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願いを魔法に  作者: 由吉
五章

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第5章 第10話 助かった

「次は君たちだね」


 男が高台へ顔を向けた。


 ルナは長杖を握り締める。


 巨大な穴の向こうには、まだユニの姿がない。


 男が一歩、こちらへ踏み出そうとした。


「その必要はないですよ」


 声がした。


 男の足が止まる。


 背後だった。


 ゆっくりと振り向く。


 そこには、白銀の髪を風に揺らす少女が立っていた。


 青いコートにも、傷一つない。


「……君は」


 男は、先ほど自分が放った魔法を思い返した。


 大地を消し去るほどの一撃。


 その中心に、確かに少女はいた。


 なのに。


「ユニちゃん!」


 高台からルナの声が届いた。


 ユニはそちらへ顔を向ける。


「はい。お待たせしました」


 いつもと同じ声だった。


 ルナはようやく息を吐いた。


 男は、二人のやり取りを黙って見ていた。


「……なるほど」


 男が口を開く。


「君は、想像していた以上に強いようだね」


「あなたも強いです」


 ユニは男へ向き直った。


「私が出会ってきた中で、一番強いです……」


 男の口元に、わずかな笑みが戻る。


 しかし、ユニは静かに続けた。


「この世界では、ですが」


 笑みが止まった。


「……この世界?」


「はい」


 それ以上、ユニは説明しなかった。


 男は少女を見つめる。


 何を言っているのか、理解できない。


 けれど、あの一撃を受けたあとで、これほど平然と立っていることも理解できなかった。


「……一つ、聞いてもいいかな」


「何ですか?」


「最初に君へ試したものだ。あれが何だったか、分かっているのかい?」


「老いを与える力ですね」


 男の表情が変わった。


 ルナも高台で顔を上げる。


「……老い?」


「そうだよ」


 男はゆっくりと頷いた。


「私が与えた時間の分だけ、相手は老いていく。普通の人間なら、それだけで戦いどころではなくなる」


 ルナは、ユニが同じ場所に立ち続けていた場面を思い出した。


 男が何かを確かめ、わずかに目を見開いたとき。


 あの短い沈黙の間に、そんな力が使われていたのだ。


「だが、君には何の変化もなかった」


 男はユニを見た。


「どうしてだい?」


 ユニは答えず、穏やかに微笑んだ。


「それよりも、まだ続けるんですか?」


 男はしばらく黙っていた。


 やがて、両手を広げる。


「そうだね。ここまで来たのだから、もう少し確かめてみよう」


     *


 空間が裂けた。


 男の周囲だけではない。


 ユニの左右、頭上、背後。


 黒いゲートが幾重にも開く。


 剣が現れた。


 炎が続く。


 雷光が岩原を照らした。


 今度は、男自身も絶えず位置を変えていた。


 正面から放った剣が、背後へ回る。


 別のゲートを通った炎が、足元から噴き上がる。


 ユニがいる場所へ、あらゆる方向から攻撃が集中した。


 ルナは高台から身を乗り出しかけた。


「ユニちゃん!」


 その声が届いたのか、ユニが少しだけ顔を上げた。


 次の瞬間、雷が落ちる。


 辺りが白く染まった。


 けれど、光が消えたあとも、ユニは同じ場所に立っていた。


 白銀の髪が、風に揺れている。


 男は指を動かした。


 新しいゲートが開く。


 ユニの目の前に剣が現れ、別の場所から炎が走った。


 砂が巻き上がり、大地に亀裂が広がる。


 それでも、ユニには何の変化もなかった。


「……おかしいね」


 男が呟いた。


 もう一度。


 今度は違う角度から。


 しかし、結果は変わらない。


 男は初めて、攻撃を止めた。


 ユニは、ただこちらを見ている。


 避けようとしているようにも、防ごうとしているようにも見えなかった。


「……君は」


 男は言葉を探した。


