
女性はすぐには答えなかった。
「そう考えた人も、いたでしょうね」
ルナは手帳を閉じた。
遠い昔のことだった。
それでも、石畳も、欠けた器も、壊れた壁も、確かに残っている。
*
「……人がいなくなったのも、その戦いが理由なんですか?」
ルナが尋ねると、女性は頷いた。
「大きな理由の一つです。争いによって、この島の暮らしは変わりました」
「そうだったんですね……」
女性は森の向こうへ目を向けた。
「この島で大きな争いがあった頃、人間の数は、今ほど多くありませんでした」
「……え?」
ルナは顔を上げた。
「今より、少なかったんですか?」
「はい」
女性は頷いた。
「それでも、人々は大きな争いを起こしました」
ルナは、黒く変わった石壁を思い出した。
あれほどの傷が残る戦い。
その頃は、今よりも人が少なかったという。
「……今は、もっとたくさんの人がいるんですよね」
「そうですね」
「だったら、また同じような争いが起きるんでしょうか」
「それは、人々が何を選ぶかにもよるでしょう」
女性は穏やかに答えた。
「ただ、人が増えれば、世界に与える影響も変わっていきます」
「世界に……」
「はい。人間も、この世界を形作る存在の一つですから」
ルナは隣のユニを見た。
ユニは静かに二人の話を聞いている。
ルナは考えた。
人が増えること。
町が広がること。
魔獣がいること。
マナが巡ること。
どれも、別々の話だと思っていた。
けれど、女性はそれらを、同じ世界の出来事として見ている。
「……あなたたちは」
ルナは顔を上げた。
「マナを清めることだけを考えているわけじゃないんですね」
女性はルナを見つめた。
「どうして、そう思ったんですか?」
「さっきから、人が増えたことや、昔の争いの話もしているから……」
ルナは少し迷ってから続けた。
「魔獣のことだけじゃなくて、世界全体のことを考えているのかなって」
女性は小さく微笑んだ。
「よく聞いていましたね」
その返事を聞いても、ルナは安心できなかった。
世界全体。
十二災神の役目。
その言葉が、少しずつ重なっていく。
「……十二災神には」
ルナは女性を見つめた。
「魔獣を召喚したり、送り出したりする以外にも、役目があるんですか?」
女性は頷いた。
「はい。ありますよ」
ルナは長杖を握り直した。
「……どんな役目ですか?」




