第1章 第10話 初めての依頼
「西側草原の薬草採取ですね。登録証をお願いします」
「あ、はい」
ルナは昨日受け取ったばかりの登録証と、掲示板から外した依頼書を受付の女性へ差し出した。
登録証には、ルナの名前とEランクの文字が刻まれている。
「Eランク。問題ありません」
「よかった……」
返された登録証を、ルナは大切にしまった。
「では、依頼について説明します。採取してもらうのはこちらです」
受付の女性が棚から、乾燥させた二種類の植物を取り出した。
「こちらが依頼品です」
「これか……」
ルナは顔を近づけて観察する。
細長い葉。
先端には小さな切れ込みがあり、根元に近い部分は赤みを帯びている。
「よく似た植物が、同じ場所に生えています。特に葉だけを見ると間違えやすいので、採る前に必ず確認してください」
「どこを見ればいいんですか?」
「まず根元です。依頼品は少し赤くなっていますが、似た植物にはありません」
「あ、本当だ」
「それから葉の先端。小さな切れ込みがあるでしょう?」
「うん……じゃなくて、はい」
受付の女性が少し笑った。
「その二つを確認してください。分からないものは採らないこと。傷んでいるものも数には入りません」
「分かりました」
「必要なのは十株です。採取場所は街道からそれほど離れていませんが、町の外ですから、周囲にも気を配ってください」
ルナの表情が少し引き締まる。
「魔物も……出ますか?」
「可能性はあります。頻繁に出る場所ではありませんが、絶対にいないとは言えません」
「……はい」
「危険だと思ったら、依頼よりも自分の安全を優先してください。依頼は失敗しても、また受けられますから」
「分かりました」
ルナは手にした長杖を握り直した。
半年間、使い方を練習してきた旅のための長杖。
歩く時には身体を支え、足場を確かめることもできる。その内部には、護身用の魔道具も組み込まれている。
魔物を倒すためのものではない。
相手を怯ませ、距離を作り、逃げるためのものだ。
「では、お願いします」
「行ってきます!」
*
ギルドを出たところで、ルナは一度足を止めた。
「……受けちゃった」
「はい」
「依頼」
「はい」
「私の」
「ルナが受けましたから」
「分かってるよ」
分かっている。
それでも、口に出したかった。
昨日、登録証を受け取った。
今日はその登録証を使って、本当に依頼を受けた。
まだ何も成し遂げていないのに、自然と頬が緩む。
「よし。行こう」
「はい」
「ワン」
長杖を手に、ルナはセレナの西門へ向かった。
*
町を出て、街道を歩く。
昨日までと同じような道なのに、今日は少しだけ景色が違って感じられた。
次の町へ向かっているわけではない。
今は、行くべき場所と、そこでやるべきことがある。
「西側の草原……」
歩きながら地図を確認する。
街道の先には小さな林があり、反対側には緩やかな丘が見える。
「この辺で街道から外れるんだよね」
「どうしてそう思いますか?」
「またそれ?」
「はい」
「えっと……」
ルナは地図だけを見るのをやめ、顔を上げた。
前方の林。
反対側の丘。
地図にも、同じ位置関係で描かれている。
「林がここで、丘がこっち。だから今いるのが……ここ」
地図上の一点を指す。
「この少し先から西へ入れば、草原に出るはず」
「はい」
「合ってる?」
「合っています」
「よし」
地図を畳む。
半年前なら、道だけを追っていた。
今は地図を見たあとに、きちんと顔を上げる。
周囲の景色を見て、自分がどこにいるのかを考える。
ほんの小さなことだけれど、前よりはできるようになっていた。
*
街道を外れると、膝より低い草が足元を擦った。
風が吹くたび、草原全体が波のように揺れる。
「……この辺かな」
依頼書に書かれた場所には着いている。
けれど、ルナはすぐには薬草を探さなかった。
まず周囲を見る。
少し離れた林。
背後には街道。
草むらの中に、大きな動物が隠れている気配はない。
耳を澄ませても、聞こえるのは風に揺れる草の音くらいだった。
「よし」
「何を確認しましたか?」
「周り。何かいたら、薬草どころじゃないから」
「そうですね」
そこで初めて、ルナは足元へ目を向けた。
「えっと……」
草。
草。
また草。
似たようなものばかりが視界に入る。
「……いっぱいありすぎない?」
「草原ですから」
「それはそうだけど」
しゃがみ込み、一株ずつ見る。
「あ」
それらしい植物を見つけた。
細長い葉。
けれど、ルナはすぐには手を伸ばさなかった。
受付で教わったとおり、最初に根元を見る。
「赤くない」
次に葉の先端。
「切れ込みもない。……違う」
「はい」
ルナはその植物から手を離した。
受付で教わったことを、そのまま使っただけ。
それなのに、少しだけ嬉しい。
聞いたことが、きちんと自分の中に残っていた。
