第5章 第13話 残された暮らし
崩れた建物の向こうで、石が転がる音がした。
ルナは手帳をしまい、長杖を両手で持った。
「……何かいる」
「はい」
壁の陰から、大きな頭が現れた。
灰色の毛に覆われた魔獣だった。背中には短い突起が並び、太い前脚が石畳を踏んでいる。
ルナは一歩下がった。
魔獣が顔を向ける。鼻先が動き、こちらの匂いを確かめているようだった。
すぐ後ろには崩れた石壁がある。ルナは脇の通れる場所を確かめ、魔獣へ目を戻した。
「ユニちゃん……」
「ここで見ていましょう」
魔獣はしばらく二人を見ていた。
やがて顔を下げ、足元の草を噛み取った。
「……食べてる?」
「そうですね」
また一歩進み、別の草を食べる。
ルナが杖を持ったまま待っていても、こちらへ近づいてはこなかった。
太い身体が壁の向こうへ消える。しばらくは草を引きちぎる音だけが聞こえていたが、それも遠ざかっていった。
ルナは息を吐いた。
リーネの町では、男の子へ飛びかかった魔獣がいた。
この島では、目の前を通っても襲ってこない。
「ここでは、私たちがいても気にならないのかな」
ルナは魔獣が歩いた先を見た。
食べ残された草が、崩れた石の間で揺れている。
その下に、細い溝が覗いていた。
「……あれ?」
ルナはしゃがみ、落ち葉を払った。
隣の石にも、同じ幅の溝がある。
土に埋まって途切れた先で、また同じ線が見えた。
「これ、つながってる」
道の端に沿って、建物の間へ続いていた。
*
溝を確かめながら進むと、道は少しずつ広くなった。
ルナは振り返った。
石畳は海の方へ緩やかに下っている。溝も、その傾きに沿っていた。
「雨の水を流してたのかな」
今は土や落ち葉が詰まり、水は流れていなかった。
顔を上げると、右側に大きな建物の跡があった。
入口らしい隙間が広く、ほかの建物より壁が厚い。
ルナは敷居の外から中を覗いた。
砕けた石の向こうに、長い石の台が残っていた。その上には、浅い器が一つ載っている。
「……お皿?」
足元を確かめて近づく。
器は片側が欠け、内側に土がたまっていた。台の下にも、似た色の破片が落ちている。
ルナは手を伸ばしかけて、止めた。
縁には細いひびがある。持ち上げたら、そのまま割れてしまうかもしれなかった。
「ここで、ご飯を食べてたのかな」
「そうかもしれませんね」
壁際には、内側の黒くなった石組みがあった。近くに、底の抜けた金属の容器も転がっている。
ルナは石組みと台を見比べた。
火を使って何かを作り、ここへ運んできたのだろうか。
宿で食事を待っていたときのことを思い出す。皿の触れる音。奥から届く湯気。にゃん吉君が先に覗き込もうとするのを見て、笑ったこと。
この台の周りでも、誰かがそんなふうに待っていたのかもしれない。
「何を食べてたんだろうね」
ユニは欠けた器へ目を向け、少し顔を寄せた。
「ルナ、縁に色が残っていますね」
ルナも覗き込む。
ひびのそばに、薄い青の線が見えた。
「本当だ。昔は、きれいなお皿だったのかな」
ユニはその線を、しばらく眺めていた。
風が入口から吹き込み、台の隅の土が少し動いた。
ルナは器には触れず、その形と青い線を手帳に写した。
*
建物を出て少し歩いたところで、石畳が途切れた。
道の中央が大きくくぼんでいる。
ルナは縁で足を止めた。
割れた石の一部が黒く、滑らかになっていた。先ほど見た、溶けたような壁とよく似ている。
「ユニちゃん。あの壁も見て」
道の左側にある建物を指した。
道に面した壁は大きく崩れ、残った石も黒く変わっている。
ルナは壁の脇を通り、裏へ回った。
こちらにも欠けたところはある。けれど、積まれた石の角は残っていた。
「こっちは、あまり黒くない」
道へ戻り、向かいの建物を見る。
そちらも道に面した部分が強く傷んでいた。裏側まで確かめてから、ルナは二つの建物の間へ戻った。
「両方とも、道の方なんだ」
ユニが隣に立つ。
ルナはくぼんだ石畳を指した。
「この辺りで何かが起きたら、両側の壁がこんなふうになるのかな」
手帳に道を描き、その左右へ建物を描き足す。
黒くなっていた面に印をつけると、二つの印が道を挟んで向き合った。
ルナは紙と目の前の壁を見比べた。
「……争いでも、あったのかな」
十二災神の魔法が落ちた岩原を思い出した。
地面に開いた穴と、その周りで崩れていった崖。
ルナは手帳の端に『争い?』と書いた。
それから、道を挟んだ二つの印へ目を戻す。
「でも、これだけで戦いの跡だとは言えないよね」
「はい」
ユニは頷いた。
「最初に見た壁も、向こう側を見ておけばよかった」
「戻るときに、確かめましょうか」
「うん。この場所も、分かるように描いておく」
ルナは器のあった建物と、道の溝を書き加えた。
*
道の先で建物が途切れ、広場へ出た。
中央には大きな台座が残っている。上に何があったのかは分からない。片側が欠け、その周りには折れた石柱が散らばっていた。
ルナは台座のそばを通り、広場の向こうへ目を向けた。
建物の間へ続く石畳と、森へ上る坂道がある。
坂の途中では、石畳が土に隠れていた。
「ワン!」
頭上で、にゃん吉君が鳴いた。
ルナが顔を上げると、坂の木々が揺れた。
灰色の身体が現れる。
その後ろにも、もう一匹。少し離れて、三匹目が続いた。
ルナは長杖を持ち直した。
魔獣たちは坂を下り、広場の端を横切っていく。先ほど草を食べていたものと似ていたが、同じ一匹なのかは分からなかった。
三匹はルナたちへ近づかず、建物の間へ消えていった。
ルナは、その姿が見えなくなるまで待った。
坂の下には、土のたまった場所がある。
近づくと、大きな足跡が重なっていた。坂を下るものだけではなく、爪先を上へ向けた跡もある。
「上り下りしてるんだね」
ルナは坂を見上げた。
島の奥で魔獣が召喚されると、あの男は言っていた。
この坂がそこへ続くのかは、まだ分からない。けれど、魔獣たちが町へ来る道の一つではあった。
「ユニちゃん。あの道を上ってみたい」
「はい」
ルナは手帳を開き、広場と坂の位置を描いた。
「帰りは、この広場まで戻ってこよう。最初の壁も、まだ確かめたいから」
「分かりました」
手帳をしまい、坂へ足をかける。
石畳には土が積もり、ところどころに木の根が張り出していた。ルナは杖で足元を確かめながら上った。
木々の間から、広場が見えた。
欠けた台座。その向こうに続く、建物の壁。
器を残してきた場所は、もう見えなかった。
坂の上から風が吹いた。
ルナは前へ向き直る。
湿った土には、まだ足跡が続いていた。
町へ下りてきた魔獣たちが、どこから来たのか。
ルナはその跡を逆にたどり、木々の間へ進んだ。




