第5章 第7話 船の値段
宿の部屋の机に、船大工の見積もりが広げられていた。
ルナは手帳を開き、自分の旅費と依頼で貯めた報酬から出せる額を書いた。その隣には、ユニが模型船の競走でもらった賞金がある。
船体の代金。修理。水と食料。船員への報酬。
必要なものを並べると、余裕はほとんどなかった。
「……船の値段が少し下がっても、全部足りるかは分からないね」
「まずは、お話を聞いてみましょう」
「うん。勝手に安くなると思って計算したくないから」
にゃん吉君が机の端へ降りてきた。
「ワン」
「にゃん吉君、そこは見積もりの上だよ」
白い身体が一歩ずれる。
ルナは笑い、紙を重ねた。
「お昼までに、返事をしないとね」
*
造船場には、昨日と同じように船が陸へ上げられていた。
船底には、親方が調べた印が残っている。
ロークと船主は、その前で話していた。
「来たか。見積もりは読んだな?」
「はい。船主さん、二つお願いがあるんです」
船主がルナへ向き直った。
「何だ?」
「最初は、修理の帳面のことです」
ルナは船底の短い板を指した。
「昨日、ここに取り替えられた板があると分かりました。でも、帳面には書かれていませんでした」
「ああ。俺がこの船を買う前の仕事らしい」
「いつ直したのかは分からなくても、昨日確かめたことは残してほしいんです」
船主は帳面を受け取り、ページをめくった。
「次にこの船を持つ奴にも、必要なことか」
「はい」
ロークが横から言った。
「分からない時期まで書くわけにはいかんぞ」
「はい。分かったことだけでいいんです」
船主は頷いた。
「なら、親方の名前と、昨日の点検で見つかった場所を書き足そう。修理が終わったら、その記録も残す」
「ありがとうございます」
ルナは頭を下げた。
「もう一つは、船の値段です」
「やっぱり、そっちも来たか」
船主は少し笑い、腕を組んだ。
ルナは見積もりを広げた。
「帆や舵の整備まで、全部安くしてほしいわけではありません。でも、この板の修理は、船を見る前には分からなかったので……」
「その分を考えてほしい、か」
「はい」
船主は金額を確かめた。
「板の交換費用を丸ごと引くわけにはいかん。この船を売る値段にも、理由がある」
「分かっています。修理代を払っても、船員さんのお金が残るかを考えたいんです」
ロークが、印の付いた船底を見上げた。
「帳面になかった板と、その継ぎ目の修理だな。買い手が気にするのはもっともだ」
しばらくして、船主は紙に数字を書いた。
「ここまでなら下げよう。これ以上は無理だ」
ルナは手帳を出し、数字を写した。
初めに見た値段よりは安い。それでも、修理代を払えば残りは多くなかった。
「この値段で考えます。お昼までに、もう一度来てもいいですか?」
「約束は今日の昼までだ。そこで返事をもらおう」
「はい」
*
ロークが案内したのは、港外れの食堂だった。
テーブルには日に焼けた男が座っていた。ルナたちを見て立ち上がる。
「こいつはバルトだ。前に何度か一緒に船に乗った」
「ルナです。よろしくお願いします」
「ユニ・N・スターチスです」
「バルトだ。座ってくれ」
ロークは椅子を引きながら言った。
「まずは、行き先を話してやってくれ」
ルナは頷いた。
「神に見放された島へ行きたいんです。船には死海の手前まで進んでもらって、そこから先は私たちで空を飛んで行こうと思っています」
バルトがユニを見る。
「本当に飛べるのか?」
「はい。ルナを連れて飛べます」
にゃん吉君がユニの頭上で鳴いた。
「ワン」
「だったら、最初から飛んで行けばいいんじゃないか?」
「空を飛べても、広い海のどこから島を探せばいいのか分からないんです。地図にはおおよその位置しかなくて、そこまでの航路もありません」
ルナは海図を写した手帳を開いた。
「だから、海を知っているロークさんに、方角を確かめながら死海の手前まで案内してもらいたいんです」
ルナは続けた。
「私たちが船を離れたら、ロークさんたちには港へ戻ってもらいます」
「それで、君たちはどうやって帰るんだ?」
「帰りはユニちゃんの力で、前に行ったことのある港へ戻れます」
バルトはユニを見た。
「飛ぶだけじゃないのか?」
「はい。訪れた場所へなら、戻れます」
「なるほど。帰る手段はあるんだな」
「はい。でも、島を見つけられるかは、まだ分かりません。だから、私たちを待っていてほしいとは頼めません。船員さんたちには、安全に帰ってもらいたいんです」
