第1章 第9話 冒険者になった夜
冒険者ギルドを出ると、外はもう夕方になっていた。
「……疲れた」
扉を閉めた途端、ルナの口から言葉が漏れた。
アルネを出て二日。歩いて、野営して、また歩いて、ようやくセレナへ着いた。
そのまま冒険者ギルドへ入り、登録を済ませた。
それだけでも十分に大きな出来事だった。
けれど、ユニが姉の手紙に書かれていた少女だと知った。幼い黒龍を親元へ返し、王都近郊の事件を終わらせた少女。
さらに、Sランク昇格特別試験の候補者に選ばれていた。
本人は、新聞を読むまで知らなかった。
酔った冒険者に絡まれ、その男がユニへ触れようとしても、なぜか手は届かなかった。
「……今日、いろいろありすぎた」
「そうですね」
「半分くらいユニちゃんのことだからね?」
「そうですか?」
「そうだよ」
ルナはため息をつき、隣を歩くユニを見る。
いつもと同じ白銀の髪。
いつもと同じ青い服。
頭の上には、いつもと同じようににゃん吉君がいる。
「……ユニちゃん」
「はい」
「本当に、黒龍の子供を見つけたんだよね」
「はい」
「それで、親のところへ返した」
「はい」
「Sランク試験の候補者にも選ばれた」
「そう書いてありました」
「……やっぱり、まだよく分かんない」
「そうですか」
「うん」
半年間、ほとんど毎日のように一緒にいた。
歩き方を教えてもらった。地図の見方も、火の起こし方も、野営の仕方も、長杖の使い方も教わった。
そのユニが、遠い王都では、黒龍事件を終わらせた白銀の少女として知られている。
聞きたいことは山ほどある。
黒龍の子供をどうやって見つけたのか。
なぜ今まで何も言わなかったのか。
先ほどの男は、どうしてユニに触れられなかったのか。
一つ聞けば、分からないことがまた増えそうだった。
「……また聞くからね」
「はい」
「今度は、ちゃんと教えてよ?」
「答えられることなら答えます」
「じゃあ、それでいい」
分からないことは、まだたくさんある。
考えても、今夜だけでは整理できそうになかった。
それでも、ユニは今も隣を歩いている。
昨日までと同じように。
だからルナは、分からないことを抱えたまま、ひとまず宿へ向かうことにした。
「今日はもう宿を探そう」
「はい」
「お風呂に入って、ご飯を食べて、寝たい」
「分かりました」
「もう足が重い……」
「無理をして歩く必要はありません」
「うん」
「ワン」
「にゃん吉君は元気だね」
「ワン」
「ずっとユニちゃんの頭の上だもんね……」
少しだけ羨ましかった。
*
ギルドで場所を聞き、近くの宿へ向かった。
大きくはないが、建物はよく手入れされている。入口のそばには、旅人のものらしい荷車が一台止まっていた。
「ここだね」
「はい」
中へ入ると、宿の主人らしい女性が顔を上げた。
「いらっしゃい」
「あの、二人で一泊できますか?」
「ああ。空いてるよ」
「にゃん吉君も一緒です」
「ワン」
女性はユニの頭の上を見た。
「その白い子も泊まるのかい?」
「はい」
「部屋を汚さないなら構わないよ」
「汚しません」
「ワン」
「……返事は元気だね」
「いつも元気です」
女性が笑った。
「食事は?」
「お願いします」
「風呂も使えるよ」
「入ります」
ルナは即答した。
「ずいぶん歩いてきたみたいだね」
「アルネから来ました」
「そりゃ疲れるね」
「はい……」
料金を聞き、ルナは財布を取り出した。
宿代と食事代を数えて渡す。
旅に出てから、食料を買った。水も補給した。必要なものがあれば、そのたびにお金を使った。
当たり前のことなのに、自分の財布から硬貨が減っていくのを見ると、家にいた頃とは重みが違って感じられる。
「……お金、大事だね」
「はい」
「お父さんが言ってた意味、少し分かったかも」
「使えば減りますから」
「それは分かってるよ」
ルナは残った硬貨を確認してから、財布をしまった。
何に使うのか。
あとどれくらい残っているのか。
これからは、自分で考えなければならない。
旅に出るというのは、行きたい場所へ歩くだけではないらしい。
*
部屋へ入って荷物を下ろすと、ルナはベッドへ倒れ込んだ。
「はあぁ……柔らかい……」
「はい」
「昨日は地面だったから、余計に……」
このまま目を閉じれば、すぐに眠れそうだった。
けれど、ルナは身体を起こした。
「……駄目。先にお風呂」
「その方がいいと思います」
「今寝たら、朝まで起きない気がする」
「可能性はあります」
「行ってくる……」
*
湯船へ身体を沈めた瞬間、ルナの口から深い息が漏れた。
「あったかい……」
二日歩いた。汗もかいた。昨日は町の外で眠った。
身体と髪を洗い、温かい湯へ肩まで浸かる。
足も肩も、思っていた以上に疲れていた。
「……生き返る」
家にいた頃は、風呂に入れることを当たり前だと思っていた。
けれど、旅に出れば毎日入れるとは限らない。
「お風呂って、ありがたかったんだ……」
家にいた頃には考えたこともなかった。
ルナはもう一度、ゆっくりと湯へ沈んだ。
*
「ユニちゃん、次」
「はい」
「にゃん吉君も、ちゃんと綺麗にしてもらってね」
「ワン」
ユニは、にゃん吉君を頭に乗せたまま風呂へ向かった。
*
夕食には、温かいスープと焼いた肉、パンが並んだ。
「……おいしい」
