第4章 第17話 南の港に残る名前
人間の大陸が見えた朝、ルナは甲板へ出ていた。
海から吹く風に、草の匂いが混じっている。
まだ町の形は小さい。けれど、船員が指した丘の向こうに、南へ続く街道があるという。
「戻ってきたんだね」
口にしてから、ルナは少し不思議に思った。
知っている港ではない。岸に立つ人の顔も、まだ見えない。
それでも、地図で海を隔てていた大陸へ、自分たちの乗った船が近づいていた。
ユニは手すりの内側に立ち、にゃん吉君がその肩のそばへ浮いている。
「今度は、ここから南ですね」
「うん。エルフの街まで、あと少し……って言うには、まだ遠いかな」
ルナは笑い、腰の鞄の留め具を確かめた。
*
南の港へ着いたのは、大きな港を出て九日目だった。
乗り継ぎが合わず二晩待った町があり、雨で橋が通れず、宿場に留まった日もあった。
待つ間に教わった短い歌を、ルナは車の中で口ずさんだ。窓の外に畑がなくなり、海が見えても、最後の一節だけ思い出せなかった。
ユニが続きを歌う。
「あ、それだ」
向かいにいた乗客も知っていたらしく、一緒に最後まで歌った。
町へ入る頃には、その人がどこの宿場で覚えたのかも聞いていた。
エルフの街へ渡る船は、前日に出たばかりだった。
次の便は五日後。
ルナはその日を手帳へ記し、港の案内所で別のページを開いた。
魔大陸の西の港で写した、古い記録の番号。
ここなら、その続きを聞ける。
*
閲覧室の窓は、船着き場の裏へ向いていた。
外から荷を運ぶ声がする。風で紙が動かないよう、机の四隅には重りが置かれていた。
係の男性はルナの手帳を見て、棚の索引を開いた。
「神に見放された島の帰還者ですね。短い写しをご覧になったんですか」
「はい。船の名前が分からないと書いてあって」
「聞き取りの本文なら、こちらにあります」
差し出されたのは、ほかの紙と綴じ直された数枚だった。
ルナは椅子へ座る。
旅人の名と、話を聞いた日。答えをそのまま残したらしい短い文が、行を空けて並んでいた。
島の東側にある入江。
向かい合う二つの岬。
水際から、草に埋もれた石段が続いていたという。
「石段……」
ルナはその行を読み返した。
ヴェラから聞いたのは、古い遺跡が残っているという話だった。今は、その島を歩いたと語る人の足元に、初めて形ができた。
「どんな場所だったんだろう」
ユニが隣から紙を見る。
「段の上については、書かれていませんね」
「うん。ここで話が変わってる」
次の問いは、帰還についてだった。
旅人が港へ現れた日と、聞き取りをした日は別になっている。港の宿で休んでから、話を聞いたらしい。
その下に、少し違う筆跡で追記があった。
『帰港に用いた船舶については確認できず』
「この人は、船に乗らずに帰ったと言ったんですか?」
ルナが尋ねると、係の男性は紙を確かめた。
「そこまでは書いていません。当時の係が船を特定できなかった、という記録ですね」
「名前を覚えていなかったのかもしれないんですね」
「ほかの港へ着いてから歩いて来たのかもしれません。ここには、その区別まで残っていない」
ルナは窓の外を見た。
自分たちも、この港までは車で来た。
ここへ現れた日だけを記されても、魔大陸を出た船にはすぐに結びつかないだろう。
ルナは記録の番号の下へ、入江と石段の話を書き足した。
帰り方には、まだ線を引かなかった。
*
係の男性は、手にしていた表紙を閉じかけてから止めた。
「島を訪ねるご予定ですか?」
「今は、エルフの街へ行きます。古い魔法の記録を調べたくて」
「では、この海岸の話も尋ねられるかもしれませんね。昔の地名は、港によって呼び方が違いますから」
ルナは手帳へ目を戻した。
「島の名前だけでは、見つからないこともあるんですか?」
「ええ。この綴りも、もとは船の話ではなく、旅人の聞き取りの棚にありました」
男性は表紙の古い題を指した。
何度も読み直されたらしく、端だけが色を変えている。
「写してもいいですか。この、入江のところを」
「どうぞ。聞き取りの日付も一緒に」
ユニが紙の重りをずらしてくれた。
ルナは短い文を一つずつ写し、最後に日付と保管先を添えた。
その間、にゃん吉君は椅子の脚のそばで丸くなっていた。ルナが筆を置くと、顔を上げる。
「お待たせ。行こうか」
「ワン」
*
港の外では、雨上がりの道に小さな水溜まりが残っていた。
ルナは水を避け、船着き場の向こうを見る。
白い森の道を通ったときは、歩いた距離も、海を越えた瞬間も分からなかった。
今は、ここまで九日かかった理由を話せる。途中で覚えた歌もある。
島から戻った旅人にも、ここへ着くまでの時間があったはずだ。
その部分だけが、紙の上から抜けている。
夕方、宿の窓辺で硝子の葉を吊るすと、ユニが菓子の包みを開いた。
細い生地を輪にした、軽い菓子だった。
「穴が大きいね」
「焼くと、少し膨らむそうです」
ルナは一つ受け取り、割れないよう指でつまんだ。
遠くで、船の鐘が鳴った。
ルナは手帳を閉じる前に、二つの岬を小さく描いた。その間に、海から上がる石段を添える。
まだ見たことのない岸だった。
今度、古い地図を見るときには、探したい形が一つある。




