第5章 第11話 帰った人
遠くの岩原に、まだ砂煙が残っていた。
ルナはユニの手を握ったまま、その向こうを見つめていた。
「あの人、本当に大丈夫なの?」
「はい。生きていますよ」
「でも、すごい音がしたよ」
「少し遠くまで飛んでしまいましたからね」
ユニは、いつもの調子で答えた。
岩肌の一部が崩れ、その下には砂が積もっていた。男がどこにいるのか、ここからでは分からない。
「……話せるかな」
「話してみますか?」
「うん」
ルナは頷いた。
双岬泊。
島から帰った旅人。
男が使っていたゲート。
それから、願いの泉。
ここまで来て、聞きたいことがいくつもあった。
「でも、また戦いになったら……」
ルナが言いかけると、ユニは首を傾けた。
「大丈夫ですよ」
「……本当に?」
「はい」
ユニはルナの手を握り直した。
「今度は、ルナがお話しする番です」
頭上で、にゃん吉君が鳴いた。
「ワン!」
ルナは小さく息を吐いた。
「じゃあ、行こう」
*
男は、崩れた岩壁の前に座っていた。
上着には砂がつき、片方の袖が破れている。
ルナが近づくと、男はゆっくり顔を上げた。
「……やあ」
声は、先ほどと同じだった。
けれど、ユニへ目を向けた瞬間、男の表情がわずかに変わった。
すぐに視線を戻す。
「君たちだったか」
ルナは数歩手前で立ち止まった。
「……お身体は、大丈夫ですか?」
男は一度、目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
「驚いたな。君は私の心配をするのかい?」
「だって、すごく遠くまで飛ばされて……」
「なるほど。確かに、少々驚かされたよ」
男は自分の上着を見下ろした。
袖についた砂を払う。
その手が、途中で止まった。
「……本当に、驚いた」
今度の声は、少し小さかった。
男は立ち上がった。
動きに不自由はなさそうだったが、ユニとの距離を縮めようとはしなかった。
「さて。改めて話をしようか」
男がルナへ向き直る。
「君たちは、古い港を探していたね」
「はい。双岬泊です」
ルナは手帳を取り出した。
けれど、開こうとして手を止める。
「あの、その前に一つ聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「願いの泉を、ご存じですか?」
男の目が、わずかに細められた。
「願いの泉か」
その名を確かめるように、ゆっくりと言った。
「もちろん、知っているよ」
ルナは顔を上げた。
「本当ですか!」
「ああ。けれど、どこにあるのかまでは、私にも分からないんだ」
「……そうですか」
ルナは少し肩を落とした。
それでも、男がその名を知っていたことは確かだった。
「君は、その泉を探しているのかい?」
「はい」
「何か、叶えたい願いがあるのかな」
ルナは長杖を握り直した。
「……確かめたいことがあるんです」
男は、それ以上尋ねなかった。
「なるほど。だから、こんな島まで来たんだね」
「はい。でも、この島にも、知りたいことがあって……」
ルナは手帳を開いた。
「昔、この島から帰った人の記録を読んだんです」
*
ルナは、帰還者について書かれた頁を示した。
「その人は港に戻って、宿で休んでから話を聞かれていました。でも、帰りに使った船が確認されていなくて……」
男は、手帳へ目を落とした。
「帰りの船が?」
「はい。それに、島で何を見たのかも、うまく説明できなかったみたいなんです」
男はしばらく黙っていた。
やがて、遠くの空を見た。
「……ああ。そんな旅人がいたね」
ルナは顔を上げた。
「覚えているんですか?」
「ずいぶん昔のことだけれどね」
男は片手を上げた。
少し離れた空間に、小さな黒い裂け目が開く。
その向こうには、見知らぬ石造りの建物が見えた。
「こうして別の場所へ通すことができる。船を使う必要はないんだ」
ルナは裂け目を見つめた。