「次」
立ち上がり、また探す。
少し歩いてはしゃがみ、根元を見る。
葉の先を見る。
「これも違う」
もう少し先へ進む。
そして。
「あ……」
草の間に、よく似た葉を見つけた。
まず根元。
「赤い」
次に、葉の先。
「切れ込みもある」
念のため依頼書を取り出し、描かれた絵と見比べる。
葉の形。
根元の色。
大きさ。
「……これだと思う」
「はい」
「採るね」
「はい」
傷つけないよう、丁寧に採取する。
手に取った薬草から、青い匂いがした。
「一株」
袋へ入れる。
「あと九株」
なんでもない、小さな薬草。
けれどこれは、ルナが冒険者として初めて自分で見つけた依頼品だった。
*
それからは、少しずつ要領が分かってきた。
三株。
五株。
七株。
「あと三つ……」
立ち上がって腰を伸ばすと、思った以上に身体が固まっていた。
「ずっとしゃがんでると腰が痛い……」
「休みますか?」
「ちょっとだけ」
街道の見える場所まで戻り、水筒を取り出す。
一気には飲まず、喉を潤す程度にして残りを確認した。
空も見る。
日はまだ高い。
「この調子なら、日が傾く前には戻れそう」
「はい」
「じゃあ、もう少し」
再び草原へ戻る。
八株目。
九株目。
そして。
「あった」
十株目。
今度は見つけても、すぐには喜ばない。
根元は赤い。
葉の先には切れ込みがある。
傷んでもいない。
「……よし」
丁寧に採り、袋へ入れる。
そこでようやく。
「十株!」
ルナの声が弾んだ。
「集まった!」
「はい」
「初依頼、終わり!」
「まだです」
「え?」
「ギルドへ届けるまでが依頼です」
「……そうだった」
喜びかけた顔が止まる。
「帰るまでが依頼……」
「そうですね」
「なんか学校で聞いたことがあるような言い方」
「そうですか?」
「うん」
ルナは笑いながら袋を荷物へしまった。
「じゃあ、きちんと帰ろう」
「はい」
その時だった。
がさっ。
「……え?」
少し離れた草むらが揺れた。
風とは違う。
ルナの笑みが消える。
長杖を両手で握り、音のした方向へ身体を向けた。
がさ。
もう一度。
今度は、先ほどより近い。
「ユニちゃん」
「はい」
「……何かいる」
「はい」
ユニの声は、いつもと変わらなかった。
それがかえって、ルナに自分の呼吸の速さを意識させた。
長杖を構える。
半年間、何度も練習した。
けれど、練習で目の前にいたのは木の的だった。
今は違う。
何がいるのかも分からない。
隣にはユニがいる。
それでも、ルナはユニを見なかった。
半年間、何のために教わってきたのか。
まず自分で見る。
自分で考える。
危険なら逃げる。
そのために、ここまで準備してきた。
がさっ。
草むらから、一匹の魔物が姿を現した。
「……っ」
身体が勝手に一歩下がった。
四本の脚。
地面に近い、低い身体。
一見すれば獣に似ている。
けれど、その額からは小さな角が伸びていた。
魔物。
旅に出てから、街道の外で向き合うのは初めてだった。
戦う?
その考えが浮かんだ瞬間、半年間に教わった言葉が頭へ戻ってきた。
『危険な相手に遭遇した場合、まず戦わないことを考えてください』
「……戦わない」
声に出すと、少しだけ頭が冷えた。
魔物から目を離さず、周囲を確認する。
距離はある。
背後には街道。
逃げる方向に、大きな障害物はない。
長杖に組み込まれた護身用の魔道具を使えば、短い衝撃を放てる。
ただし、使える回数には限りがある。
今はまだ使わない。
襲ってくるなら、怯ませる。
距離を作る。
その間に逃げる。
「……ゆっくり下がる」
一歩。
魔物の動きを見る。
もう一歩。
そこで、ルナは気づいた。
「……あれ?」
魔物が、こちらを見ていない。
落ち着きなく顔を動かし、何度も後ろを振り返っている。
草原の向こう。
林の方を。
「ユニちゃん」
「はい」
「あれ……」
次の瞬間、魔物が走り出した。
「えっ」
ルナたちに向かってではない。
横を抜け、街道の方へ。
まるで何かに追われているような勢いで、あっという間に遠ざかっていった。
「……逃げた」
「はい」
「私たちから?」
「どう思いますか?」
ルナは、魔物が何度も振り返っていた方向を見る。
林。
風に揺れる木々。
ここから見える範囲には、それ以外何もない。
「……違う」
先ほどまでとは別の緊張が、背中を這った。
「あの魔物、私たちじゃなくて……向こうから逃げてた」
ユニは何も言わない。
ルナも、しばらく林を見ていた。
何があるのだろう。
ほんの一瞬、確かめてみたいという気持ちが湧いた。
けれど。
「……ううん」
ルナは自分で首を振った。
「行かない」
「はい」
「何があるか分からないのに、近づくのは違う。それに――」
荷物へ目を落とす。
中には、十株の薬草が入っている。
「今は依頼の途中」
「そうですね」