「なるほど。俺たちは、島には行かないわけだな」
「はい。でも、死海に近づく危険がなくなるわけじゃないと聞いています」
バルトはロークへ目を向けた。
「どこまで進む?」
「まだ決められん。海の様子を見て、安全に引き返せる場所までだ。そこに着く前でも危険なら戻る」
ロークは一度、ルナの手帳に目を向けた。
「俺にも理由はある。古い海図に書かれた双岬泊が気になっている。そこまで行くわけじゃないが、あの方角の海が今どうなっているか、この目で確かめたい。ただし、引き返す判断は譲らん」
バルトは腕を組んだ。
「なら、船の上でお前の判断に従う。それはいい。だが、船長をやるかは決めたのか?」
ロークはルナを見た。
「船の修理が終わって、必要な人数が揃うなら、俺が船長を引き受ける。ただし、出航できるかは当日の海を見て決める」
ルナは顔を上げた。
「ロークさん、本当ですか?」
「ああ。条件を忘れるなよ」
「はい!」
バルトも頷いた。
「それなら、俺も乗る方向で考えられる。ただし、報酬は普通の航海と同じじゃ困る」
バルトは、港まで戻る日数も含めて必要な額を伝えた。
ルナは手帳に書き留める。
「……思っていたより高いですね」
「俺たちは行って帰ってくるまでが仕事だ。近づく海も、普通とは違う」
「はい。分かりました」
バルトは意外そうに眉を上げた。
「値切らないのか?」
「その金額が必要なんですよね?」
「ああ」
「だったら、払えるかどうかを私が考えます。安くしてもらって、危ない仕事を頼むのは違うと思うので」
ロークが静かに頷いた。
「ただ、あと何人かは必要だ」
「心当たりはある。声をかけてみるよ」
バルトは椅子から立ち上がった。
「俺の返事は、船を見て、修理の話を聞いてからだ。人数が揃って、報酬の条件が変わらないなら引き受ける」
「ありがとうございます」
ルナが頭を下げると、バルトは手を振った。
「礼は、船が出せるようになってからでいい」
*
食堂を出て、ルナは通りの端で手帳を開いた。
値引き後の船の代金と、修理の見積もりを書き直す。ロークに必要な人数と報酬の見込みを確かめ、バルトの分と合わせて記した。
ユニは、自分の賞金が書かれた行を指した。
「ここは、このお金を使いましょう」
「うん。賞金の分だけね」
「はい」
ルナは最後の数字を確かめた。
「……ぎりぎりだけど、必要な分を残せそう」
「では、買いますか?」
ルナはすぐには答えなかった。
まだ船員は全員揃っていない。船も修理前だ。
けれど、何も決まっていなかった昨日とは違う。
「うん。修理が終わってから引き渡してもらう。船員さんが揃うまでは、出航しない」
*
造船場へ戻ったとき、船主は帳面を閉じるところだった。
「決まったか?」
「はい。さっきの値段で、買いたいです」
ルナが答えると、船主は真顔になった。
「修理代も含めて考えたか?」
「はい。必要な船員さんの分も残してあります」
ロークが一歩前へ出た。
「俺は、修理が済んで必要な人間が揃えば船長を引き受ける。ただし、船大工が出航できると認めることが前提だ」
「そうか。なら、船の引き渡しは修理後にしよう」
船主は、値引き後の金額と、引き渡しまでの条件を書いた紙を用意した。
「今日は手付けを受け取る。残りは修理が終わって、船体を確かめてからだ。約束した金額は変えん」
「修理代は、私たちが親方へ払うんですよね?」
「そうだ。その分を考えて船の値段は下げたからな」
ルナは文面を読み、ひとつずつ確かめた。
「もし、修理中に別の大きな傷みが見つかったら?」
「そのときは、残金を払う前にもう一度相談だ。ここには、今回見つかった箇所の修理を終えてから引き渡すと書いておく」
ロークも内容を読み、頷いた。
ルナは自分の旅費から手付けを取り出した。
「お願いします」
船主が受け取り、受領の印を押す。
船はまだ海に浮かんでいない。残金も、これから必要になる。
それでも、買うための約束ができた。
ルナは船底の短い板を見た。
「あそこ、ちゃんと直るんですね」
「親方が仕事をする。終わったら、一緒に確かめよう」
ロークが答えた。
「……はい」
ユニが、ルナの隣で船を見上げる。
「寝る場所も、そのままですね」
「うん。にゃん吉君も気に入ってたもんね」
「ワン!」
にゃん吉君が船の方へ浮かんでいく。
「まだ乗れないよ!」
ルナが呼ぶと、白い身体は途中でくるりと向きを変えた。
その向こうでは、親方が新しい板を運ぶ準備を始めていた。