リーネの町で見たゲートと、よく似ている。
「じゃあ、あの人も……」
「ああ。私が送り届けた」
ルナは手帳へ目を落とした。
帰港に用いた船舶については確認できず。
その一行を、もう一度読む。
船が見つからなかったのではない。
最初から、船に乗っていなかったのだ。
「……そうだったんだ」
男がゲートを閉じた。
最後にひび割れるような音がして、黒い裂け目が消える。
「どうして、その人を帰したんですか?」
「帰りたいと言ったからだよ」
男は穏やかに答えた。
「ここに来るのは自由だ。けれど、帰る手段まで持っている者は少ない。あの旅人も、そうだった」
ルナは、島を囲む嵐を思い出した。
あれを越えるのは、船では難しかった。
「その人は、島で何かを見つけていましたか?」
「さあ。本人が何を見つけたのかまでは、私にも分からないよ」
「双岬泊にも行ったんでしょうか?」
男は海の方角を指さした。
「君たちが降り立った入江。その奥に、古い道が残っている」
「道?」
「昔は、海から上がってくる者が通っていた。今では、ほとんど使われていないけれどね」
ルナは手帳をめくった。
二つの岬。
奥まった浜。
そして、石の階段。
「その道に、階段はありますか?」
「あるよ」
「石の階段ですか?」
「ああ」
ルナは思わず手帳を見つめた。
記録と合っている。
少なくとも、自分たちが降り立った入江は、双岬泊のあった場所らしい。
「……見に行きたい」
呟いてから、ルナは顔を上げた。
「ありがとうございます。場所が分かりました」
男は少し笑った。
「よく調べてきたんだね」
「まだ、分からないことばかりです」
「それでも、ここまで来た」
男はユニへ目を向けた。
その表情が、わずかに固くなる。
「……随分と、頼もしい同行者もいるようだしね」
ユニは微笑んだ。
「ルナが決めたことですから」
*
ルナは手帳を閉じかけた。
そのとき、先ほどの戦いで聞いた言葉を思い出す。
「……あの、もう一つ」
「何だい?」
「帰った人が、島でのことをあまり覚えていなかったのは、どうしてなんでしょうか」
「記憶が?」
「はい。さっき、ユニちゃんに老いを与えようとしていましたよね」
男は黙っていた。
「その人にも、同じことをしたんですか?」
風が吹いた。
男の破れた袖が、小さく揺れる。
「確かに、私には老いを与える力がある」
男は自分の手を見つめた。
「けれど、あの旅人が何を覚えていて、何を忘れていたのか。そこまでは、私も確かめていないんだ」
ルナは返事を待った。
しかし、男はそれ以上話さなかった。
「……そうですか」
帰った方法は分かった。
けれど、記憶が曖昧になった理由までは、まだ分からない。
ルナは手帳の余白に短く書き加えた。
帰還方法はゲート。
記憶については不明。
そこで、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「あの、魔獣についても聞いていいですか?」
「もちろん」
「リーネの町で、魔獣に襲われた男の子がいたんです」
男は、静かにルナの話を聞いていた。
「ユニちゃんが助けてくれました。その魔獣はゲートへ戻っていって……」
ルナは言葉を切った。
「でも、この島の浜で同じ魔獣を見たんです」
「ああ。それなら、ここから送り出されたものだろうね」
「この島から?」
「そうだよ。島の奥では、魔獣が召喚されているんだ」
ルナの手が止まった。
「……召喚?」
「ああ。そこに現れた魔獣を、私がゲートで各地へ送り出している。ダンジョンにも、人間の町にもね」
ルナは、すぐには返事ができなかった。
リーネの町で見た光景が浮かぶ。
黒い裂け目から現れた魔獣。
逃げ惑う人々。
泣きながら動けなくなっていた男の子。
「……あなたが、送ったんですか?」
「そうだよ」
男は穏やかに答えた。
「でも、あの町には人がいました。小さな子も……」
