第4章 第16話 船が出る朝
宿へ戻ったルナは、紙の一行目を書いてから、筆を止めた。
『エリスさんへ。今、魔大陸の港にいます。』
間違ってはいない。
けれど、それだけでは、どうしてそうなったのか分からない。
「……ここから長くなるなあ」
隣で荷物を整えていたユニが顔を上げた。
「森のことですか?」
「うん。まだ私にも説明できないのに、手紙に書くの、難しいね」
ルナは次の行に、ラウネで列車を降りたことを書いた。
道が二本になったこと。左へ進んだこと。白い森を出たら、魔大陸だったこと。
書き終えると、最初の一行よりずっと不思議な話になっていた。それでも、自分が見た順番にはなっている。
『帰る船があると分かったので、町に寄りながら西へ来ました。』
今度は、筆が速く動いた。
*
窓の硝子の葉が、机の端へ青緑の光を落としていた。
ルナは手紙の横へ、エリスからもらった記録を置いた。
魔法を使えない理由は、今も分からない。
ヴェラの知る昔には、ダンジョンさえ今と同じではなかったという。魔法を調べた古い記録には、どんなことが書かれているのだろう。
ルナは、エルフの街と世界樹へ向かうことを書き加えた。
ユニが手紙の端を押さえた。窓から風が入り、乾きかけた紙が動いていた。
ルナは最後に名前を書いた。
*
午後、明朝出る船の切符を買い、手紙を郵便の窓口へ持っていった。
「アステリアへお願いします」
宛先と料金を確かめ、封をした手紙を渡す。
あの研究室でエリスが読み、眼鏡を押し上げるところを想像すると、可笑しかった。
きっと、森のことから質問される。
宿へ戻ると、ネラが食堂で布を畳んでいた。
「ちょうどよかった。これ、持っていって」
渡されたのは、深い緑色の端布だった。
「あの硝子を包むのにどうぞ。布を買ったとき、切れ端ももらったの」
「ありがとうございます」
薄いのに、指へ柔らかく重なる。
ルナは部屋へ戻り、硝子の葉を新しい布へ包んだ。
*
翌朝、港の鐘が鳴る前に目が覚めた。
窓の外は、まだ薄い青色だった。
寝台の端では、にゃん吉君が丸くなっている。ユニはもう起きて、荷物をまとめていた。
「おはよう」
「おはようございます」
ルナは身体を起こし、切符を確かめた。窓に残った留め具も外す。
「行こうか」
にゃん吉君がふわりと浮き上がった。
宿の入口では、主人が朝食を包みにして待っていてくれた。
「船でも食べられるようにしといたよ。熱い汁はないけどね」
「ありがとうございます」
ネラも港まで一緒に歩いてくれるという。
外へ出ると、潮風が頬を冷やした。市場の半分はまだ布を掛けたままだが、岸壁にはもう大勢の人がいた。
樽が転がり、綱が引かれ、船の上から声が飛ぶ。
ルナは荷車の列の外側を歩き、船体の名前を切符と見比べた。
乗船を待つ列の手前で、ネラが肩へ手を置いた。
「いい旅を」
「ネラさんも。街で会えたら、よろしくお願いします」
「緑の布の窓よ。隣のお店ばかり見て、通り過ぎないでね」
ユニが真面目に頷いた。
「両方、覚えています」
ネラは笑い、列から一歩退いた。
*
船へ渡る板が、波に合わせて動いていた。
ルナは長杖で足元を確かめ、板を渡った。
船が揺れる。
腰の鞄へ手を添えると、直してもらった留め具が指に触れた。蓋は、きちんと閉じている。
ユニが続き、にゃん吉君は二人の間を抜けて甲板へ上がった。
案内された部屋へ荷物を置く。小皿の包みが動かないよう布を挟み、二人で棚へ固定した。
甲板へ戻ると、ネラがまだこちらを見ていた。
ルナが手を振ると、彼女も振り返した。
綱が外される。
船の鐘が、すぐ近くで大きく鳴った。にゃん吉君が一度だけ身体を揺らし、ユニのそばへ寄る。
岸壁と船の間に、細い水面が生まれた。
その幅が、ゆっくり広がっていった。
*
ルナは手すりの内側に立ち、離れていく町を見た。
魔大陸へ来たときには、白い森の帰り道が消えた。
今は、港から自分で船に乗っている。
長杖の紐を指先で押さえた。
ヘナは、今日もあの橋を渡るだろうか。
サジの祖父は来年の灯籠を考え始めているかもしれない。カイルはまた荷物を運び、ヴェラはミレアに本を返せと言っていそうだった。
そこまで考えて、小さく笑った。
「どうしました?」
「今度会ったら、聞きたいことがあるなって」
「魔大陸のことですか?」
「ううん。本、返ってきましたかって」
ユニは考えてから頷いた。
「それは、聞いてみたいですね」
港の人影が、小さくなっていく。
ルナはもう一度大きく手を振った。
*
風の当たらない場所へ座り、朝食の包みを開いた。
豆を詰めたパンが二つ入っていた。
魔大陸へ着いた翌朝に食べたものと似ている。
ルナは今度は、包みの上で割った。
中の豆も肉も、落ちなかった。
ユニが隣でそれを見ている。
「もう覚えたよ」
「はい」
二人でパンを食べた。
にゃん吉君には、分けておいた小さなパンがあった。顔を近づけると、端から少しずつなくなっていく。
ルナは港の方を見た。
建物の形は、もうはっきりしない。
ラウネへ戻ろうと思えば、戻れた。
あの日、もう少しこの土地を見たいと言ってよかった。
ルナは包みの端に残った豆を拾い、最後の一口と一緒に食べた。
「次は、エルフの街だね」
「まず、人間の大陸の港です」
「ちゃんと覚えてるよ」
ルナが言うと、ユニは微笑んだ。
ネラが教えてくれた窓の色も、世界樹の葉の音の話も、覚えている。
ルナは立ち上がり、長杖を持った。
海の向こうへ、船は進んでいた。