「まず、これを届ける」
「はい」
もう一度だけ林を見る。
気にはなる。
けれど、気になるというだけで、何にでも首を突っ込めばいいわけではない。
今の自分に分かっているのは、魔物が林の方から逃げてきたということだけだ。
「戻ろう」
「はい」
「ワン」
ルナは長杖を下ろし、街道へ戻った。
*
セレナの門をくぐった瞬間、張っていたものが少しだけ緩んだ。
「……帰ってきた」
薬草を採った。
魔物にも遭遇した。
戦わなかった。
そして、きちんと帰ってきた。
「これで終わり?」
「まだです」
「分かってるよ。ギルドまででしょ?」
「はい」
「今度は引っかからないからね」
ルナは少し笑って、冒険者ギルドへ向かった。
*
朝と同じ扉を開ける。
「おかえりなさい」
受付の女性の言葉に、ルナは一瞬だけ足を止めた。
昨日は登録するために来た。
今朝は依頼を受けるために来た。
そして今は、依頼を終えて帰ってきた。
「……ただいま。じゃなくて」
少し迷ってから、薬草の入った袋を取り出す。
「依頼、終わりました!」
「では、確認しますね」
受付の女性が薬草を一株ずつ確認していく。
一つ。
二つ。
三つ。
ルナは黙って、その手元を見つめていた。
採る時には確認した。
間違っていないはずだ。
それでも、十株目まで数え終わるまでは落ち着かない。
やがて、受付の女性が顔を上げた。
「十株。すべて問題ありません。依頼達成です」
「……!」
ルナの顔が明るくなる。
「本当?」
「はい」
「全部?」
「十株すべてです」
「間違ってなかった?」
「ありません」
「傷んでるのも?」
「ありませんよ」
「……やった」
小さく拳を握る。
「やった……!」
黒龍事件を終わらせたわけではない。
魔物を倒したわけでもない。
薬草を十株、採ってきただけ。
それでも。
自分で依頼を選んだ。
教わったことを使って、自分で探した。
自分で見分けた。
危険に出会った時も、自分で考えた。
そして、きちんと戻ってきた。
「こちらが報酬です」
受付の女性が硬貨を置いた。
ルナの視線が、そこへ落ちる。
昨日、宿代を払った。
食事代も払った。
財布から硬貨が減っていくのを見て、お金の重みを少しだけ知った。
今、目の前にあるのは、自分が依頼を終えて初めてもらうお金だった。
「……これ、私の?」
「はい。依頼の報酬です」
そっと手に取る。
硬貨そのものは、昨日まで持っていたものと何も変わらない。
大きさも。
形も。
手のひらに乗せた重さも。
同じはずなのに、少しだけ重く感じた。
「……初めて稼いだ」
「はい」
ルナはしばらく硬貨を見つめてから、大切に財布へしまった。
*
「そういえば」
受付の女性が声をかけた。
「採取中、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?」
ルナは少し考える。
「あ」
草原で見た魔物を思い出した。
「魔物を見ました」
「魔物?」
「はい。四本脚で、額に小さな角があって……」
覚えている特徴を伝えていく。
受付の女性の表情が、わずかに変わった。
「襲われましたか?」
「いいえ」
「近づいてきましたか?」
「それも違うと思います」
「というと?」
「逃げていました」
「逃げていた?」
「はい」
ルナは、あの時の魔物の様子を思い返す。
「私たちの方を、ほとんど見ていなかったんです。林の方を何度も振り返って、そのあと街道の方へ走っていきました」
「……そうですか」
受付の女性は少し黙り、何かを考えるように視線を落とした。
「何かあるんですか?」
「今のところは、まだ何とも言えません。ただ、報告してくれてありがとうございます」
「はい」
気にはなった。
けれど、分からないものをここで考えても答えは出ない。
ルナがそれ以上聞かずにいると、ギルドの扉が開いた。
数人の冒険者が入ってくる。
「戻ったぞ」
一人の男が、そのまま受付へ向かった。
「お疲れさまです。依頼はどうでした?」
「依頼自体は問題ない。ただ――」
男が眉を寄せる。
「まただ」
「……また?」
「街道に魔物が出ていた」
近くにいた冒険者たちの何人かが、会話へ意識を向ける。
受付の女性の表情も変わった。
「襲われたんですか?」
「いや」
男は首を振る。
「逆だ」
その言葉に、ルナの手が止まった。
「こっちなんか見ちゃいない。何かから逃げるみたいに、森から飛び出してきた」
「……」
ルナはユニを見る。
ユニも、静かにこちらを見ていた。
今日、自分が見たものと同じ。
一匹だけなら、偶然だったかもしれない。
でも。
また。
ルナはギルドの窓の向こうへ目を向けた。
町の外。
さらにその先にある森。
魔物たちは、人を襲うために現れているのではない。
何かから逃げている。
では。
あの森で、いったい何が起きているのだろう。




