第4章 第21話 空に重なる森
北の門を出たときには、まだ世界樹は見えなかった。
朝の森を、案内役のエルフが先に歩く。
葉の先に露が残り、道の真ん中だけが乾いている。ルナは根をまたぐたび、長杖の先を少し離れた土へ置いた。
「もう少し先の坂から、よく見えます」
案内役が振り返って言った。
ルナは枝の隙間へ目を向けた。
ここを歩いているだけでも、町より木が大きい。見上げた首を戻すたびに、次の根が近づいていた。
坂の手前で、道幅が狭くなる。
斜面を登り切ると、急に空が開けた。
向こうにも、森があった。
ルナは最初、少し高い丘に木が生えているのだと思った。
けれど、その森の下に空が見えた。
枝と枝の間を、雲がゆっくり通っている。
「……あれ」
ルナは足を止めた。
緑の下から太いものが斜めに伸び、その先で、さらに大きなものへつながっている。
幹だった。
一本の幹から、あの森が広がっている。
「世界樹です」
案内役の声が、すぐそばで聞こえた。
*
ルナはしばらく、何も言えなかった。
ネラの言ったとおりだった。
森が、もう一つ浮いている。
そう聞いたときには、木の上が丸く膨らんでいるところを想像した。目の前の枝は、そんな綺麗な形には収まっていなかった。
右へ大きく張り出した枝がある。
その下へ潜るように、別の枝が戻ってくる。葉の薄い場所もあり、端が折れたように見えるところからは、細い緑が幾筋も伸びていた。
どこを見ても、その続きを目で追いたくなる。
ルナは隣のユニを見た。
ユニも顔を上げたままだった。
「大きいね」
ようやく言えたのは、それだけだった。
「はい」
ユニは少し間を置き、遠くを指した。
「あそこを歩いている方がいます」
根元の近くに、小さな動くものがあった。
人だと分かると、木がもう一度大きくなったように感じた。
あの人が幹のそばにいるのなら、こちらから見えている太い筋は、何なのだろう。
「根です。道は、その手前を回ります」
案内役が教えてくれた。
ルナは幹の下から坂の方へ、視線を戻した。
木陰が、道のずっと手前まで届いていた。
*
頬を風が撫でた。
ルナは耳にかかった髪を押さえる。
高いところで、葉の色が変わった。表と裏が入れ替わり、緑の広がりを銀色の筋が走っていく。
少し遅れて、音が来た。
遠い雨のような、長く低い音だった。
ルナは思わず笑った。
「聞こえた」
「はい」
ユニの声も、いつもより少し弾んでいた。
音は頭の真上からだけではない。右の枝が鳴り終わる前に、左の方から別のざわめきが届く。
近くの草が擦れる音は、その間にも小さく続いていた。
「一度に鳴るんじゃないんだね」
「端の方は、まだ揺れています」
ユニが葉の先を見ている。
ルナも同じところを見た。
音を待ってから、また別の枝へ目を移す。
ネラから話を聞いた港では、葉が鳴るという一つの音しか想像できなかった。ここでは、その音にいくつも場所があった。
にゃん吉君が、二人の間へ下りてきた。
「ワン」
すぐそばの声に、ルナは顔を戻した。
「にゃん吉君の声は、すぐ分かるね」
ユニも笑った。
*
坂を下りると、幹の下の方が見えなくなった。
近づいているはずなのに、普通の木々が視界へ戻り、世界樹の枝だけが、そのさらに上に残っている。
道はまっすぐではなかった。
太い根に沿って曲がり、細い流れへ出て、板の橋を渡る。
水の向こうに、低い壁のような根があった。表面には苔がつき、その窪みに草が生えている。
ルナは橋の手前で立ち止まった。
草の間から、小さな花が一輪だけ顔を出していた。
こんな大きな木のそばでも、花は小さいままだ。
「全部が大きくなるわけじゃないんだね」
小声で言うと、ユニも花を見た。
「日が当たるところを、選んで咲いていますね」
根の陰には同じ花がなく、細い光の落ちる場所にだけ白が並んでいた。
案内役は橋を渡ったところで待ってくれていた。
「先を急がなくても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
ルナは花から目を離し、板へ足を乗せた。
橋の下では、細い根が水面へ触れている。
その向こうに、使われなくなった古い石の橋が見えた。
「前は、あっちを渡ったんですか?」
「ええ。今は根に押されて、段がずれてしまいました」
よく見ると、橋の端がわずかに持ち上がっている。
案内役が子供の頃には、まだ使っていたという。
