第4章 第23話 古い航路の先へ
翌朝、世界樹の下に薄い霧が残っていた。
ルナは宿舎の窓を開けた。
近くの根が白く隠れ、昨日歩いた道の端だけが見えている。高い枝の方には日が当たり、葉の先で光が細かく動いていた。
にゃん吉君が寝台から顔を上げる。
「おはよう」
「ワン」
ユニはもう、窓の隣にいた。
「音、聞いてたの?」
「はい。昨日より、近くの鳥がよく聞こえます」
ルナも耳を澄ませた。
短い声が、根の向こうで繰り返される。
葉の音は、まだ小さかった。
*
記録室の机には、大きな敷布が掛けられていた。
守り手が細長い箱を開け、海図の写しを広げる。
昨日、図を描いた紙よりも、ずっと大きい。
ルナは椅子を引かずに、立ったまま全体を眺めた。
机へ広げた海の上を、葉の影が横切った。
小さな島が一度暗くなり、また明るくなる。
守り手が、紙の端へ重しを置いた。
ルナも袖を引き、海図へ顔を近づけた。
海岸の形が、持っている地図とは少し違う。
港の印も多い。今なら陸へつながっているように描かれる場所に、細い水の線があった。
「どこから見ればいいでしょう」
「読める地名を探しましょう。形だけでは、描き方の違いもありますから」
守り手は地名の索引を置いた。
ルナは南の港の名を探し、今とは違う古い字を教わった。
そこから海へ、いくつもの細い線が伸びている。
線の一つの先に、大きな島があった。
その東側へ、二つの小さな突起が出ている。
「あ……」
ルナは手帳を開いた。
南の港で写した、旅人の話。
二つの岬の間の入江。
「この形、似ています」
守り手は索引をめくり、島の脇の文字を確かめた。
「後の地名と照らすと、神に見放された島に当たるようです。この海図では、別の呼び名ですね」
守り手は、二つの岬の間に書かれた字も読んでくれた。
「入江には、双岬泊とあります。ふたみさきどまり、と読むのでしょう」
ルナは指を止めた。
知っている名前は、どこにも書かれていなかった。
ただ、岸の印と、船が進む線がある。
*
「この線は、島へ向かった船の道ですか?」
「そう記されています。運んだ荷の控えも、同じ箱にありました」
守り手が、薄い書板の写しを二枚並べた。
ルナは海図の記号と、書板の端の印を見比べる。
一枚には出港と帰港の日があり、もう一枚には積荷が並んでいた。
量の記号は読めなかったが、横に書かれた品名を教えてもらえた。
布。
油。
焼き物の器。
「……普通の荷物なんですね」
ルナが言うと、守り手は頷いた。
「何に使ったかまでは分かりませんが、暮らしの中でも使う品ですね」
ネラの布の筒が浮かんだ。
カイルの薬草の包み。
荷を待つ人が、昔はあの岸にもいたのだろうか。
ルナは別の日付を探した。
同じ島の印が、もう一つあった。最初の航海とは、月も船の印も違う。
「一度だけじゃない……」
ユニが、積荷の書板を近くへ寄せた。
「こちらにも、同じ印があります」
ルナは二枚を並べた。
守り手が日付を確認してくれる。
「当時、行き来があったことは読み取れますね」
ルナは海図を見た。
怖い名前を聞いたときには、何もない岸を想像していた。
そこへ器を運ぶ船があった。
荷を届け、また帰ってくる人がいた。
*
南の港の聞き取りとは、年代が違っていた。
並べてみると、間には長い時間がある。
ルナは手帳へ、二つの時期を離して書いた。
「この船で、あの旅人が帰ったわけではないんですね」
「ええ。こちらの往来の方が、ずっと古いものです」
ルナは、二つの記録にある入江の形を見比べた。
「どうして、この道を使わなくなったんでしょう」
守り手は箱の中を見た。
「このあとに続く帳面は、ここにはありません。港に残っているものがあれば、もう少し辿れるかもしれませんね」
ルナは現在の地図を開いた。
同じ場所に、船の線はない。
「今の航路を聞くとき、この入江の名を使ってもいいですか?」
「古い名だと添えてください。海図そのものを、今の船を出すためには使えません」
「はい。船の方には、今どうなっているのかを聞きたいです」
入江の形と古い地名を写し、海図と荷の控えの番号を添えた。