「そうだね」
「それなのに、どうして?」
男は少し考えた。
「魔獣を送り出すことも、私の役目だからだよ」
ルナは杖を握り直した。
「さっき、戦う場所を変えましたよね」
「そうだったね」
「魔獣たちを巻き込みたくないからって」
「ああ」
ルナは浜で見た魔獣を思い出した。
こちらを見ても襲ってこなかった一匹。
森の奥へ、静かに歩いていった姿。
「ここでは、あの魔獣たちを守ろうとしていたのに……」
ルナは言葉を探した。
「どうして、町の人たちは危ない目に遭ってもいいんですか?」
男は、しばらくルナを見つめていた。
「君には、納得できないかな」
「……はい」
ルナは頷いた。
「私には、分かりません」
男は怒らなかった。
ただ、静かに答えた。
「そうだろうね。人間から見れば、そういうものかもしれない」
それだけだった。
ルナは、もう一度尋ねようとした。
けれど、男の様子からは、その先の答えが見えてこなかった。
この男は、魔獣に襲われた男の子を知らない。
あの町で、人々がどんな思いをしたのかも。
それなのに、自分が送り出したとためらいなく認めている。
「……島の奥へ行けば、魔獣が召喚されるところも見られるんですか?」
男は少し目を細めた。
「行けば分かるだろうね」
「そこへ行っても、いいんですか?」
「止めはしないよ」
男はユニを見た。
一瞬だけ、二人の視線が重なる。
「……もっとも、私に止められるとも思えないけれどね」
ユニは何も言わなかった。
ルナは手帳を開き、短く書き留めた。
この島の奥で、魔獣が召喚されている。
ゲートでダンジョンや町へ送られている。
けれど、なぜ魔獣を召喚するのか。
なぜ、人のいる町にも送るのか。
そこは、まだ空白のままだった。
*
「そろそろ戻りましょうか」
ユニが言った。
ルナは手帳を閉じた。
「うん。あの浜に戻りたい」
男が片手を上げる。
再び、黒いゲートが開いた。
向こうに、見覚えのある浜が見える。
黒い小石。
海岸へ迫る森。
穏やかな波。
ルナはゲートへ近づきかけて、振り返った。
「教えてくださって、ありがとうございました」
男が頷く。
「役に立てたなら何よりだよ」
「でも……」
ルナは顔を上げた。
「町に魔獣を送る理由には、まだ納得できません」
男は、その言葉を静かに聞いた。
「そうか」
少しの沈黙があった。
「なら、君の目で確かめてくるといい」
ルナは頷いた。
男が道を開ける。
ユニが先にゲートへ向かおうとした。
「ユニ君」
男が呼び止める。
「はい?」
「もう一度会うことがあっても、今度は戦わずに話したいものだね」
ユニは微笑んだ。
「はい。私も、その方がいいと思います」
男は小さく頷いた。
ルナは最後に頭を下げ、ユニと一緒にゲートを抜けた。
頭上のにゃん吉君が鳴く。
「ワン!」
黒い裂け目が閉じる。
*
浜へ戻ると、波の音が聞こえた。
先ほどまでの岩原とは違い、木々の間を穏やかな風が通り抜けている。
ルナは浜の奥へ目を向けた。
森の間には、細い隙間が見える。
その先は、木々に隠れていた。
「石の階段……」
ルナは呟いた。
古い港があった。
帰った旅人もいた。
そして、その人はゲートで帰っていた。
分からなかったことが、一つずつ形になっている。
願いの泉についても、知っている者がいた。
けれど、その場所はまだ分からない。
島の奥では魔獣が召喚され、外の世界へ送り出されている。
その理由も、分からないままだ。
「ユニちゃん」
「はい」
「あの階段の先を、調べたい」
「分かりました」
「それから……魔獣が召喚される場所も、見ておきたい」
ユニは頷いた。
「はい。ルナが確かめたいなら、行きましょう」
頭上で、にゃん吉君が一度鳴く。
「ワン!」
ルナは杖を持ち直した。
森の奥へ、一歩踏み出す。
今度は、自分の足で。
木々の間には、まだ見えない道が続いていた。




