第5章 第1話 死海の名
エルフの街の北の門をくぐると、世界樹はもう見えなかった。
振り返った道には、森の枝が幾重にも重なっている。あれほど大きな木も、ここからでは隠れてしまう。
「やっぱり、全部は入らなかったね」
ルナは手帳を開いた。
幹からはみ出した枝。板の橋。その上に描いた、小さな白い丸。
にゃん吉君が覗き込む。
「名前も、ちゃんと書いたからね」 「ワン」
ユニが隣から言った。
「ネラさんに、見せるのでしたね」 「あ、そうだった。葉の音はユニちゃんが話してね」 「はい」
*
緑の布を掛けた店の扉を開けると、ネラは客に渡す包みを結んでいた。
「あら、お帰りなさい。どうだった?」
「大きかったです。思ってたより、ずっと」
ルナは手帳を開いて見せた。
ネラは紙から顔を上げ、楽しそうに笑った。
「端まで描こうとしたのね」 「はい。でも、入りませんでした」
ネラは、描ききれなかった枝の先を指でなぞった。
「私も、葉を描いていたつもりが布みたいになったのよね」
そう言って、窓に掛けた緑の布を見た。
「今も、描ききれていないのかもしれないわね」
「ユニちゃん、音の話」
促されて、ユニが頷いた。
「風のあとから、音が来ました」 「そうそう。それを聞いてほしかったの」
ネラは嬉しそうに言った。
それから、今朝、世界樹の記録室で見つけた古い港の名と、荷の記録について短く話した。
「それで、次はその島に?」 「はい。まずは南の港に戻って、船を探します」
ネラは少しだけ考えた。
「島へ行くなら、海のことは船乗りに聞いた方がいいわね」 「私も、そう思ってました」
店を出たところで、ユニが尋ねる。
「南の港でしたら、すぐに戻れますよ」 「うん。でも、今回は船で戻りたいな。海のこと、乗っている人に聞けるかもしれないから」 「分かりました」
ルナは、もう一度緑の布の窓を振り返った。
ネラが作業台の向こうから手を振っている。
「また来ます!」
*
帰りの便が出る日、三人はエルフの街の港から船に乗った。
船が岸を離れると、森の緑が少しずつ遠ざかっていく。
ルナは甲板の手すりに手を置いた。
行きは、あの向こうに世界樹があることを知っていても、どんな姿かは想像できなかった。
今は、見えなくなった枝の形を思い出せる。
「船って、帰るときも景色が違うんだね」 「はい」
にゃん吉君が、二人の間へ浮いてきた。
潮風に、白い身体が少しだけ揺れる。
*
昼過ぎ、ルナは甲板で縄を片づけていた船員に声をかけた。
「あの、島のことで聞きたいんですけど」 「どこの島だい?」 「神に見放された島です」
船員の手が止まった。
「……ずいぶん変わった行き先だな」 「昔は、双岬泊っていう港があったそうなんです」 「ふたみさきどまり?」
船員は首を傾げた。
「そっちは知らないな。けど、今の名前なら知ってる。あの辺りの海は、死海って呼ばれてるんだ」
「しかい?」 「ああ。船が沈む海だ。あそこへ入って戻らなかった船の話なら、港で何度も聞いた」
ルナは手帳を開いた。
「沈んだ理由は、分かっているんですか?」 「さあな。俺が見たわけじゃないし、話も一つじゃない。分かってるのは、あそこへ船を出したがる奴がいないってことだ」
ルナは筆を止めた。
世界樹で見た海図には、島へ向かう線があった。
船が荷を運び、帰ってきた日付も残っていた。
けれど、今は船が沈む海だという。
「……昔は、通れたんですよね」 「そうなのか?」 「古い記録では、何度も船が往復していました」
船員は、少し驚いた顔をした。
「じゃあ、何が変わったんだろうな」
ルナはすぐには答えられなかった。
知りたかったことが、一つ増えていた。
*
数日後、南の港に着くと、ルナは前に訪ねた閲覧室へ向かった。
船着き場の裏の窓。紙を押さえる重り。机の向こうには、以前と同じ男性がいた。
「また来ました」 「ああ、あのときの。エルフの街はどうでした?」 「世界樹を見ました。それと、島の古い海図も」
ルナは写した地図を広げた。
二つの岬の間に、細い字がある。
「双岬泊って、書いてあったんです」
男性は身を乗り出した。
「これは……入江の名前ですね」
ルナは海図と積荷の控えの番号を示した。
男性は、以前の帰還者の聞き取りを棚から取り出した。
島の東側。二つの岬。草に埋もれた石段。
「同じ入江のことを話していたのかもしれませんね」 「私も、そう思いました」
ルナは記録の下の一文へ目を向けた。
『帰港に用いた船舶については確認できず』
「でも、この人がどうやって帰ってきたのかは、やっぱり分からないんですね」 「ええ。この紙だけでは」
男性は記録を閉じず、ルナを見た。
「島へ行く方法を探しているんですか?」 「はい。帰りの船で、死海という名前も聞きました」
男性の表情が変わった。
「それなら、今の航路を確かめましょう」
*
案内所の航路図には、島まで続く線がなかった。
「定期便は、ないんですね」 「ありません。死海へ入る航路は、現在扱っていません」
ルナは地図をよく見た。
島の手前で、いくつかの航路が終わっている。
「じゃあ、この中で、死海に近い港はどこですか?」
男性が一つの島を指した。
「ここです。定期便が出ています。船を扱う店もありますが……」 「ありますが?」 「あそこから先へ行く船を、すぐに見つけられるとは思わない方がいいでしょう」
ルナは、その島の位置を手帳に写した。
「ここへ行けば、船乗りの人に話を聞けますか?」 「港には船乗りが集まります。ただ、あの島は船より別のもので有名ですけどね」 「別のもの?」 「カジノですよ。遠くから遊びに来る人もいる島です」
ユニが顔を上げた。
「遊ぶところですか?」 「ええ。島の看板みたいなものです」
ルナは、航路図の島をもう一度見た。
海図に残っていた道は、今はない。
その手前までは、まだ船で行ける。
「……ここまで、行ってみよう」
ユニが隣へ来る。
「カジノの島ですか?」 「うん。まずは、そこまで行ってみたい」 「はい」
ルナは手帳へ、次の行き先を書き込んだ。
死海へ行ける船があるか。
その船で行ってくれる人がいるか。
船が沈むという海から、あの旅人はどうやって帰ってきたのだろう。
「……まずは、船乗りの人に聞いてみよう」