島のことを尋ねるとき、もう怖い呼び名だけを口にしなくてよかった。
*
昼前、ルナは借りた資料を返した。
守り手が一枚ずつ数え、箱へ戻していく。
最後に机を空けると、そこへ世界樹の葉の影が落ちた。
「ありがとうございました」
ルナは頭を下げた。
「記録の続きを確かめたら、こちらにも知らせます」
守り手は顔を上げた。
「それは、楽しみにしています」
返事を聞いて、ルナは少し驚いた。
ここでは、自分が尋ねることばかり考えていた。
けれど、次には自分から持ってこられる話があるかもしれない。
写した紙を揃え、収納バッグへしまった。
*
帰りの案内役は、昨日とは違う道へ三人を連れていった。
根の外側を回ると、小さな高台へ出た。
そこからは、低い枝の裏側が見えた。
幹から離れるほど、枝は幾つにも分かれている。途中に土が溜まったところがあり、別の植物が葉を広げていた。
風が通ると、いくつもの緑が違う速さで動いた。
ルナは立ち止まった。
「昨日とは、全然違うね」
「はい」
ユニも枝を見上げた。
ルナは手帳を開いた。
初めに描いた絵では、枝が紙の外へはみ出している。
もう少し小さく描けば、全体が入るだろうか。
そう思って顔を上げ、やめた。
ここからでも、向こう側は見えなかった。
「絵を見せたら、ネラさんに笑われるかな」
「どうしてですか?」
「入りきらなかったから」
ユニが手帳を覗く。
「そのお話も、してみましょう」
「……うん。ネラさんも、そうだったかもしれないね」
ルナは紙の端へ、今立っている高台を小さく描き足した。
*
長杖の二色の紐が、風で手の甲に触れた。
ルナはそれを押さえた。
ヘナにもらったときには、ここへ立つまで、まだこんなに道があった。
硝子の市を歩き、谷で泥に手を入れ、工房で火を見た。
ネラの店の窓を見つけたときには、海の向こうで会った人の声が、店の奥から返ってきた。
ルナは紐を離し、掌を開いた。
木漏れ日が指の間へ落ちる。
自分で灯せる光は、今もなかった。
「エリスさんに、手紙を書こう」
ユニがこちらを見た。
「昨日の図も送りますか?」
「うん。写しをもう一つ作って。役に立つかどうか、聞いてみたい」
ルナは指を閉じた。
「それから、ネラさんに木の話をしよう。葉の音は、ユニちゃんから話してね」
「分かりました」
にゃん吉君が、手帳の近くへ顔を寄せた。
橋の上に描いた小さな丸を見ている。
「それ、にゃん吉君だよ」
白い顔がルナへ向いた。
「……小さすぎた?」
「ワン」
ルナは笑い、丸の横へ名前を書き添えた。
*
森へ戻る前に、ルナは海図を写したページを開いた。
二つの岬の間へ、小さな石段を描いてある。
南の港で聞いた言葉を添えた、まだ自分では見ていない岸。
そのそばに、古い名がある。
双岬泊。
「私、あの島へ行ってみたい」
ルナは言った。
「帰ってきた人のことも気になる。でも、昔、布や器を待っていた人たちがいたなら……どんな場所だったのか、見てみたい」
ユニは紙を見てから、顔を上げた。
「私も、行ってみたいです」
にゃん吉君が二人の間へ浮き上がった。
ルナは頷いた。
「まずは、今の海を知ってる人に聞こう。あの入江へ行く船があるかどうかも、まだ分からないから」
ルナは手帳を閉じた。
ラウネへ戻る道は知っている。
けれど、今度も三人で、まだ見たことのない方へ進んでみたかった。
*
案内役が、森の入口で待っていた。
ルナは収納バッグを閉じ、歩き始めた。
数歩進んでから、もう一度振り返る。
高い枝の向こうに青空がある。その空を、細い雲がゆっくり渡っていた。
あの白い森を出たときには、振り返っても何もなかった。
今日は、木が見える。
遠くなればなるほど、また別の枝が見えてくる。
「また、来たいね」
ルナが言った。
「はい」
ユニが隣で立ち止まった。
にゃん吉君も戻ってきて、二人の間に浮かんだ。
頬を、風が通り過ぎた。
三人は、そのまま待った。
長く、深い葉の音が、頭の上へ降りてくる。
ルナは音が小さくなるまで聞いてから、前を向いた。
ユニと歩幅を合わせ、ルナは森の道へ足を踏み出した。
第4章 了