特別に豪華な料理ではない。
けれど、歩き続けた身体には、それだけで十分だった。
ルナはパンをちぎり、スープにつけて食べる。
「あったかいご飯って、こんなにおいしかったんだ……」
「昨日も温かいスープを食べました」
「そうなんだけど、今日は座ってたら出てきた」
「はい」
「自分で火を起こさなくていい」
「はい」
「作らなくてもいい」
「はい」
「食べ終わったら、片づけてもらえる」
「そうですね」
「……すごい」
「旅に出る前も、そうだったのでは?」
「え?」
言われて、ルナの手が止まった。
家では毎日のように母が料理を作ってくれていた。
朝も夜も、食卓へ座れば料理が並んでいた。
それを特別なことだと思ったことはなかった。
「……そっか」
「何がですか?」
「お母さん、毎日やってたんだ」
「そうですね」
「私、普通に食べてた」
「はい」
「……帰ったら、ありがとうって言おう」
「それがいいと思います」
「うん」
旅に出て、まだ数日。
それなのに、家にいた頃には気づかなかったことが少しずつ見えてくる。
自分でやってみて、初めて分かることがある。
ルナは、もう一口温かいスープを飲んだ。
*
部屋へ戻ると、ルナはベッドへ腰を下ろした。
風呂に入り、温かいものも食べた。
身体は、もう眠る準備を始めている。
それでも、ルナは荷物へ手を伸ばした。
取り出したのは、今日受け取ったばかりの冒険者登録証だった。
そこにはルナの名前と、Eランクの文字が刻まれている。
「ユニちゃん」
「はい」
「これ、本物だよね」
「本物です」
「明日起きたら、なくなってたりしない?」
「しません」
「……そっか」
本気でなくなると思っているわけではない。
これは本物だと分かっている。
それでも、まだ少しだけ現実ではないような気がした。
半年前、旅に出たいと言った。
あの時は、世界樹も願いの泉も、すべてが遠い未来の話だった。
それから歩く練習をした。
地図を読み、火を起こし、荷物の重さを知った。緊張した時には呼吸を整え、慌てず周囲を見ることも覚えた。
十五歳になり、父と母に見送られ、ニーナと再会を約束した。
そして、自分の足でここまで来た。
今、その先にこの一枚がある。
「……もう、なってるんだね」
「何にですか?」
「冒険者」
「はい」
「ずっと、なれたらいいなって思ってたのに」
ルナは小さく笑った。
「もう、なってる」
「はい」
「……夢みたい」
「夢ではありません」
「分かってるよ」
ルナは登録証を胸元へ寄せた。
「だから、嬉しいの」
「はい」
Eランク。
一番下。
まだ一つの依頼も達成していない。
冒険者としては、本当にここからだ。
それでも、この登録証は誰かが運んできてくれたものではない。
自分で準備をして、自分の足で家を出て、ここまで歩いてきた。
その先にある一枚だ。
「……大事にしよう」
「はい」
ルナは登録証を荷物の中へ丁寧にしまった。
「ユニちゃん」
「はい」
「明日、もう一度ギルドへ行こう」
「今日も行きました」
「そうじゃなくて」
ルナは笑った。
「明日は、冒険者として」
「はい」
「依頼を見てみたい」
「分かりました」
どんな依頼があるのか。
自分に何ができるのか。
まだ分からない。
不安も少しある。
けれど、それ以上に楽しみだった。
「おやすみ、ユニちゃん」
「おやすみなさい」
「にゃん吉君も」
「ワン」
ルナは目を閉じた。
最後に頭へ浮かんだのは、黒龍でも、Sランク試験でもなかった。
自分の登録証に刻まれた、Eランクの文字だった。
*
翌朝。
昨日までの疲れは、まだ少し身体に残っていた。
それでも、ルナは長杖を手に宿を出た。
「ギルドへ行こう」
「はい」
「ワン」
*
冒険者ギルドへ入る。
同じ建物。
同じ受付。
同じ掲示板。
それなのに、昨日とは少しだけ違って見えた。
昨日は、冒険者になるために来た。
今日は、冒険者として来た。
ルナはまっすぐ依頼掲示板へ向かった。
「……いっぱいある」
薬草採取。
荷物運び。
町の手伝い。
魔物に関係する依頼もある。
依頼書の端には、それぞれ受注できる冒険者のランクが記されていた。
ルナは自分の登録証を取り出す。
Eランク。
「私が受けられるのは……」
ルナはEランクと書かれた依頼を探した。
荷物運び。
店の掃除。
近郊での薬草採取。
どれも、今のルナにできるかもしれない仕事だ。
「ユニちゃんは、どれがいいと思う?」
「ルナは、どれをしたいですか?」
「私が決めるの?」
「はい」
ルナは、もう一度依頼書を見た。
簡単そうな仕事。
報酬の高い仕事。
次の目的地へ向かう途中でできそうな仕事。
選ぶ理由はいくつもある。
その中で、ルナの目が一枚の依頼書に止まった。
セレナ西側の草原で、指定された薬草を十株採取する仕事。
推奨ランクはE。
報酬は高くない。けれど、町の外を歩く仕事なら、今まで覚えてきたことも使える。
「……これにする」
「どうしてですか?」
「今の私にもできそうだから。それに、地図も使えると思う」
「はい」
「最初から難しい仕事を選ぶ必要はないんだよね」
「ありません」
「じゃあ、決めた」
ルナは自分の手で、最初の依頼書を掲示板から外した。
昨日、冒険者になった。
そして今日。
ルナは冒険者として、最初の仕事を選んだ。