「何をしているんだい?」


「何もしていませんよ」


 ユニが答える。


 その声は、先ほどと変わらなかった。


 男は周囲を見回した。


 砕けた大地。


 崩れた崖。


 深く刻まれた亀裂。


 自分の攻撃が何も起こしていないわけではない。


 その力は、確かに世界へ作用している。


 ただ一人。


 目の前の少女にだけ、何も起きていない。


 男の手が止まった。


「……なるほど」


 口にしてから、気づく。


 何一つ、分かっていない。


     *


 男は、この島を長く管理してきた。


 ゲートを使い、外の世界へ出たこともある。


 人間も、魔獣も、数えきれないほど見てきた。


 強いと呼ばれる者にも会った。


 けれど、自分を脅かす者はいなかった。


 どれほど優れた剣士でも。


 どれほど強大な魔法使いでも。


 自分の力を前にすれば、いずれ動けなくなった。


 それが、男にとっての当たり前だった。


 今も、そうなるはずだった。


 なのに。


 目の前の少女は、何事もなかったかのように立っている。


 男は一歩、後ろへ下がった。


 初めてのことだった。


 敵から距離を取るためではない。


 攻撃の準備でもない。


 ただ、離れたかった。


「……少し、考え直した方がよさそうだね」


 男は微笑もうとした。


 けれど、うまくいかなかった。


 背後にゲートを開く。


 そして、後ろ向きに踏み込んだ。


 出口の向こうは、島から遠く離れた荒れた海岸だった。


 男は振り返る。


 そこに、ユニがいた。


「……え?」


 男は足を止めた。


 白銀の髪。


 青いコート。


 少女は、いつもと同じ表情で立っている。


「どうして、ここに……」


 男はすぐに次のゲートを開いた。


 今度は、以前訪れた山の中腹。


 そこへ飛び込む。


 だが、出口の先にはユニがいた。


「……あり得ない」


 もう一つ。


 今度は、別の大陸。


 誰もいない岩場へ。


 出口を抜けた。


 ユニがいた。


 男は後ずさった。


 何かがおかしい。


 自分が開いているのは、間違いなく自分のゲートだ。


 行き先も、間違いなく自分で選んでいる。


 なのに、どこへ出ても少女がいる。


 男は立て続けにゲートを開いた。


 一つ。


 また一つ。


 距離も、方角も変えた。


 それでも、白銀の髪が目の前に現れる。


 少女は追いかけてくる様子もない。


 走ってもいない。


 ただ、そこにいる。


「……なぜだ」


 男の呼吸が乱れ始めた。


 初めてだった。


 自分の力が、理解できない。


 いや。


 理解できないのは、力ではない。


 あの少女だ。


 男はもう一度ゲートを開いた。


 誰もいないはずの場所へ。


 抜けた瞬間、ユニがいた。


「……っ!」


 男はすぐさま引き返す。


 また開く。


 また抜ける。


 そのたびに、同じ少女がいる。


 男は足を止められなくなっていた。


 考えることも、やめていた。


 ただ、離れなければならない。


 もっと遠くへ。


 もっと、もっと遠くへ。


 目の前の存在から。


 逃げなければ。


     *


 男は最後のゲートを開いた。


 行き先は、最初に戦っていた岩原。


 巨大な穴の反対側。


 ユニの姿が見えなかった場所だ。


 そこへ飛び込んだ。


 足が地面につく。


 男は顔を上げた。


 誰もいない。


 右を見る。


 左を見る。


 空にも、岩原にも、白銀の髪は見当たらなかった。


「……いない?」


 男はもう一度、周囲を見回した。


 ゲートは閉じている。


 青いコートも見えない。


 しばらく、その場から動けなかった。


 やがて、膝に手をつく。


 胸が大きく上下していた。


 息を吸う。


 吐く。


 もう一度。


 男はようやく、長く息を吐いた。


「……助かった」


 その言葉が、自分の口から出たことに気づくまで、少し時間がかかった。


 助かった。


 自分が。


 誰から?


