第5章 第8話 嵐の向こう
船底の板が取り替えられ、継ぎ目の詰め直しが終わるまで、数日がかかった。
その間、バルトは船乗りたちを造船場へ連れてきた。
死海に近づくと聞いて断った者もいた。船を見て、ロークの話を聞いてから返事をした者もいた。
必要な人数が揃うと、ルナたちは航海の目的と報酬を改めて確認した。
そして、修理を終えた船が海へ戻された。
「……揺れてる」
岸壁に立ったルナは、船の手すりを見上げた。
木の台に支えられていた船が、今は波に合わせてゆっくり上下している。
親方とロークが船内の確認を終えて戻ってきた。
「水は入っていない。帆も舵も確かめた」
親方が開いた帳面には、板を替えた場所と、継ぎ目の補修が書き足されていた。点検で見つかった古い補修は、時期が分からないまま記されている。
ルナはロークと一緒に内容を確かめた。
修理代と船の残金を払い、引き渡しの書類を受け取る。
「これで、この船はあんたたちのものだ」
船主が言った。
「ありがとうございます」
書類をしまって船へ上がると、にゃん吉君が先に船室へ入っていった。
「ワン!」
覗いてみると、寝台の一つで丸くなっている。
「にゃん吉君、まだ朝だよ」
「場所を確かめているんですね」
「もう決めてるみたいだけど」
ルナが笑っている間にも、水樽や食料が運び込まれていく。
甲板へ戻ると、ロークが帆の上の旗を見ていた。
港の外へ目を向け、しばらく波を確かめる。
「よし。出すぞ」
声を受け、船員たちが持ち場へ散った。
岸壁との間を渡していた板が外される。
ルナはユニと並び、少しずつ離れていく港を見ていた。
*
陸が見えなくなると、どちらを向いても海だった。
朝には眩しかった水面が、夕方には赤くなる。夜、甲板へ上がると、ロークは空を見ていた。
ルナも見上げたが、星の数に目が迷った。
翌日も、その次の日も、船は進んだ。
ある朝、水平線に黒い帯が現れた。
「……雲?」
目を凝らしていると、その内側が青白く光った。
遅れて、低い音が届く。
「見えてきたな」
隣へ来たロークが、海の向こうを見据えた。
「あれが死海ですか?」
「その周りの嵐だ。前に来たときも、ああなっていた」
黒い雲は右にも左にも続いている。
また光が走った。今度は雲から海へ、細い筋が落ちた。
ルナは手帳を開いた。
写した入江の形。その横にある、双岬泊の文字。
「あの方角に、船が通っていたんですよね」
「記録どおりならな」
ロークは海図を見てから、再び顔を上げた。
「双岬泊へ向かう海は、今はあの雲に隠れている。そこまでは、この目で確かめられた」
低い雷鳴が、また届いた。
「何が変わったのかまでは、まだ分からんがな」
船が大きく持ち上がり、ルナは手すりを握った。
ロークが船員へ短く指示を出す。帆が調整され、船の進み方が変わった。
しばらく風と波を見ていたロークが言った。
「ここまでだ」
ルナは手帳を閉じた。
「ここから先は、船では行かないんですね」
「ああ。戻れるうちに向きを変える」
「分かりました」
島はまだ見えない。
ルナは荷物を確かめ、長杖を持ち直した。
「皆さん、ここまでありがとうございました」
バルトが片手を上げた。
「港へ戻ったら、見つかったか聞かせてくれ」
「はい」
ロークにも向き直る。
「帰りも、気をつけてください」
「船は任せろ。そっちも無理はするなよ」
ユニが隣へ来た。
「行きましょうか」
「うん」
にゃん吉君がルナの頭上へ移る。
ユニに抱えられ、甲板から足が離れた。
ルナはユニの肩につかまってから、船へ手を振った。
下では、ロークたちが帰港に向けて帆を動かしていた。
*
近づくと、雲の下まで雨が垂れ込めているのが見えた。
白く砕ける波の間に、黒い海が覗く。
風が吹きつけ、ルナの頬を雨粒が打った。
「ルナ、つかまっていてください」
「うん」
ユニが抱え直すと、頬に当たる雨と風がふっと遠のいた。
すぐ向こうでは、雨が斜めに走っている。
にゃん吉君は、ルナの頭上に浮いたままだった。
「ワン」