ルナは根を見た。
動いているところは、見えない。
それでも、道を変えるほどには育っている。
*
幹へ近づくにつれ、空が減った。
枝は頭上で重なり、坂の上から見た形とは結びつかなくなる。
見上げても見上げても、幹の途中だった。
樹皮の深い溝に影が溜まっている。裂け目だと思ったところには、小さな木が根を張っていた。
そのさらに上で、鳥が飛び立つ。
しばらく追っていたが、鳥は幹の端へ着く前に見えなくなった。
ルナは首を戻し、息を吐いた。
「……全部、見られない」
ユニも隣で立ち止まった。
案内役は少し離れた石敷きへ進み、そこで待っている。
近づいてもよい場所は、ここまでだった。
触れられる距離ではない。
けれど、ルナには十分すぎるほど近く感じられた。目を閉じても、正面に幹が立っているのが分かる気がする。
土と、湿った木の匂い。
日向を歩いてきた腕へ、冷たい空気が触れた。
ルナは長杖を立てた。
握りの下で、赤と青の紐が揺れている。
ヘナにこれをもらった朝には、まだ世界樹を見たいと思っていただけだった。
今は、その木陰に自分の靴がある。
*
石敷きの端へ座り、ルナは手帳を開いた。
幹を描き、枝を一本伸ばす。
すぐに紙の端へ届いてしまった。
「……入らないな」
ユニが隣から覗いた。
「坂の上で見た方でしょうか」
「うん。でも、あの形も、もう少し違った気がする」
ルナは線を消さず、次のページを開いた。
今度は、さっき渡った板の橋を描く。
その横へ、人が一人立てるくらいの隙間を残し、根の縁を引いた。
これなら、自分が歩いた大きさを少しは残せそうだった。
にゃん吉君が、広げた紙の端をのぞき込む。
「そこにいるところも描こうか」
橋の上へ、小さな白い丸を一つ足した。
ユニが微笑んだ。
「帰ったら、ネラさんにも見せられますね」
「うん。言葉だけだと、たぶん大きかったって何度も言っちゃう」
ルナは筆を止めた。
また葉の音が降りてくる。
今度は、絵を描く手を動かさずに聞いた。
*
手帳を閉じると、古い石橋の方から木札を外す音が聞こえた。
深緑の上着を着たエルフの女性が、道の入口で新しい札を結んでいる。淡い灰色の髪を後ろに束ね、袖をまくっていた。
案内役が頭を下げた。
「リュエル様。記録室へ向かう旅人の方々です」
「そう。よく来たね」
女性は結び目を確かめ、ルナたちへ向き直った。
「リュエルという。この世界樹を守っているよ」
「お一人で、ですか?」
「まさか。道を直す人も、記録を守る人もいる。木そのものに危険が及べば、私が止める。それが私の役目だよ」
案内役が言葉を添えた。
「リュエル様は五界域の一人、エルフの頂点です。長い間、この木と共に生きてこられました」
「五界域……私、魔大陸でヴェラさんに会いました」
「ヴェラか。あの人はよく外を歩くね」
「世界樹に五界域の方がいるとは、聞いていませんでした」
「そうかい。あの人らしいね。私は、この木から離れないけれど」
リュエルの視線が、ルナの隣に立つユニへ一瞬向いた。
ユニが会釈すると、リュエルも軽く頷いた。
リュエルは外した札を見せた。板の橋を示す矢印が、雨に削られて薄くなっている。
「古い石橋はもう使えないからね。こちらの札まで読めなくなったら、迷ってしまう」
「リュエルさんが、ご自分で替えるんですね」
「ちょうど手が空いていたからね」
リュエルは記録室の方を示した。
「行っておいで。探しに来たものがあるんだろう?」
「はい。ありがとうございます」
「ワン」
にゃん吉君の声に、リュエルは笑った。
「君も、ゆっくり見ておいで」
*
昼前、案内役が幹の脇へ続く道を示した。
「では、参りましょう」
根の向こうに、低い屋根が見えた。
石の土台に木の壁が載り、窓には薄い布が掛かっている。ここまで来なければ、建物があることにも気づかなかっただろう。
ルナは立ち上がった。
ユニとにゃん吉君が隣へ戻る。
入口で札を見せると、年配の守り手が中へ案内してくれた。
机の上には、一枚の図が置かれていた。
街の書庫で見た器具と同じ形。
その横には、厚さの違う帳面が三冊ある。
「こちらが、実際に使ったときの記録です」
ルナは収納バッグから、エリスの紙を取り出した。
窓の向こうに、世界樹の幹が見えている。
さっきまで見上げていた木の下で、今度は昔の誰かが残したページを開こうとしていた。