 あの少女から。


 男は目を閉じた。


 これまで、誰かから逃げたいと思ったことなどなかった。


 まして、逃げ切ったことに安堵するなど。


 こんな感覚が、自分の中にもあったのか。


 そう思ったときだった。


「よかったですね」


 背後から、声がした。


 男の呼吸が止まる。


 聞き間違いのはずだった。


 その声は、もう何度も聞いている。


 穏やかで。


 優しくて。


 少しも乱れていない。


 男はゆっくりと振り向いた。


 そこに、ユニがいた。


 白銀の髪を風に揺らして。


 いつものように、微笑んでいる。


「私に出会わなければ、よかったですね」


 男の身体が動かなかった。


 声も出ない。


 目の前にいるのは、小柄な少女だ。


 武器を構えているわけでもない。


 怒っているわけでもない。


 それなのに。


 男は初めて、自分の中にあるものを知った。


 恐怖だった。


 世界を見てきた。


 数多くの命を見てきた。


 その中に、自分を脅かすものなどいないと思っていた。


 けれど今は違う。


 目の前の少女を見ているだけで、身体が逃げようとする。


 頭では分かっていた。


 もう、どこへ逃げても同じだ。


 それでも、逃げたい。


 離れたい。


 この少女の前に立っていたくない。


 男は歯を食いしばった。


 自分が何を恐れているのか、ようやく理解した。


 終わることだ。


 このままでは、自分という存在が終わってしまう。


 そう感じた瞬間。


 男は、考えるより先に動いていた。


     *


 踏み込んだ。


 男は全身の力を、一つの拳へ集めた。


 これまで使ったどの魔法よりも、速く。


 どの剣よりも、重く。


 自分が持つすべてを、その一撃に込める。


 狙いは、ユニの顔面。


 もうゲートは使わなかった。


 魔法も使わない。


 ただ、目の前の存在を遠ざけたかった。


 拳が振り抜かれる。


 衝撃が周囲へ広がり、足元の地面が震えた。


 届く。


 男は、そう思った。


 だが。


 ユニの顔は、動かなかった。


 白銀の髪が、風に揺れている。


 男は拳を見た。


 顔のすぐ前まで来ている。


 なのに、そこから先へ進まない。


 何にも触れていない。


 ユニが受け止めた様子もない。


 ただ、届かなかった。


「……どうして」


 男の声が震えた。


 ユニは静かに男を見つめていた。


「今まで全ての攻撃は到達していません」


 男は息を呑む。


「これからも永遠に……」


 その言葉が終わっても、ユニの表情は変わらなかった。


 男には、もう何も言えなかった。


 自分が知っている強さでは、なかった。


 どれほど速くても。


 どれほど大きな力でも。


 どれほど巧みにゲートを操っても。


 最初から、何一つ届いていなかった。


 男は、目の前の少女を見た。


 その瞳には、怒りがない。


 憎しみもない。


 自分を恐怖させようという色さえなかった。


「そろそろ、終わりにしましょう」


 ユニが言った。


「ルナが待っていますから」


 少女の手が動いた。


 男には、その動きが見えなかった。


 次の瞬間。


 男の姿が、岩原の向こうへ消えた。


 遅れて、遠くの大地が震えた。


 岩壁に大きな亀裂が走り、砂煙が高く立ち上がる。


 ユニは、その方向を一度だけ見た。


 そして、高台へ顔を向けた。


     *


「……ユニちゃん?」


 ルナは高台から岩原を見下ろしていた。


 男がいくつものゲートを開いて姿を消したあと、戦いの様子は見えなくなっていた。


 何度か、遠くで光が走った。


 そして今、地響きがした。


 けれど、何が起きたのか分からない。


 ルナは杖を握り直した。


 そのとき。


「ルナ」


 聞き慣れた声がした。


 振り向く。


 そこに、ユニが立っていた。


「ユニちゃん!」


 ルナは駆け寄った。


「大丈夫なの? 怪我は?」

「はい。大丈夫ですよ」


 ユニは微笑んだ。


 ルナはその姿を確かめた。


 白銀の髪。


 青いコート。


 いつものユニだった。


「……よかった」


 ルナの肩から、力が抜けた。


 頭上で、にゃん吉君が鳴く。


「ワン!」


 ユニが顔を上げた。


「にゃん吉君も、ルナを守ってくれてありがとうです」

「ワン!」


 ルナは小さく笑った。


 それから、遠くの岩原へ目を向ける。


「あの人は……?」


「生きていますよ」


 ユニが答えた。


「もう戦うつもりはないと思います」


 ルナは、巨大な穴を見た。


 その周囲には、崩れた崖や深い亀裂が残っている。


 アメリアでも、ネイでも、あの攻撃に対処するのは難しかっただろう。


 そう思ったことを、ルナは覚えている。


 それでも、ユニは戻ってきた。


 いつもの顔で。


「ユニちゃん」


「はい」


「……あの人、本当に強かったんだよね?」


「はい。とても強かったです」


 ユニは迷わず答えた。


 ルナはもう一度、遠くの大地を見る。


 それほどの相手が、最後には逃げていた。


 どうしてなのか。


 何が違ったのか。


 ルナには、まだ分からない。


 けれど、確かなことが一つあった。


 ユニは、最初から最後まで、ルナを守ってくれていた。


「ありがとう、ユニちゃん」


「はい」


 ユニは少し首を傾けた。


「それで、ルナ。古い港のこと、まだ調べたいですよね?」


 ルナは顔を上げた。


 双岬泊。


 帰ってきた旅人。


 船が確認できなかった理由。


 そして、男が使ったゲート。


 知りたいことは、まだ残っていた。


「……うん」


 ルナは頷いた。


「もう一度、あの人と話してみたい」


「分かりました」


 ユニが手を差し出す。


 ルナはその手を取った。


 遠くでは、まだ砂煙がゆっくりと流れていた。

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