目の前が白く光った。
ルナの肩が跳ねる。
雷鳴が響く間も、ユニの腕は揺れなかった。
「……ありがとう」
「はい」
ルナは顔を上げた。
雨の向こうに、陸地は見えない。
黒いものが見えても、近づけば波の影だった。雲の切れ間も、すぐに雨で塞がってしまう。
ユニの肩につかまったまま、ルナは左右へ目を向けた。
そのとき、前方に明るいところが見えた。
「ユニちゃん、あそこ」
雷の光かと思って待った。
けれど、消えない。
ユニもそちらを見た。
「近づいてみましょう」
雨の筋が、少しずつまばらになった。
暗い雲の端を抜けると、ルナは思わず息を吸った。
空が青かった。
下には、穏やかな海が広がっている。
ルナは後ろを振り返った。
黒い雲が続いていた。その中で雷が光る。
低い音が、今いる海まで追いかけてきた。
それでも、足の下の水面には小さな波があるだけだった。
「……ここだけ、違う」
ユニの肩から少し身を起こし、前を見た。
海の向こうに、今度は消えない黒い輪郭があった。
上へ続く岩肌。その脇に広がる緑。
「島だ……」
*
近づいても、島の端はなかなか見えなかった。
森の間から岩山が突き出し、海岸線は何度も折れ曲がっている。
ルナは、その曲がり方を目で追った。
「二つの岬……」
「探すんですね」
「うん。帰ってきた人の話にも、二つの岬の間ってあったから」
ユニは海岸に沿って飛んだ。
一つの岩の突端を過ぎる。その先は、海へ向かって崖が張り出していた。
ルナは首を伸ばした。
崖の向こうで、海岸が奥へ入り込んでいる。
「待って。あそこ、入江になってない?」
ユニが進む速さを緩めた。
角度が変わると、奥まった岸と、その反対側から伸びる岬が見えた。
「二つありますね」
「あの間、もう少し見たい」
「はい」
岬の間を進むと、黒い小石の浜が現れた。
船着き場は見当たらない。浜のすぐ後ろまで、木々が迫っている。
「ここが、昔の港だったのかな」
ルナは岸の形を見比べた。
二つの岬はある。けれど、これだけでは決められない。
「降りて、確かめたい」
ユニは浜へ近づき、ゆっくりと足をつけた。
下ろしてもらうと、靴の下で小石が鳴った。
ルナは杖を握り、森の方へ顔を向けた。
*
木々の間に、動くものがあった。
大きな四本脚の魔獣が、枝を押し分けて出てくる。
ルナは足を止めた。
「ユニちゃん」
「はい」
魔獣が顔を向けた。
ルナは杖を両手で持ち、ユニの隣で待った。
魔獣はしばらくこちらを見ていたが、やがて首を戻した。そのまま浜を横切り、離れた木陰へ入っていく。
「……行っちゃった」
その背中を見送った先にも、別の影があった。
岩の上に、翼を畳んだもの。
斜面には、長い脚をゆっくり動かすもの。
森の奥にも、枝の間を通る大きな身体が見えた。
「こんなに、いるのに……」
最初の魔獣が、斜面の影とすれ違った。
どちらも足を止めない。
ルナたちへ向かってくるものもいなかった。
波が小石を転がす音がした。
ルナは背後の浜を確かめ、もう一度森を見る。
「少し、ここで見ていてもいい?」
「はい」
杖は下ろさなかった。
今、襲ってこなかった一匹が、木陰から顔を出した。
こちらを見ずに、また森の奥へ歩いていく。
*
「ルナ」
ユニが、別の木々の間を見ていた。
「あの魔獣を、覚えています」
ルナは視線を追った。
一匹が低く身を伏せ、浜を見ている。
「どこで会ったの?」
「リーネの町です。ゲートから出てきて、男の子に飛びかかった魔獣です」
ルナの指に力が入った。
人の流れから外れた道。
泣いて動けなかった男の子。
間に合わないと思いながら伸ばした手の前を、青いコートが横切った。
「……あのときの?」
「はい」
ルナは木々の間を見つめた。
魔獣が顔を上げ、ユニへ目を向けた。
飛びかかってはこなかった。
ゆっくりと身を起こし、森の奥へ向きを変える。
「ゲートへ、戻ったはずなのに……」
ルナは声を落とした。
枝が揺れ、その身体が隠れていく。
「どうして、ここにいるの?」




